極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

余命という意識

2010年04月26日 | 現代滋賀思想

またひとつ 足跡見つけ 降臨の 眩しき光 われの手にあり



【余命という意識】

不思議な夢を見、目をさます。それは自分の弔
いの野辺送りに随行しているようで、いよいよ
死に直面し生(性)を失う抗いを見ながらそれ
は「自分ではない」という反問を確認に「わた
しなら受け入れるはずだ」と納得させている夢
だ。暫くして、それは「余命という意識」だと
いうことに気づきながらブログを書き込む。


 ISBN978‐4‐620‐31956‐8


秋立つ宵のこと
蒼穹を西の方によこざまに
一個の生首が飛んでいった
軍鶏のちぎれたあたまみたいな
筋ばった人の首であった

紺瑠璃の空を
東から西へ
首がわたりきるのに
三分と四十一秒を要した

その間赤いものは
なにも滴ることがなかった
雷はなかった
楽の音もなかった

首は喘いでいるようであった

あれは憤怒の顔ではなく
忍苦の形相でもなく
口を半開きにして

世の中をなめたみたいに
ヒャラヒャラと
笑っていたようである
真相はつまびらかでない

飛ぶ首にかんしては
それ以外の諸現象は事実ではないので
他に伝えるべきではない

一個の首が蒼天を西の方に
ビュービューと飛んでいった
ただそのことのみを想像せよ

首が天翔(あまがけ)た
秋立つ宵
私はじっとそれを見あげていたのだ

私の生首を

                     辺見庸 詩集『生首』

アマゾンからメール案内が届き、辺見庸の詩集 『
生首』を検索する。ウエスト・ランド(荒地)だの、谷
川雁の詩の一篇を思いめぐらす。時間があれば読
んでみよう。


 Paul Volcker

【その後の金融危機】



金融商品などの信用取引のレバレッジ(梃子)
はその下部構造社会を活性化し、やがて崩壊に
至る過程を、百年前の恐慌との相違と類似を鮮
明にさせなが終息に向っている。『浮益を追わ
ず』は住友銀行祖の伊庭禎剛の言葉であったと
記憶するが、米国オバマ新政権のポール・ボル
ガーもGSなど米大手銀行が手がけているCD
Sや合成CDOといったデリバティブが、金融
バブルの崩壊をひどくすると批判するボルカー
も「
銀行は、預金者から金を集め、それを必要
な企業や個人に融資し、わずかな利ざやで経営
するという、本来の銀行業務に立ち戻るべきだ

と伊庭と同じようなことを主張している。デリ
バティブなどの「金融技術」は詐欺で厳しく規
制すべきだと言い「銀行が発明した役に立つ唯
一の新技術は(ぼろ儲けのデリバティブ技術で
はなく、本業の効率化を実現した)ATM(現
金自動支払機)だ」とも。



【近江の賢人:伊庭貞剛】

ここで、近江の賢人であり住友銀行二代目頭取
の伊庭禎剛の思想に触れておきたい。伊庭貞剛
(いば ていごう、弘化4年1月5日(1847年2月
19日)大正15年(1926年)10月22日)は、第二
代住友総理事である。明治時代の実業家。「別
子銅山中興の祖」といわれ、明治時代に東の足
尾、西の別子と言われた、住友新居浜精錬所の
煙害問題の解決にあたり、環境復元にも心血を
注ぎ、企業の社会的責任の先駆者と言われてい
る。元聖心女子学院理事長、元聖心会日本管区
長の伊庭澄子は孫。近江源氏佐々木氏支流で

庭氏一族


------------------------------------------
1847 近江国西宿村に生まれる
1863 勤王の志士、西川吉輔に入門
1868 西川の求めに応じ京都御所禁衛隊に属し、その
   後司法権中検事、函館裁判所副所長、大阪上等
   裁判所判事などを歴任
1879 叔父、広瀬宰平の勧めで住友に入り、大阪本店支配人となる
1887 石山に隠棲の地を購入
1890 滋賀県選出初の衆議院議員
1894 別子銅山の紛争解決のため、鉱業所支配人として単身赴任
1895 尾道で住友家最初の重役会を開き、住友銀行の創立を議決
1899 別子の支配人を鈴木馬左也に譲り、本店に帰任
1900 二代総理事に就任
1904 引退し、石山に隠棲
1926 10月23日、永眠。享年80歳
------------------------------------------

1847年(弘化4年)近江国蒲生郡西宿村(現滋賀
県近江八幡市)に伯太藩代官の子として出生す
る。1868年(明治元年)に京都御所禁衛隊に所属
、翌年には京都御留守刑法官となり、さらに同
年弾正台巡察局に出仕。後に昇進し函館裁判所
に勤務するが、官吏の世界に失望し辞職、住友
の総理事をしていた叔父・広瀬宰平の勧めによ
り1879年(明治12年)に住友に入社。三ヵ月後
に本店支配人となった後も住友家から才覚を高
く買われ、さまざまな役職を経験。1880年(明
治13年)に五代友厚、山本達雄らとともに私立
大阪商業講習所を設置した。同所はのちに府立
商業学校となり、現在の大阪市立大学の前身。
多数の公職に請われて就いたほか、大阪紡績株
式会社(のちの東洋紡)の設立にも参画、役員
となった。このほか、大阪商船の再建などにも
参画した。1890年(明治23年)衆議院議員に当
選(滋賀第3区)。

 広瀬宰平

1894年(明治27年)に新居浜に赴き、四阪島へ
の精錬所移転を計画。当時、四阪島は大島や弓
削島の島民の所有地であったが、住友が動いて
いると悟られないよう、腹心の社員に命じて伊
庭の個人名義で買い取り、精錬所を移転した。
また、銅山の開発により荒れるがままになって
いた西赤石山系の山々に「別子全山を旧のあお
あおとした姿にしてこれを大自然にかえさねば
ならない」として、植林を施すなど、環境復元
にも心血を注いだ。それらの山林は、後に管理
会社として住友林業が設立され、今日まで住友
の山として受け継がれている。足尾銅山の鉱害
を追及していた田中正造も伊庭の一連の行動を
評価し、別子銅山を「我が国銅山の模範」とま
で言い切っている。


 田中正造

1895年(明治28年)に大阪と別子から集まりや
すいよう尾道市で、住友の重役会議である会議
(後に「尾道会議」と呼ばれる)の議長を務め、
合議制とするなど経営の近代化を推進、この時
住友銀行の創設が決まった。明治30年1月総理事
心得に昇任、1899年(明治32年)に四阪島工事
着手を見届けたのち新居浜を離任。明治33年総
理事へ昇任。


Old iba house02s2400.jpg

1904年(明治37年)に「事業の進歩発展に最も
害するものは、青年の過失ではなくして、老人
の跋扈である」として総理事を辞し引退、また
「もしその事業が本当に日本の為になるもので、
しかも住友のみの資本では到底成し遂げられな
い大事業であれば、住友はちっぽけな自尊心に
囚われないで何時でも進んで住友自体を放下し、
日本中の大資本家と合同し、敢然之を造上げよ
うという雄渾なる大気魄を絶えず確りと蓄えて
居ねばならない」という言葉も残す。

IMF Spring Meetings

U.S.Real Estate:How it affects your financial future
 China: What every investor should know.

要は田中宇が仮構するような〈多極主義〉では
なく、デリバティブを規制するリスク→金融危
機が再発し、米国債やドルの崩壊を超える構想
をボルカー自身が持っているかどうかであり、
逆説的にはその政策ベクトルが、金融危機を抑
え、米国債やドルの崩壊を防ぐ開明的な実験で
あることを意味しているとわたし(たち)は考
えている。


クリックすると新しいウィンドウで開きます
ニベ(鮸、Nibea mitsukurii)はスズキ目スズキ亜
目ニベ科に属する魚である。シログチとともに
関東では「イシモチ」、関西では「グチ」と呼
ばれることがあるが厳密には両者は異なる。外
見上では、鰓蓋上部の黒色斑の有無(ニベには
ない) や体側の小黒色斑点列の有無(ニベに
はある)で区別が可能である。「イシモチ」と
いう通称はその耳石の大きさに。「グチ」とい
う通称はその「ぐうぐう」という鳴き声に由来
する。東北沖以南や東シナ海に生息。近海の泥
底に棲む。幅広く調理できる白身魚である。



鰾(うきぶくろ)を煮詰めて作る膠(にかわ)
がきわめて粘着力の強かったことから、接着剤
の代名詞となった。かつては弓を作るときにニ
ベの膠が使われていた。現在は鹿の皮が弓の膠
の原料になることが多いが、鹿由来の膠もニベ
と呼ばれている。弓の膠は引き味を左右する一
つの大きなファクターで、ニベ弓にこだわる弓
道愛好家も存在する。またそのべたべたした性
質から愛想や世辞を表す言葉にも転じた。無愛
想な様子を表す「にべもない」という慣用句は
ニベに由来する。



一般に、塩焼きで食べるのだが、鮮度さえよけ
れば刺身も可。しっとりとした白身は旨味甘味
があって刺身にして最上のものとされる。近海
でとれるものは小振り手間がかかるが刺身や握
り寿司に適したものが多いがニベもそのうちだ。




【名言ひとつ】

言葉は八分でとどめて、
後の二分は、むこうで考えさせるがよい。
わかる者には言わずともわかるが、
わからぬ者には、いくら言ってもわからぬ。

               伊庭貞剛

わたしも彦根にきて、映画「沖縄」「狭山差別
事件」「襤褸の旗」などの自主上映運動を手が
けてきたが、そうですか田中正造との関係があ
ったのかと、バブルで知った伊庭貞剛の偉業だ
が、いままた、米国発金融危機でそれを再認識
するとともに運命的な感慨にひたる思いだ。



さて、ポール・ボルガーのつづきを。
多極型の新世界秩序の中枢に位置することにな
るG20の事務局となるIMFは最近、金融機関
に対する世界的な課税体制を作ろうとしている
という。この税収を管理するのは「世界政府財
務省」→IMFで、税収は金融バブル崩壊の再
燃を防ぐために使うことになっているが、銀行
だけでなく、ヘッジファンドなど金融界のあら
ゆる企業体から徴収することを予定していると
いう(「IMF's ‘punishment tax’ draws fire from bank-
ing industry
’」)。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 海緋鯉と抗眼精疲労 | トップ | 狐魚と桃ラーと電気自動車 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

現代滋賀思想」カテゴリの最新記事