徳丸無明のブログ

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日本人はそれほど優秀な民族なのか・前編

2018-10-12 23:00:51 | 雑文
日本人の「内輪褒め」が止まらない。テレビや雑誌やインターネット、あらゆるメディアで如何に日本人は優れているかといった、自画自賛・手前味噌の言説が溢れている。そしてみな、その風潮に何ら疑問を持つことなく、当たり前のように日々享受している。
小生は、このムーブメントは日本経済の低迷と関連していると思っている。高い経済成長率を維持し、GDPが世界2位だった時期、「政治や文化はダメでも経済がある」と言い張ることができた。経済は、すべての日本人にとって、疑う余地のない自信の拠り所であった。
しかしバブル以降、その経済がダメになってしまった。そこで何か代わりの自慢のタネを、ということで、昔からの伝統や、今までは気にもとめなかった習慣などが美点として再発見された・・・。ということではないか。
自分達の美点を評価することそれ自体は悪いことではない。だが、小生はこの流行に乗っかりたくはないし、全面的に肯定するわけにもいかない、と思っている。現在の日本には、おもに朝鮮人や中国人に対して悪罵の限りを投げつける排外主義者や、歴史修正主義者がいる。彼等もまた、「日本を誇りたい」という願望から出発しているという点では、「内輪褒め」を好む人達と同根である。
日本を誇りたいという意識が、ポジティブに発現すれば「内輪褒め」になり、ネガティブな形をとれば排外主義や歴史修正主義となる。両態はコインの裏表であり、今はポジティブに内輪褒めに浸っている人も、何らかのきっかけで条件が変われば排外主義者に転じるかもしれない。だから、安易に「自国に誇りを持つことは素晴らしい」とは言えないのである。
そもそも、指摘されている日本人の美点とは、正当なものなのだろうか。全部が全部ではないにせよ、まず誇りたいという願望が先にあって、それに添うようにでっち上げられた、無理筋の美点もあるのではないだろうか。今回はそんな、無理筋ではないかと思われる「日本人の美点」を俎上に挙げ、批判を加えてみたい。もちろん日本人を貶めるためにそんなことをしようというのではない。「良いものは良いと認めているだけ」と考えている人には水を差すようで申し訳ないが、ポジティブな内輪褒めが、ネガティブな態にひっくり返る可能性がある以上、いくらかその熱量を下げ、事実を冷静に見つめてもらうことで、排外主義的発露を多少なりとも抑制できるのではないかと思うのだ。
これまで美点だと信じていたものを否定されるのは不愉快かもしれないし、日本、及び日本人のイメージが崩れ去るかもしれない。だが崩れ去った先に、真に理想とすべき国の姿が見えてくるかもしれない。そんな排外主義に結びつかない理想の在り方を提示できないか、というのが本論の目論見である。以上のことを踏まえたうえで最後までお付き合いいただきたい。

まず取り上げたいのが、平安時代の歌人、紫式部の『源氏物語』。これが世界最古の文学作品であるということで、「世界で最初に文学生み出した日本人スゲエ」という内輪褒めの典型となっている。『源氏物語』が世界最古という説には異論もあるようだが、仮にこれが正しいとして、果たしてそれが日本人の優秀さの証拠になるのだろうか。
小生は、そうではないと思う。そもそも、文学が生まれる前提となる基本条件が世界中で共有されていたわけではないからだ。


西洋においては、まずはパピルスと羊皮紙という原始的な形での「紙」がほぼ同時期に登場して、人間に日々の出来事や歴史を記録する手段を与えました。
(中略)
結局、西欧に「紙」が登場したのは12世紀頃のことで、中国から伝来したそうです。今ほど安くはなかったし、羊皮紙ほど保存性も高くはなかったのですが、それでもコスト的な優位性から一気に普及していくことになります。
(中略)
東洋では古くから紙が使用されており、保存性の高い紙染めの技術も早くから行われていました。日本でも国策として700年代には紙漉きが行われていたそうです。そのため、カンバスを作るまでもなく良質な紙が流通しており、屏風は保存のよい状態で刷られて、絵巻物もパピルスなどとは比較にならない美しさと保存性で描かれました。日本の貴族の日記文学がこれほど多く残されているのも、そもそもは同時期の西洋では望めない良質な紙があったお陰です。
(落合陽一『魔法の世紀』PLANETS)


つまりはそういうこと。現代には「紙」という記録媒体は当たり前のように存在しており、それがない世の中を想像することすら難しいくらいだが、「人類の誕生とともに」「世界中どこにでも」紙があったわけではない。地理的・気候的・文化的条件によって、昔から容易に紙が手に入った地域もあれば、そうでない地域もあるのだ。日本列島が紙の手に入りやすい環境にあったのならば、それは文学を生み出す条件上ほかの国に対して有利であった、ということの証明にはなっても、日本人の優秀さの証明にはならないはずだ。紙がない地域では、どうやって記録文学を生み出せばいいのか。
今、「記録文学」と書いたが、『源氏物語』は、世界最古と言っても、あくまで紙に綴られた文学の中での最古に過ぎない。紙に記される以前、文学は、「口承文学」としてあった。
口承文学とは、口から口に語り継がれる、紙ではなく、脳内に記録される文学のことである。おもに神話や昔話、伝承の類であるが、それらは人類の誕生とともに語り継がれてきたものであって、記録文学よりもはるかに長い歴史を持つ(口承文学は「作者不詳」であるのに対し、記録文学は固有名を持った作者がいる、という違いはあるのだが)。
また、記録文学はストーリーテリングやドラマツルギーなどの話型を口承文学から学んでいるはずで、それは言い換えれば口承文学を基盤として生み出された、ということである。ならば、オリジナリティにしたところで、それほど高いとは言えまい。
引用文にあるように、西洋にはパピルスや羊皮紙といった媒体は紙以前に存在していた。それらはふんだんには手に入らないので、一部の選ばれし階級の人々の文字記録として用いられた。
なので、いわゆる「文学」(記録文学)はなかったものの、ホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』といった叙事詩、ヘロドトスの『ヒストリアイ』やトゥキディデスの『戦史』といった歴史書、旧約・新約聖書といった(おもに)神話などは存在していた。それはつまり叙事詩や歴史や神話こそが記録に値する物語であり、口承文学として存在していた『源氏物語』と同水準の物語は記録するにあたらない、と思われていたのかもしれない。あるいは叙事詩や歴史書や神話だけが文学として機能していた、というのが正確であろうか。
だとすると、「『源氏物語』が世界最古の文学作品」というのは、文学の基準を現代の感覚に合わせてごく狭く設定することでかろうじて成立している命題ということになるだろう。

このことは「日本人の味覚は繊細」という見立てとも通底する。鰹節やいりこや昆布を用いた出汁で薄味に仕上げた和食は、微細な味の違いを理解する日本人ならではの産物で、「旨味」の発見は世界に誇る事績である・・・という例のアレ。
日本食の味付けが薄いのは、日本列島の環境下では唐辛子や胡椒のような香辛料の栽培が困難であったから(もしくはそれらの種子が手に入らなかったから)であり、カツオやいりこといった有りもので味付けをせざるを得なかったからだろう。もし日本列島に唐辛子や胡椒が手に入る環境条件があれば、日本食はもっとスパイシーなものになっていたに違いない。その場合日本人の味覚は、刺激の強い味付けを好む、旨味などまるで解さぬ鈍感なものとなっていただろう。
「味覚が繊細」というよりも、「必然的に繊細な味覚になってしまう食文化を送ってきた」というのが正確なところであるだろう。どこの国の人間であっても、ある程度和食に馴染めば旨味を理解できるように、味覚とは、要するに“慣れ”によって形成されるものなのである。だから日本人であっても、激辛料理が好きで、そればかり食べている人は、微細な味を利き分けることができないはずだ。味覚の感度は、民族や人種によって大きな違いがあるわけではない。どのような食習慣を送っているかによって感度は決されるのである。

百円均一で売られている商品の素晴らしさを世界に紹介する、という番組もある。日本人の技術力がいかにすごいか、をアピールするという体裁の番組である。高度な技術力によって製造された商品が、わずか百円で手に入るのは素晴らしい、というわけだ。
確かに、個々の商品に込められた技術自体は優れたものではある。しかし、その商品が百円で流通しているのは、果たしていいことなのだろうか。
極度の低価格、薄利多売によって成立している商品は、製造者に対し、その労力に見合った利益を還元することはない。高い技術力が込められていながら百円の値しかつかない商品は、微細な利益しか製造者にもたらさない。
百円ショップの中には、百円という値段設定が適切な商品もあるだろう。だが、明らかに百円以上で売られていていい商品の場合は、そこに込められた技術力が安く買い叩かれている、ということを意味している。高い技術力を投入しているにもかかわらず、製造者は、その対価を受け取ることができないのだ。
それは、本当に素晴らしいことなのだろうか。労力に見合った収入が得られなければ、製造者はその技術力の維持・向上に努める意欲を損なってしまうだろう。仮にモチベーションだけならなんとかなったとしても、薄給では生活が立ち行かなくなってしまう。そうなれば、せっかくの高い技術も生活の破綻とともに失われてしまう。
高度な技術が込められた商品がわずか百円で手に入るということ。それは、技術を買い叩いているということだ。結果として製造者の経営が成り立たなくなれば、技術は継承されることなく立ち消えてしまう。言い換えれば、高度な技術を食い潰すことによって百円ショップは成り立っている、ということである。また言うまでもなく、工場をアウトソーシングすることで海外の安い労働力を搾取している、という一面もある。
製造技術には、それ相応の対価が支払わねばならない。
もちろんそれは百円ショップだけの問題にとどまらない。かつて世界にその名を轟かせた日本の家電メーカーの凋落には著しいものがある。これらの傾向の原因にはグローバルスタンダードも大きく作用してはいるだろうが、技術力をちゃんと育ててこなかったこと、その対価を支払ってこなかったことも影響しているはずだ。安ければそれでいいという経済感覚は、ジワジワと自らの首を絞めることになってしまうのだ。

(後編に続く)
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