日々是チナヲチ。
素人による中国観察。web上で集めたニュースに出鱈目な解釈を加えます。「中国は、ちょっとオシャレな北朝鮮 」(・∀・)





 全人代(全国人民代表大会=立法機関)における地域ごとの分科会、それに全人代に先立って開かれる地方レベルの人民代表大会、この2つは注意して眺めていれば「中央vs地方」という対立軸を反映した出来事、具体的には中央政府に対する不満といった「地方の本音」に出会うことがある、と前回書きました。

 特に地方レベルの人民代表大会は地方政府が自分で決めた成長目標を数字(GDP成長率)で見ることができるので、実にわかりやすい機会です。実際に多くの地方が今年も中央政府の思惑を上回る経済成長を目指している、そして中央政府がその風潮に苦言を呈している、ということは前回みた通りです。

 では全人代での分科会で何がみえるか、というのを今回の主題にしたいのですが、今年は経済政策が引き締め基調に入って2年目ということもあり、ヲチしていても面白味のある発言には欠けるようです。本来なら分科会内での討論や、それを終えて出てきて取材陣に捕まった人民代表のコメントに「地方の不満」がにじむことがあります。特に経済が積極路線で走っているときは威勢のいい言葉が飛び出して面白いのです。

 ちなみに、全人代の初日に温家宝首相が「政府活動報告」を発表しましたが、あれは叩き台であって決定稿ではありません。全人代期間中に分科会などからの注文によって必要ならば書き足したり削ったりして、最終日に改めて発表されるのが決定稿です。

 この叩き台として初日に発表される「政府活動報告」にどのくらい朱筆が入るか、というのも政策論争や権力闘争、さらに「中央vs地方」を反映した注目点です。簡単に言ってしまうと、直しがたくさん入れば入るほど、首相または中央政府に対する「不信任」度が高い、とみることができます。

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 しかし、今年は現時点までのところ「不作」でみるべきものがなさそうなので、遺憾ながら過去に例を求めることにします。私は昔にチナヲチしていたころの資料一切を実家に置いてあるので手元にある紙資料や書籍類は皆無といっていいのですが、PCのハードディスクの片隅に埋もれていたメモを先日、偶然発見しました。1992年の全人代に関するものです。ええ随分古いものです。でもその間十数年、私はチナヲチから遠ざかっていましたので仕方ありません。

 ただしこの1992年というのは、中共にとっては非常に画期的な年でした。党上層部において政策路線の対立つまり権力闘争が発生し、それまで改革・開放政策を推進する上で常に立ちはだかってきた「保守派」が、事実上壊滅したのです。現時点に至るまで、当時に匹敵する激しい路線闘争は起きていません。

 昔話なのでちょっと説明が必要かも知れません。1980年代から1990年代の前半にかけては、現在では至極当たり前である改革・開放政策を「資本主義的なものだ」として批判し反対する強力な政治勢力が存在していました。それがいわゆる保守派です。本来の社会主義理論に忠実なグループ、とでもいいましょうか。

 当時の最高実力者であり改革派のバックボーンであったトウ小平でさえ、しばしば保守派との妥協によるバランス人事を余儀無くされたものです。現に胡耀邦が保守派の攻勢で総書記から失脚しています(1987年)。また、その後を襲った趙紫陽にスーパーインフレなど経済的混乱の責任を追及し、指導部内での主導権を失わせたのも保守派です。

 これが1988年。社会は乱れ、経済政策は引き締め路線に一変、改革派は明らかな頽勢……こうした状況に焦った改革派の若手知識人や趙紫陽のブレーンらが積極的な行動に出たりもして、そうしたことの一切が翌年の胡耀邦死去を発端とし、天安門事件(六四事件)でほぼ終息する民主化運動の伏線となっていくのです。

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 具体的な名前でいえば、当時の執行部内では李鵬首相が保守派の筆頭格でした。李鵬は政治家としては余りに無能で定見などロクに持っていなかったでしょうが、その保護者が陳雲、トウ力群、薄一波といったバリバリの社会主義理論家たちであったため、執行部における保守派の旗頭のようになっていたのです。趙紫陽が天安門事件で失脚した後は江沢民が総書記のポストを引き継ぎます。これはトウ小平直々による抜擢人事でしたが、やらせてみると江沢民もまた見事なまでに創意に欠けたタイプでしたから、1988年以来の経済引き締め路線をそのまま継承して不足を感じませんでした。

 改革推進を至上課題としていたトウ小平は、江沢民が意外に使えないキャラであったことに、後悔と歯がゆさを感じたことでしょう。自宅軟禁された趙紫陽に対し、トウ小平が「自己批判すれば政界復帰を許す」という密書を3回も送ったのはこの時期かも知れません。しかし、硬骨漢であり信念に基づいて「六四」の武力鎮圧に異を唱えた趙紫陽は、これを3回ともきっぱりと拒否します。

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 やむなし、ということで、トウ小平は自らの手で政局を転換させようと決意します。当時すでに90歳を超えていましたから、3度失脚してその都度復活したという異例の経歴の持ち主であるトウ小平も、これが最後の闘争だ、という思いがあったでしょう。そして行動に出たのが、1992年初めに行われた南方視察です。改革の先進地区であった深センや広東省を視察して回り、行く先々で改革路線を肯定する談話(南巡講話)を次々に発表していきます。

「思想解放」(教条的社会主義理論からの脱却=「保守派」批判)
「右よりも左の防止を重視すべきだ」(左=「保守派」の封殺)
「基本路線(経済最優先)を百年は続ける」(改革・開放が大前提)

 などがその骨子となる発言でしたが、「改革派」はもとより「六四」でトウ小平と共に血しぶきを浴びた軍部、それに各地方勢力、これは開発欲求が常に強く、引き締め路線に飽き飽きしていたのでもちろん続々と賛意を表明。急転直下ともいえるこの流れ、そしてトウ小平の人生最後の勝負という気迫に押された保守派は沈黙するしかなく、事実上の壊滅状態(政策に口出しする資格を喪失)となります。

 ここまではトウ小平の非公式なスタンドプレーでしたが、これを翌月(1992年2月)に行われた党の政治局会議が追認します。

「経済は目下最大の政治問題」

 と位置付け、「経済にかまけて政治を怠るな」という保守派の一貫した主張をシャットアウト。また、

「今後10年間、経済は条件が整えば年6%成長を超えてもよい」

 とし、当時の李鵬首相が前年末に設定した消極路線「5.5%」を大幅に修正。年間指標をタテに、沿海地区の大胆な改革に枠をはめようとする保守派の動きにしっかりとクギを指しました。

 いわば、「改革派の勝利宣言」です。これ以降、改革・開放が「やって当たり前」の政策として推進され、現在に至ることになります。

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 さて、この年の全人代の話です。1月にトウ小平の巻き返しで政局が転換し、2月の党政治局会議で経済を積極路線に転じることが確認されました。そして翌3月が全人代です。現在と同じ形式で、初日には李鵬首相による「政府活動報告」が発表されました。

 ところが、です。李鵬によるこの「政府活動報告」は、政局の変化をほとんど反映していない内容だったのです。その文章のどこを探しても、

「右よりも左の防止を重視すべきだ」
「基本路線(経済最優先)を百年は続ける」

 など、党指導部の新たな合意を象徴するトウ小平の提起したスローガンが見当たりません。しかも、引き締め路線下の前年でさえ7%成長だったというのに、この年の成長目標値はなんと「6%」。どうしてかくなったかは当時、観測筋の間でも意見が分かれて未だに謎のままなのです。ともあれ、この、

「私を叩いて。私を苛めて」

 と言わんばかりの「李鵬報告」(叩き台)は、当然のように集中砲火を浴びることになります。

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 当時はまだインターネットのない時代ですから全人代報道も紙媒体が便りです。そのころ香港にいた私は、通勤ルートで通ることもあって親中紙『香港文匯報』社屋に毎日のように立ち寄り、『人民日報』(海外版)を買っていました。おかげで顔馴染みとなり、全人代期間中は『人民日報』(国内版)も特別に取り寄せてもらっていました。

 その『人民日報』(国内版)が連日のように、改革派から軍部に至るまでの「李鵬報告」批判をコメント紹介の形で報じていました。「安定団結」が建前ですから、批判といっても真っ向から斬り下げるようなことはしません。

「左の防止」
「百年」

 といった「李鵬報告」には出て来ないポイントを強調しまくるのです。

 全国からの地方代表による分科会はより大きな反発を示しました。『人民日報』はこれを、

「今大会で最も多く使われる言葉は『差距』(格差)だ。広東省の代表は外国と、沿海部は広東と、内陸部は沿海との格差への焦りを口にする」

 ときれいにまとめていました。要するに沿海部にとっても内陸部にとっても、「李鵬報告」は満足できる内容ではなかったということです。

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 不満はコメントの形で表れます。沿海部の人民代表からは、

「地方は改革への意欲にあふれている。思想解放が必要なのはむしろ指導部(李鵬ら保守派)だ」

 という言葉まで飛び出し、内陸各地区の分科会でも、

「(李鵬報告は)沿海部との経済格差に対する配慮が不十分」

 という声が出る始末。そして各分科会では、1月に行われた地方ごとの人民代表大会で設定した成長目標、これは「政変」前の緊縮路線下で出した数字ですから、これを各地方が一斉に見直し、「10%」だ「15%」だ「20%」だと、内陸部も沿海部もそれぞれに「李鵬報告」の掲げる「6%」という数字を全く無視した目標値に大幅修正しました。

 結局、李鵬の「政府活動報告」はあちこちに朱筆が入れられ、その数は前代未聞である150カ所以上。これはもう「首相不信任」を突き付けられたに等しく、面子丸潰れどころじゃありません。李鵬にとっては生涯忘れることのできない苦い記憶でしょう。

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 地方の本音、中央政府への反感など「中央vs地方」がこれほど見事に浮き彫りにされた全人代はたぶん空前絶後、つまり過去に例がなく、今後も起きることはないでしょう。仮に今後似たような全人代になることがあれば、それはたぶん中共が潰れるときかも知れません。

 以上はやや特異なケースですが、一見台本通りに開かれて閉幕するかの如き全人代にも、見所は結構あるものです。実際、前回紹介したように、見所が少ないであろう今年も、各地方の設定した経済成長目標は揃いも揃って温家宝首相の「政府活動報告」で示された「8%」を上回っています。事前に開かれる地方レベルの人民代表大会からチェックしていれば、全人代でより多くのことを読み取ることができるということです。あるいは、

「お前のとこ成長目標高すぎ。少し削れや」

 といったような中央と地方のせめぎ合いが、舞台裏では展開されているかも知れません。そうしたニオイを少しでも嗅ぎたくて、一見、地味で見過ごされがちな各分科会の動静などに、私は目がいってしまうのです。



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