極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

南海・東南海要警戒

2018年07月29日 | 時事書評

 


                                 

『三 略』(さんりゃく)
略は「機略」「戦略」の意味。『六韜』(ろくとう)と並んで『韜略』といわれる。六世紀ごろ
の成立。『三略』は神秘的な成立伝説にいろどられており、今日の目でみると、時代がかってい
る部分が多い。上略・中略・下略の三笥から成るが、その中から現代にも通ずる部分を選んで訳
出する。



【一村 奄美で大華絢爛】

 

 
第15章 農薬入りのトマトか、添加物入りのトマト缶か
第2節 ガーナ共和国、ブロングuアハフォ州テチマン地区タオポダム村

本質的な問題は、なぜ今これほど多くの移民がいるのか、ということです。三年前にわたしがラン
ペドゥーザ島に行ったとき、この現象はすで始まっていました。そもそもの始まりは、中東とアフ
リカでの戦争と、アフリカ大陸の開発途上国における飢餓でした。戦争が起こるのは、武器を製造
する人々がいるからです。でもこれには、防衛のためという意味もあるのでしょう。一番よくない
のは、武器を密売する人々がいることです。これほど失業者が多いのは、労働を生みだす投資が不
足しているからです。とくにアフリカにおいてその不足は顕著です。そのことは、世界の経済シス
テムが拝金主義に陥ったことを示しています。世界の富の80パーセント以上を、わずか16パー
セントほどが独占しています。完全な自由市場というのは機能しないのです。

                                ローマ教皇フランシスコ
                    「移民を受け入れなくてはならない」ラークロワ紙
                                2016六年5月16日

第5節
トマト市場の周辺に一般消費者向けの市場が立ち、女たちが屋台で食品を売っているが、ここには
トマトはほとんど出ていない。人気があるのはむしろよその国から輸入されたマトペースト缶だ.
トマト生産者のクワシ・フオスといっしょに、市場を歩いて回る。フオスはトマトペー缶の屋台の
前で足を止め、わたしにこう言った。

「しかたがないさ、おれたちが作ってるトマトに比べて、トマトペースト缶のほうが日持ちるから


なかなか鋭い。おそらくフォスは口にすることで、自分にそう言い聞かせているのだ。わたしはこ
の機会を利用して、フオスにある質問をした、答えを知っているのに、あえて知らないふりをして。

「これらのトマトペースト缶はどこから輸入されたの?」

フぉスは、ガーナでもっともよく売れているブランドのひとつ、インドの大手流通グループ、ワタ
ンマルの「ポモ」の原産国を販売員の女性に尋ねた。ブランド名の「ポモ」とはもちろんイタリア
の「ポモドーロ(トマト)」の略称だ。 

「これはイタリア産ですよ」

販売員は自信たっぷりにそう言い、味や食感のよさを絶賛した。その姿を見ていると、商品の正体
を暴露することにためらいを感じる。だがわたしは、フォスにその缶詰のラベルを
読んでみるよう
それとなく促した。

「中国産!?」

フォスはラベルの原産国名を読んだ途端、ロをあんぐり開けてあっけにとられた。販売員の女性も
同様だった。

「中国!?‥ 中国だと!?」

フォスは理解に苦しむというように、何度も繰りかえした。

「どうしてあんな遠くからこんなところに輸出してるんだ?」

わたしたちは、市場に出ているトマトペースト缶をかたっぱしから調査することにした。即席のジ
ャーナリストとなったクワシ・フォスは、次々と缶詰の原産国を調べあげた。ボモ、ジー
ノ、テイ
スティ・トム、ラ・ヴオンス、タム・タム………ガーナで人気が高いトマトペースト
缶はすべて中
国産だった。20
人以上の女たちが、中国産トマトペースト缶を屋台で売っていた。先ほどの販売
員は
「てっきりイタリア産だと思っていたのに」としきりに繰りかえしながら、ガーナでこの商品
を扱う
扱う流通業者や販売量まで詳細に教えてくれた。400グラム入り缶詰が24個入った箱が
売りきりになる
までは三日ほどかかるが、70グラム入りミニパックは一日平均50袋も売れると
いう。

 ここ数年、ガーナでは、缶詰より使いきりのミニパックのほうが人気が高い。だが、メーカーにと
ってこのパッケージは、缶詰よりコストは安くてすむがコンテナ輸送には向いていなから
い………
つまり、いまや缶詰メーカーは、中国で生産した商品をアフリカに輸出するの.
現地の工場でドラ
ム缶入り中国産濃縮トマトを加工・パッケージングするようになったのだ。

「こんなことが続いたら、おれの子どもたちはガーナを出てヨーロッパに行かなければならなくな
る!」と、クワシ・フォスは嘆いた。
「こんなに安く売られている中国産のトマトペーストを相手に、おれたちが作ってるトマトがどう
やって太刀打ちできるっていうんだ?無理に決まってる!」
そのとき、トマト市場のほうに数台のトラックがやってきて、幹線道路の路肩に停車した。
にわかに周辺があわただしくなる。床の上にうず高く積まれたトマトの木箱が、トラックの荷台に
次々と積みこまれる。「女王」たちは、あちこちに指示を出し、箱を何度も数えなおし、紙幣のや
りとりをしている。日が暮れかかっていた。とうとうすべての商品が片づいて、長い一日が終わり
を告げた。

わたしは偶然、リビアから帰ってきたあの青年を見かけた。オレンジ色のTシャツのおかげで、遠
くからでも見分けられたのだ。わたしは彼のところに近づき、ヨーロッパヘ渡った若者が村にいる
かと尋ねた。
「ええ、もちろんいますよ。たくさんいます.トマトやほかの作物の栽培に失敗して、財産を失っ
た若者たちです。先週もひとりヨーロッパに向かったばかりです」

第16章 アフリカを席巻した中国産トマト
第1節
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2015年、アフリカと中近東から100万
人以上の不法移民が地中海経由でョーロッパに渡ったという。だが2018年には、その数は3分
の1に減少している。理由のひとつに、2016年3月に締結された「EU・トルコ声明」がある。
シリアからの難民がギリシャに流入するのを防ぐためにとられた措置だ。これによって、2016
年6月までの間、ギリシャに不正入国したシリア入難民をトルコに送還する代わりに、EUからト
ルコに60億ユーロを支払うという契約が結ばれた

その一方で、アフリカからイタリアにやってくる不法移民の数はあまり変わっていない。2016
年は年間15万人と、前年に比べてほぼ横ばいだった。リビアからイタリアに向かういわゆる地中
海中央ルートは、アフリカからョーロッパヘの主要経路となっているが、横断するには多大な危険
が伴う。2015年には3771人、2016年には五000人以上が、海を渡る途中で命を落と
している。

ここ数年、海で遭難した難民を撮ったショッキングな映像が世界中に広まった。命からがら救助さ
れた生存者や、白い布をかぶせられた遺体が映され、世界の映画監督、カメラマン、アーティスト、
小説家などに大いに着想を与えた。そのむごたらしさは、ボランティア、NGO、政治家、聖職者
たちの心を動かし、ヨーロッパ中で論争が巻き起こった。
だがこの件で、グローバル経済の影響について言及する者はほとんどいない。しかしこの現象の根
本的な原因が、資本主義に特有の経済戦争が世界に広まったことにあるのは明らかだ。
2015年から2016年までにイタリアにやってきた30万人のアフリカ人移民の多くは、故郷
で農業に従事していた。ところがそれでは生活できなくなったため、ヨーロッパに働きに出ようと
考えたのだ。

2016年3月、南イタリアのブッリャ州のナルドからレッチエヘ向かう列車で、アフリカ人移民
の男性に出会った。セネガル北部出身で、年齢は40歳。かつてセネガルは濃縮トマトの原材料を
すべて国内生産していた。男性も故郷でトマトの収穫をしていたが、暮らしていけなくなってイタ
リアに来たという。奇遇にもそのときわたしは、プッリャ州でトマトの収穫をするアフリカ人移民
の労働条件について取材をしている最中だった。わたしは男性の話に耳を傾けた。イタリアでの仕
事は不法労働で、報酬は出来高制。さんさんと照りつける太陽の下で丸一日働いて、20ユーロか
ら25ユーロくらいしかもらえないという。シチリア島南方のランドウーサ島にボートでたどり着
いたときのこと、プッリャ州で厳しい生活を強いられていることについても話してくれた。そして、
なつかしむような口調でこう言った。

「セルガルでのトマト収穫も決して楽ではなかったよ。もうけも少なかったし。でもやっぱりセネ
ガルで仕事をしていたころがなつかしい。少なくとも、奴隷のように扱われることはなかったから
ね」そのことばは、自由貿易が人間にもたらした結末を簡潔に言い表していた。

第2節
1960年8月20日、フランスから独立した直後のセネガルで、あるトマトペースト缶ブランド
が誕生した。その名は、ディエ・ブ≒ディア。セネガルの共通語であるウォロフ語で「ひっばりだ
こ」という意味だ。サントナック‘グループ傘下のトマト加エメーカー、ソカスの商品で、今も生
産されている。サントナック・グループは、1902年からセネガルに在住するフランス人、ジャ
ンーサントナックが設立した食品会社だ。植民地時代、ジャンの父親はピーナッツを扱う商社で働
いていたという。

ディエ・プ・ディアのバッケージには、トマトが入ったカゴを頭上にのせているアフリカ人女性が
描かれている。1960年代、セネガルに加エトマト産業を広めたのは、イブライマ・フェディオ
ールとドナルドーバロンのふたりだった。フェディオールはセネガル人のトマト生産者で、加工ト
マト業界の重要人物だ。セネガル全国農業協同協議会の会長にも就任している。バロンはフランス
人企業家で、今は現役を退いているが、長年セネガルでもっとも影響力のある実業家のひとりだっ
た。独立直後、セネガルに移住した当時のドナルド・バロンは、サントナック・グループの子会社
で働く農業技術者にすぎなかった。だが、1969年にグルーブ子会社のソカスを立ち上げたのち
にグループ代表に就任。セネガル政府にコネクションを持ち、セネガル全国経営者評議会の副会長
も務めている。世界貿易機関(WTO)閣僚会議に参加したときは、セネガル企業の保護を世界中
に訴えた。

ソカスの歴史は、セネガルの加工トマト産業の歴史でもある。1965年にトマト栽培の実験を行
ない、1969年に最初の試験的なパイロットプラントを立ちあげた。そして1972年、セネガ
ル北部のサヴオワヌに初のトマトペーストエ場を設立する。工場の一日当たりの生産量は200ト
ン。数千トンのトマトを収穫できる農地も開拓した。
サヴオワヌは、北大西洋沿岸の大都市、サン・ルイから30キロメートルのところにある小さな村
だ。だが、セネガルの歴史を語るのに避けることのできない場所でもある。セネガル初代大統領、
レオポール・セダール・サンゴールによって、農業開発のための実験農場に指定されたのだ。19
64四年、サヴオワヌにフィールドスクールが開設され、軍に所属する20歳未満の独身男性たち
が農業研修を行なった。参加したのは志願者数百人ほどで、彼らは「独立のパイオニア」と呼ばれ
た[1]。一定期間、農業、軍事、社会生活などの研修を受け、課程修了後に小さな土地をもらうこと
ができた。こうして軍隊管理下にあった数年間で、サヴオワヌは見事な農業地帯に生まれ変わった。
堤防、橋などの泥流設備も整備された。

独立後1960年から1986年までのセネガルの農業・商業政策は、輸入を減らして国内生産を
増やすことに主軸が置かれた。いわゆる保護主義政策だ。1972年以降、フランス資本の会社で
あるソカスは、現地の生産者に無償で技術支援を行ない、生産されたトマトをすべて買いとると約
束した。ソカスがトマトペーストの国内需要に応えて、トマト生産者を保護するのと引き煥えに、
国内市場でのソガスの地位が確保されるという契約をセネガル政府と交わしたのだ。ソカスはその
ために回一〇匝CFAフラン以上を投資し、主にサン・ルイ地方で業績を伸ばした。独立後から1
986年までのセネガルは、外国製品の輸入を禁止または制限し、一部の優遇された企業だけが市
場をほぼ独占できるようはからっていた。そしてこの時代、ソカスのトマトペースト缶、ディエー
ブーディアは、セネガル市場を完全に独占し、西アフリカにおけるトマト加工品のパイオニア的存
在になった。

こうしてソカスはみるみる発展し、成功した事業例としてあちこちで引き合いに出されるようにな
った。1976年には、セネガル郵便局が「加エトマト産業」と題した切手を発行している。トラ
クターを運転する生産者の右下に、赤く熟れた美しいトマトがふたつ並んだデザインだ。そのころ、
ディエ・ブ・ディアは、セネガル国内のトマトベースト需要を十分に満たしていた。ソカスの経営
者はフランス入ではあったが、少なくともセネガルは独立当時の目標を達成していた。つまり、自
分たちが食べるものを自分たちで作れるようになったのだ。

1986年、セネガルのトマト畑が砂嵐の被害に遭ったため、外国からトマトベースト缶が輸入さ
れた。輸入量はごくわずかで、国内生産量を大きく下回った。だがこの災害を教訓として、農学者
でトマト生産者、トマト関連産業委員会の元会長だったイブライマ・フェディオールによって対策
が講じられた。砂嵐による被害を食いとめるため、50ヘクタールの農地のまわりに5000本の
樹木が植えられたのだ。砂漠の周辺に設置される防砂林をヒントにしたもので、この方法はその後
の災害対策の規範とされた。[2]

同年三月、セネガルは独立以来続けてきた保護主義政策を終了し、代わりに「新産業政策」
をスタ
ートさせた[3]。市場を全面的に間放し、国際競争の仲間入りをしたのだ。また、西ア
フリカ経済
通貨同盟に加盟する8
カ国(セネガルを含む)は、国際通貨基金(IMF)と世界銀行の支援を受
けて一構造調整計画」を進めることになり、貿易の自由化が促進された。

さらに数年後、ショック療法が行なわれた。1994年1月11日、アフリカのCFAフラン圏2
カ国(セネガルを含む)とコモロ・イスラム連邦共和国(現コモロ連白)において、
構造調整計画
の一環で通貨切り下げが行なわれたのだ。目的は、国内企業の国際競争力の向
上、貿易収支と経済
成長の回復、貿易赤字の削減にあった。セネガル政府は国有企業の多くを
民営化し、多くの商品の
専売制を廃止した。

そのころ、中国はまだ濃縮トマト業界でそれほど大きな存在ではなかったが、イタリアからの技術
移転のおかげで頭角を現しつつあった。一方、1990年代初め、セネガルのトマト生
産量とトマ
ト加工品生産量は記録的な数字を打ちたてていた。6万トン近いトマトが加工され
ており、これは
サブサハラ地域では群を抜いていた。ところがそれに続く数年間で、トマト生
産量は急激に落ちこ
み、2000年には2万トン以下に減少した中国製品がとうとう世界市
場に進出してきたからだ
しかもありえないほどの激安価格で。

セネガル経済は自由化され、市場は完全にオーブンになった。外国産トマトペースト缶の輸入量も
過去に例がないほど急増した。400トンから6000トンヘと15倍に増えたのだ。
それに反比
例して、セネガル国内の生産量は2分の1に減少した[4]。6000
トンのトマトペーストは、ト
マトに換算すると7倍の4万2000トン分になる。つまりセネガルは、2000
年代初め、中国
から4万2000トンのトマトを輸入に頼っていた計算になる。それは実
際、セネガルで一年間に
生産・加工できる量にほぼ匹敵した。その分か輸入に回ったのだ。

ソカスはそれでも生産を続けたが、さらに大きな問題が立ちはだかった。国内に強力な競合会社が
立て続けに登場したのだ。2004年にはレバノン入が経営するアグロライン、そして、2011
年にはタカムールが事業をスタートさせた。セネガル市場に進出した当時の同社は、当然セネガル
産トマトを使用して製品を作ると期待されていた。ところが実際は、同社とも再
加工工場をトマト
畑ではなく港に近いところに建設した。中国産のドラム缶入り3倍濃縮トマ
トを希釈して2倍濃縮
にし、缶に詰めなおして売るためだ。南イタリアのトマト加エメーカ
ーとまったく同じやりかただ
った。

セネガルの加工トマト産業は、うまく組織立って活動していたにもかかわらず、みるみる弱体化し
ていった。ソカスも競争力を失った。それもそうだろう。2009年、中国産濃縮トマ
ト1キロの
輸入コストは、関税を含めても、ソカスの濃縮トマト1キロの生産コストの2分の1
にすぎなかっ
たのだから。ディエ・ブ・ディアは、実績・技術力・信頼のある会社によっ
て、セネガル産トマト
を使って作られた、品質がよくておいしいトマトペーストだ。だが、
格競争の前には無力だった。
セネガルにも資本主義の風が吹いたのだ。関税障壁が撤廃され、
中国は自らの法をセネガルの市場
に持ちこんだ。


そして、悲劇は2013年に起きた。サンールイ州ダガナ県にある、ソカスのトマト加工工
場ふた
つのうちのひとつが閉鎖されたのだ。84人の従業員が解雇され、数百人のトマト生産
者が貴重な
買い手を失った。建物は解体されることなく放置され、今も廃墟のまま残されている。

 

工場が閉鎖されたとき、セネガルの野党勢力は、ソカス代表のドナルド・バロンを「ならず者社長」
と批判した[5]。工場閉鎖に反対する野党議員にとって、政府与党に近いフランス人経営者は格好
のターゲットだった。バロンは一植民地主義を復活させた人間」と呼ばれ、インターネット上
でも
あちこちの記事でそう書かれた。

実際、ソカスエ場の閉鎖は、ひとつの時代の終焉を意味していた。20世紀後半の、フランス企業
とセネガル政府との密接な関係によって生まれた一新植民地主義」が、こうして幕を閉じたのだ。
ソカスが工場をひとつ失ったのは、アフリカの新たな資本主義勢力図で、アフリカに進出してきた
中国、「チャイナフリカーに対抗して負けたからだ。トマトペースト缶の生産工場の消滅はその表
れのひとつにすぎない。

2012年から2015年まで、ソカスでは赤字決算が続いた[6]。中国産濃縮トマトの価格はや
や上がったが、それでもディエ≒フ・ディアの価格は、中国産濃縮トマトを希釈したライバル会社
の商品より三〇パーセントほど高かった。セネガルの加工トマト産業は、西アフリカのほかの国々
とは違ってインフラが整備され、現地で栽培された生トマトを使う生産ノウハウも持っていた。国
内需要に応える生産力を持ち、近隣諸国に輸出できるほどだった。だが、中国産濃縮トマトとの競
争のせいで、セネガルの貿易収支は落ちこんだ。セネガルの濃縮トマト輸入量は、2013
年は1
000万ドル、2014年は829ドルだった。そのほとんどが中国産だ。

今日、アフリカが輸入する濃縮トマトの70パーセントが中国産だ。西アフリカだけ見れば、その
割白け90パーセントに達する。ディエ・ブ・ディアは、セネガルのテレビでユーモラスなCMシ
リーズを流して、商品が国産であることをアビールしている。怪しげな商人がセネガル人女性に香
水やハンドバッグなどの輸入品を無理やり売りつけようとする。そこに空から巨大なディエ・ブ・
ディアの缶詰が降ってきて、商人を押しつぶす。最後に200パーセントセネガル産ディエ≒フ・
ディア」というナレーションが流れる。CMのなかで勝つのはIセネガル産」のトマトベースト缶
だが、はたして現実ではどうだろうか?

                    ジャン=バティスト・マレ著 『トマト缶の黒い真実』 
                                 
                                     この項つづく

    ● 今夜の一曲

Come For A Dream  Dusty Springfield

 

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