『 ヘボのアルバム 』

“ヘボ”ちゃんをこよなく愛する蜂狂さんとのコミュウニケーションの場です・・・

    『 “コバクロ”の思い出・・・ 』

2007-03-11 13:39:28 | Weblog
          

イヤァー、久し振りに風邪を曳き、これが、中々、治らなく生し返しが続いている・・・ 
自分では判らないが、これが、老い耄れの始まりかも知れない?  
この所、名付け親、ドクちゃんの『コバクロ』についてクダラナイ事を書いているが、明らかに外観上差がある事は明らかだと確信する・・・
実は、この“ヘボ”ちゃん、yの知る限り、そうは、沢山、居ない・・・これは、信州の一地域に限ってと言う事かも知れない。yの遊び場は、信州の南進、中信、それに北信の一部に限られている。他県の事は殆ど知らないと言った方が当っているだろう。 そういう、条件付で見て頂きたい。

子供~学生~サラリーマン時代の若かりし頃は、遊び程度に年何回か“ヘボ”ちゃんと戯れた程度で、本当の事は判っていない。
従って、ここ14~5年間の事に限定されてくる。
これまで、『コバクロ』に出会ったのは30数巣程度であろうか?初期の内は燻して掘り上げる事が多かったが、最近は、なるべく残すように心掛けている・・・
この30数種の記憶に残る事例を書き綴って見たい・・・
記憶に残る事例となると、当然、自然巣でも4kgを越える超ビッグ・サイズと言う事になる。このようなものは、年にそう何回も出会える訳ではないのだ!!!
先ず、第一に、“ヘボ”が、『コバクロ』でなければならない。 第二に、営巣地の環境、つまり、餌場である。延々と続く闊葉樹林がある事。第三、土目が石コロ等無い深い腐葉土もしくは、粘土層である事・・・
この三条件が揃わないと、先ず、巨大巣にはなりえない!!!
その点、飼い蜂は、第二、三の条件が満たされているので、『コバクロ』さえ捉れば、5~6kgのコロニーに仕立て上げられるのは容易な事となる。
と言う事で、茲では、飼い蜂は、取り上げない事にする・・・

yの親爺は、小さな材木商をする傍ら、殺生が好きで、『ジスガリ(信州諏訪地方では、“ヘボ”の事をこう呼ぶ・・・)』や『茸』等を年中取り歩いていた。
そんな環境だったので、『ジスガリ』は四六時中見てきたし、飼い蜂もやってきた。もう国民学校1年の時には、子供なりきに、蜂追いをし、1巣見付けていたし、『ジスガリ』や『軍』と言う言葉も知っていた。
確か中学1年の時だったと思うが、秋、僅かばかりの稲の収穫を、早々、終え、親爺を先頭に、弟達と透かしに出掛けた。
もう4時を廻っていただろうか?親爺が、今で言う、『通し』を使い、先ず、1巣仕留めた。夕日や朝方は『通し』に限るね・・・
そして、6時を廻った頃、空を見上げ様に、フト、振り向くと、yの2~3m先から物凄い噴き上がりの一群を見た。
親爺と休みの日によく蜂追いに出掛けたが、こんな光景は見た事がなかったので、今でも、根強い印象が残っている。
巣穴の口径10cmはあったであろうか?物凄い噴き上がりだった。流石の親父も手が付けられず、日がトップリ落ちて、薄暗くなってから花火をブッ込んだ!!!
花火も日頃使うものを10本も拠り直し、効きのいい花火にしてであった。
暗い中、苦労して、蜂を払った記憶がある・・・
そして、盤面、50cm×30cmの小判型の巣盤が12枚あった事を覚えている。
親爺さんは、『1貫5百匁(5.5kg)もある巣をよく見つけたなぁ---』と言ってニコニコしながら褒めてくれた。
そして、暫くの間、座敷のテーブルの上に置かれていた・・・

これが、yが始めて出会った、『軍』と言うものだった。
親爺が、近所の蜂狂達とよく口にする『軍』と言うものを理解出来た一齣でもあった。。。

今日の写真は、こんな物が、アルバムから出てきたのでお披露目したい。60年も前の物だろうか?  
当時の蜂狂は、車等有りはしないから、コウカケを履き、脚絆を附け、魚籠を背負って、5km、10kmの道程を歩いたものだ・・・そして、餌は?と言うと、ゲーロ(蛙、それも赤蛙)を生け捕りにし、何匹も袋に入れ、活餌として使っていた。
赤ゲーロは、肉も硬く、蜂追いにはモッテコイの餌だった。
奇妙にも、蜂狂:親爺さんの手には、赤ゲーロを剥いたのが2匹も付いている・・・
毎年開かれる悪餓鬼の同級会に出掛けると、『ジスガリ』と『ゲーロ』の話が出てきて、その周りは黒ダカリになる・・・
一寸、年老いた蜂狂が、懐かしがる光景だろうか?