徳丸無明のブログ

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性と虹――「多」にして「一」なるもの

2017-02-14 21:41:25 | 雑文
佐々木中の『足ふみ留めて――アナレクタ1』を読んだ。
この本は、佐々木が様々な媒体に発表した随筆、書評、対談などを収録したものであるが、その中の一編、「「永遠の夜戦」の地平とは何か」の中で話題が性に及んだ時、佐々木が次のように述べていた。


性は二つしかないのではなく、性は一つしかないのです。一見、性は四つ存在するように見えます。つまり、異性愛者でファルスを持つとされる男、異性愛者でファルスを持たないとされる女、同性愛者でファルスを持つとされる男、同性愛者でファルスを持たないとされる女。しかし、実はこれは一つなのです。「一つのファルス」のオン・オフをめぐるものですから。


ファルスとは精神分析学の用語で、端的にはペニスのことである。恋愛関係・性愛関係においては、「主導権」の意もあるだろうか。
もっと広がりのある言葉なのかもしれないが、精神分析学に詳しくない小生には、厳密なところはよくわからない。また、佐々木はこれ以上説明を加えていないので、「一つのファルスのオン・オフをめぐるもの」というのがどういう意味なのか、読んでて理解できなかった。
だが、「性は一つ」と聞いて、ふと考え付いたことがある。
レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーらセクシャルマイノリティを総称してLGBTという。性の多様性を掲げるLGBTは、レインボーフラッグをシンボルとしている。様々な色を含む虹のように、性もまた多様であるという理念からである。
で、よく知られているように、日本では虹は七色とされているが、他の国、他の文明圏によっては、三色であったり五色であったりする。これは、人間の可視の領域(可視光線)を「どこで」「いくつ」切断するかという、恣意的な判断の違いによる。
例えば、日本語の語彙の中には緑色の物を「青」と呼ぶ言葉が多数あるが、これは昔の日本が――「若苗色」や「白群」などの細かな分類は別として、大まかな分類としては――青と緑を峻別せず、同系統の色と見做していた名残である。
虹を端から眺めればわかるように、色は少しずつ変化する。「牡丹色」と「緋色」は違う色でもあるが、大別すれば同じ赤に属している。「練色」と「山吹色」は共に黄色系であるが、まったく別の色とすることもできる。
グラデーション状に変化する色は、重なり合う部分を持ちつつも、差異を孕む。それは、虹の中の任意の2ヵ所、どの2ヵ所を抜き出しても同じことである。どの2つの色であろうが、重なり合う部分と相違点がある。
ゆえに、理論上、虹は無数に切断することができる。その選択は、各個人、各国、各文化圏の恣意的な判断による。だから、国ごとに、文化圏ごとに、虹の数はまちまちである。
以上を踏まえて考えると、虹を五つに切断するのも七つに切断するのも、恣意的な判断に過ぎないのであれば、その恣意的な選択のひとつとして、一切の切断を行わず、「虹は一色である」とすることも可能なのではないか。
ここまで読まれればもうお気付きであろうが、小生は「性もまた然り」と言わんとしている。
ゲイとバイセクシャルは違う性だとすることはできる。実際、その表れにおいて、相違点を見出すことができる。しかしながら、両者の間には共通点もある。なので、まったくの別物であるとまでは言えない。(小生はあまり詳しくないのだが、ゲイの中にも細やかな差異があり、簡単に一括りにはできないらしい。トランスジェンダーに至っては、何度聞いても理解できないほど数多くの分類が存する。たぶん当事者間ですら把握しきれていないのではないだろうか)
その多種多様な在り方において、グラデーションを織りなす性は、どの任意の2ヵ所を抜き出そうとも、相違点とともに共通点を含んでいる。これは「男」と「女」もそうである。「男」と「女」は、相違点を孕みつつも、まったくの別物ではない。
「多」にして「一」。これが性と虹に共通する特徴ではないだろうか。
このように考えると、「性には男と女しかなく、同性愛者は矯正されるべき異常者である」という言明は、「虹は◯色であり、それ以外の分割の仕方などありえない」と主張するのと同じくらい頑迷な妄執であることがわかる。
以上の見解は、佐々木の主張する「性は一つ」とは意味合いがだいぶ違っているだろうが、これはこれで一つの見方と言えるだろう。

正直言って、小生は「私にはLGBTの人達を差別する意図はありません。LGBTの人達も、異性愛者と同等の社会的権利を保障されるべきです」などという断り自体がもうバカバカしいと思っている。
個人のセクシャルアイデンティティがどうあるかという問題は、「醤油ラーメンより豚骨ラーメンのほうが好き」とか「犬も好きだけど猫派」など、その人物を構成する様々な要素のひとつに過ぎない。「自分は同性愛者です」という告白は、「うどん派です」という発言に対してなされるのと同様に、「ふーん」という無感情な相槌で受け流されてしかるべき、ごくごく些末な事柄――あるいは、数多ある会話の糸口のひとつ――でしかない。
そんな些事に基づいて差別が行われるというのももちろん許しがたいことなのだが、差別する意図がないことをいちいち声明せねばならない状況そのものがもう「なんだかなー」(by.阿藤快)なのである。「異性愛者か同性愛者か」が大きな関心事になっているという現状自体が、性差別が根強く残っている証拠であるからして。
このように述べれば、「セクシャルアイデンティティは、恋愛や結婚に絡んでくる要素なのだから、差別する意図がないにしても、けっして小さな問題ではない」という反論が予想される。だがそれは、恋愛や結婚をそれ以外の事柄よりも過大視しているからそう思えるに過ぎない。
仕事が命の人がいれば、趣味に情熱を傾ける人もいる。何が人生の最重要事項であるかは、人それぞれだ。恋愛や結婚に重きを置いていない人などいくらでもいる。
恋愛や結婚を重要視するのもまた一つの価値観である。だから、そういう人がいてもいい。しかし、みんながみんな恋愛・結婚至上主義なわけではない。セクシャルアイデンティティが大きな問題に思えるのは、恋愛や結婚を過大視しているせいである。
うどん好きがそば好きを差別する社会を想像していただきたい。極めて滑稽に思えるはずだ。そして、それとは逆に、セクシャルマイノリティに対する差別には、重要で深刻な要素が絡んでいる、と思い込んでいるのではないだろうか。しかし、実際には性差別というのも、今の譬えと同様に、取るに足らない差異に基づくものなのである。
だから、議論のレベル・常識のレべルを一段階上げるべきなのだ。
異性愛者か同性愛者かが大きな関心事になっている状況は、そこに差別が発生する余地がある、ということである。差別が起きうる状況自体を無くすためには、セクシャルアイデンティティなど取るに足らないプロフィールなのだということが、社会全体の共通認識にならねばならない。
もちろん未だ性差別が現存している以上、その解消に対する取り組みは不可欠であるのだが、差別対策に深刻に取り組みつつも、日常生活においてはセクシャルマイノリティに対して過剰に反応しない、という態度が求められるべきだろう。
異性愛者か同性愛者か、なんていうのは些事ですよ、些事。