徳丸無明のブログ

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戦後の時間は終わらない・後編

2018-04-24 21:58:54 | 雑文
(前編からの続き)

思想家の内田樹は、政治家や官僚や学者や知識人ら日本のエスタブリッシュメントたちが、戦後の日本社会の中で、「対米従属を通じての対米自立」を栄達の手段としてきたことを指摘している。


僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。日本人の場合、「のれん分け」というのは、わかりやすいキャリアパスなんですね。(中略)
だから、日本人にとっては、「主人に徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦の贈り物のごとく自立の道が開ける」という構図には違和感がない。(中略)
「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略は、敗戦直後の占領期日本においては、それなりに合理的な選択だったと私は思います。というよりそれ以外に選択肢がなかった。(中略)
そして、この戦略の合理性を確信させたのは、それなりの成功体験がもたらされたからです。
第一の成功は、1951年のサンフランシスコ講和条約です。この講和条約で、戦後6年目にして、日本は法的には独立を回復するわけですけれども、これほど敗戦国に対して寛容で宥和的な講和条約は歴史上なかなか前例がないものでした。(中略)
対米従属にはもう一度成功体験があります。沖縄返還です。(中略)
この二つの成功体験が日本人の「対米従属路線」への確信を決定づけたのだと僕は思います。(中略)けれども、その現実性がしだいに希薄になってゆく。
(内田樹『日本の覚醒のために――内田樹講演集』晶文社)


二度の達成のあと、日本はさしたる成果を上げられてはいない。にもかかわらず、その成功体験があまりに大きかったため、「対米従属を通じての対米自立」という戦略に「居着いて」しまったのだという。
内田は戦後という言葉には言及していないが、国家戦略を一度も変更することなくズルズルとここまで来てしまったことが「戦後」を終わらせられなかった原因とみていいだろう。ちなみに内田は、2005年の日本の国連常任理事国入りの失敗によって、「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略は事実上終焉し、それからあとは「対米自立抜きの対米従属」に移行したとも指摘している(『街場の天皇論』)。
この「のれん分け戦略」は、対米関係のみに効力を発揮するのではない。対米従属の度合いによって日本のエスタブリッシュメントの栄達が果たされてきたということは、どれだけアメリカに従属してきたかによって国内の力関係が決される、ということである。その対米従属戦略がアメリカに対し、あるいは日本に対し、そして日米関係に対して、どんな影響を及ぼすのかに関係なく、戦略それ自体が対米従属的であるというその事実が、栄達を求めるエスタブリッシュメント本人にとって有利に働く、ということである。
政治家や官僚や学者や知識人の組織形成がそのようなルールで成り立っているとすれば、具体的には何の成果も上がらない対米従属戦略であったとしても、それは出世競争の手段として選択され続けることになる。この構造を突き崩すには、どうしたらいいのだろう。

と、ここまで書いてきてこう言うのもなんだが、小生は何がなんでも戦後を終わらせねばならない、と考えているわけではない。ひょっとしたら、戦後を終わらせないほうが日本にとって有益なのではないか、という気がするのである。と言うのも、ここまで敢えて触れずにきたが、「戦後」にはもう一つのプラスアルファがあるのだ。
「戦後」のもう一つのプラスアルファ。それは言葉の意味ではなく、言葉が使われ続けている理由にある。
それは、先の戦争の反省。過ちを繰り返さず、平和を守り続けるという誓い。戦争で命を落とした人々の鎮魂を祈り、できうる限り世界にも平和を広めていきたいという希望。それら祈り、願い、誓いを忘却しないことを祈念して「戦後」という呼称は使われ続けているのだと思う。「今年は戦後何年目か」を確認するたびに何度でも戦時中、もしくは終戦の日に立ち返り、反戦の誓いを新たにする。「戦後」という言葉にはそんな働きがあるはずだ。
つまり、逆に言えば「戦後」が終わることは、先の戦争の反省を忘れ去るということ、反省の態度を捨て去るということを意味している。だとすれば、「戦後」という言葉は、再び日本を戦争に向かわせないための重しとして機能していることになるだろう。革新よりも保守のほうが「戦後」という言葉に敏感なのも――つまり、保守のほうが「戦後」を終わらせたがっているということも――、その事実を裏付けている。
安倍政権がその政治目標として掲げているところの「戦後レジームからの脱却」とは、まさに「戦後」という言葉の使用を終わらせるということ、先の戦争の反省を忘れ去り――と言うより、むしろ最初から反省などしていなかった͡ことにし――、日本を再び戦争する国に変えていくということに他ならない。特定秘密保護法の制定、集団的自衛権の行使容認、日本国憲法9条の改憲・・・すべてはそれを最終目標としている。
歴史社会学者の小熊英二は、2015年8月27日付の朝日新聞の論壇時評で、「戦後」とは「建国」の意であり、「戦後◯年」とは、敗戦によって大日本帝国が滅亡した後に建国された日本国の「建国から◯年」のことであると述べている。そして、その日本国を支えているのは、国のコンセプトたる憲法の1条と9条、及びそれらの前提となった東京裁判と日米安保条約であるという。
「憲法1条」「憲法9条」「東京裁判」「日米安保」、これら4要素に日本国は立脚しており、「4要素が変更されれば、ないしバランスが変われば、「戦後」は終わる」だろうと小熊は言う。
安倍自民党は憲法9条と東京裁判の変更を目指しているし(靖国神社の参拝は端的に東京裁判の否定である)、潜在的には、あるいは長期的には憲法1条と日米安保の変更をも目論んでいるのかもしれない。
保守勢力が「戦後」の終結を目指し、日本を戦争のできる国にしようとしているのであれば、「戦後」という言葉を使い続けること、「戦後」の使用を意地でもやめないことが、いくらかその抵抗になりうるのではないか。日本が戦争する国に舞い戻ることがないように、日本の時代区分はこれからも「戦後」であり続けるべきなのではないか。
ここで一つの疑問が生じる。これまでの議論がすべて正しいとするならば、「敗戦のツケを支払い続けること」と「先の戦争の反省を忘れないこと」は、相補関係にあるのだろうか。敗戦のツケを支払い続けているからこそ戦争を反省する態度が持続できるのだろうか。敗戦のツケの支払いを終わらせてしまえば、同時に戦争を反省する気持ちも消え去ってしまうのだろうか。あるいは、敗戦のツケの支払いを終わらせるためには、戦争の反省を忘却することが必須なのだろうか。小生は今、この疑問に答えを出すことができない。
このように考えると、日本社会のひずみの大きさをつくづく感じずにはいられない。国際社会からはいくら奇形的に見えようと、「戦後」が終わらないことが平和を維持するための条件ということになるのだから。
ならば、いっそのこと視点を反転させてはどうだろうか。「世界の笑いものになる」といった定型句に典型的に見て取れる、とにかく国際標準(実質的にはアメリカ標準)に合わせればそれが正解、という病的な信奉を良しとするのではなく、かつて「憲法9条を世界遺産に」というムーブメントがあったが(今も唱導している人いるの?)、それと同様に「戦後という時代区分を国際標準に」というメッセージを打ち出すのはどうだろうか。

「戦争が終わって何十年も経っているのに、「戦後」と言い続けるのは一見不自然に思えるかもしれません。しかし、その言葉の使用には戦争を反省する態度が込められているのです。日本国は、「戦後」と言い続けることによって何度でも終戦の日に立ち返り、反省の思いを新たにさせ、平和の時代を維持してきたのです。「戦後」が続くのは異常なことではありません。ひとつの国、あるいは共同体が戦争を放棄し、平和を恒久的なものとしたいと願うのであれば、むしろ「戦後」という時代区分を積極的に採用するべきです。私たちは「戦後」を推奨します。世界のすべての国が「戦後」の年数を数え続けることによって戦争の反省を持続させ、地上に真の平和が到来することを願います。「戦後」という言葉は、世界平和到来のための一助となることでしょう」

だいぶ夢想的に思えるかもしれないが、世界に向けてそうアピールするのはどうだろう。平和を維持することができるのであれば、敗戦のツケの支払いくらいその代償として甘受しても構わないのではないかと思うが(反米保守の皆さんからは猛反発されそうだね)。世界中の国々が「我が国は戦後◯年です」と、お互いの戦後の年数の長さを競い合うようになれば、それは世界平和の達成に資するのではないだろうか。
しかし、安倍政権は様々な批判を浴びつつも「戦後レジームからの脱却」に向けて着実に歩を進めている。彼等の目標がすべて達成される蓋然性は、決して低くない。
現時点で安倍政権は森友・家計疑惑問題などで支持率が大幅に低下しているが、これは「安倍内閣に対するNO」であって、「自民党に対するNO」ではない。このまま安倍晋三が首相の座から引きずり降ろされる確率は高いが、それでも自民党が下野することはまずないだろう。石破茂や小泉進次郎といった反主流派が神輿に担がれれば流れが変わるかもしれないが、安倍の意向を汲む者が後釜に据えられれば、首のすげ替えがなされただけで方向性はそのままということになる。
戦後レジームからの脱却が果たされるとき、確実に「戦後」は終わるだろう。その時、日本社会を待ち受けるものとは何か。アメリカの属国という屈従に甘んじていた方が遥かにマシだったと思う日が、そう遠くない将来に訪れるのかもしれない。


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4 コメント

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むう・・ ()
2018-04-25 15:20:30
ワタシ50年以上生きているのですが
いかんせん主婦とパ-トしかやってないので
この手の話(政治・経済)の引き出しが無いのですが

戦後と言うのは1945年のポツダム宣言の受諾と言うよりは
大日本帝国憲法を改訂し日本国憲法が施行された1947年から始まって
before Christ After his Deathと同じくらいの意味を持つ基準点であり
「戦後」は終わらなくて当然であり
終ってはならない感覚です
仰るように
世界平和の一助をなしうる言葉というのは本当にそうだと思います

ただ、他の国の人の考えてることって
文化や発想がもう全く違ったりするので
本当にわからないですね・・

子供二人産んでおきながら
戦争の起こらないうちに寿命来るといいな~とか
そんなこと考え始めていますね

麦さん江 (徳丸無明)
2018-04-25 23:55:39
僕も政治は苦手ジャンルでして、どうにかこうにか書いてますよ。
戦後は終わらなくて当然という感覚をお持ちなのは素晴らしいですね。
僕はこれまでそのようには考えていませんでした。
確かに、国によって、文明圏によって思考習慣は様々なわけですが、それでも家族や友人が命を落としたり、暮らしが破壊されたりするのは嫌、という感覚は共通項としてあると思います。
そこをうまく掬い取ることが肝要なのではないでしょうか。
全くその通り! ()
2018-04-26 00:29:37
家族や友人が命を落とすのは嫌
と言う共通項を掬い取る
そこだと思うのです
戦争を回避すれば暮らしの破壊が避けられる
こんなシンプルなことを
何故戦火にある諸国はわからないのか
もっと言えば神様を信じている諸国が
「右の頬を打たれれば左の・・」と言ってるはずの宗教を信じる国が戦争を辞さないその辺りの気持ちが全くわからなかったのですが
武器を作る国があって
戦争がないと潤わない富豪がいて?
侵略されたら抵抗するしかないから
なのでしょうね

人生後半に入ってもこんなふんわりした事しか言えないのは
平和ボケ
なのでしょうね・・( ̄▽ ̄)ゞ
麦さん江 (徳丸無明)
2018-04-26 22:35:59
平和ボケなのは必ずしも悪いことではないと思います。
平和や軍事防衛についてはリアルに考えねばならないっていう、難しい理屈並べる人たちいますけど、むしろその手合いこそが平和を遠ざけてる気がするんですよね。
平和のためには武装しなきゃならないって言いますけど、人間って武器を持つと、つい使ってみたくなっちゃうし、武器の力を自分の力だと勘違いすることで強気になって気軽にケンカ吹っ掛けたりして、武装しないよりも争いが起きやすくなるんじゃないかと思います。
それよりも、政治や軍事のことは何も知らなくて、コスプレして遊んでる人たちのほうがよほど平和的なんじゃないかと。
保守おじさんからしたらコスプレなんかやってる連中は平和ボケの最たるものなんでしょうけど、でも彼らはアニメやゲーム好きという共通点によって、いろんな国の人たちと簡単に繋がって仲良くしています。
世界中の全ての人がコスプレやるようになれば、それで世界平和の達成になるんじゃないですかね。

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