コメント
 
 
 
しみじみ・・・ (でんすけ)
2006-02-09 18:22:34
いいお話に触れさせて頂きました、心からお礼申し上げます。



それに比べて当の日本人である筈の私はなんて・・・と、自己嫌悪になりそうです。

月並みですが”それ”が当たり前だった日本人自身は、

そのありがた味を忘れて現在に至ってしまったのか

…と自問さえしてしまいそうになります。



一頃の日本国内の”日本文化は世界に誇れるんだ!”みたいな風潮が

ありましたが(今も続いていますが)、台湾の方々の守り続ける姿を見ていると

単なる”商品としての文化”の尊重でしかないんですよね…、技術・様式作法・漫画アニメ等々。

(いえ、それも充分誇れるものなんですけど。)



そんなの日本に比べ、

親日の台湾の方々は”感謝の気持ち”という日本文化の真髄を守って頂けているように感じます。

御家人さんのタイムスリップという表現に続いてしまいますが、

”温故知新(古きをたずね新しきを知る)”

という言い回しが脳裏を過ぎりました。



日本人はそんな台湾を始めとした方々の気持ちに応えてなくてはならないのかと思います。

もっとも何が出来るかは別の問題ですが…。



しかし第二世代ですか…速やかな交代と開眼(笑)を願わずにはいられません。

それに比べて日本の”そういう世代”の根は深いです…。

(世代と片づけられない程の幅が…、本当にヤッカイです。)
 
 
 
Unknown (ジェイのファン)
2006-02-10 02:08:25
いつもROMしているこのブログでジェイの話がでて嬉しいです。

彼は家庭の事情で4歳まではお祖母ちゃまの家で育てられたそうです。おばあちゃまは幼いジェイに、日本の童謡を歌ってあげていたそうです。

ジェイはおばあちゃんが大好きで、彼女に捧げる歌『外婆』を作ったほどです。それを知っていたので、コンサートでおばあちゃまがスピーチなさったときは、もう本当に涙うるうるで大変でした。。



ジェイも台湾も最高!
 
 
 
多桑 (90)
2006-02-10 08:38:31
おはようございます。



御家人さんのお話を読んで「多桑」と言う台湾映画を思い出しました。御家人さんもご覧になっているかもしれませんが、日本の統治時代に生まれて日本を熱愛するお父さんのお話を息子の視点で描いたものです。息子がいわゆる第二世代でそんなお父さんに違和感を持っているのですが、御家人さんのお話を聞いて納得しました。



日本のマスコミもこういう話を流してくれたらいいのに、なぜか流してくれませんね。本当に台湾の話を聞くと先人の苦労に感謝して、台湾の方々に対してもったいなく思います。
 
 
 
ホロリ (muruneko)
2006-02-10 14:08:25
とするいい話じゃないですか。私も台湾に行ったとき、友人の家族に歓待してもらいました。その祖父は、やはり日本語流暢なんですって(台南に住んでるのでお目にかかりませんでした)。



失われた日本語の美しさと言えば、何処で読んだのだったか、こんな記事有りました。



南鮮系のドラマ(タイトル忘れました)の翻訳のシーンの中で、「よん様」ペが女優に向って手を差し出し、「おいで」と呼びかけるシーンがあるそうな。



その記事の著者はその翻訳の品の無さを論っていて(ま、所詮は鮮語、翻訳が悪いとは限らない)、「そりゃ犬を相手に使う言葉です。」と嘆いていました。



正しき古き美しき日本語(東京語?)では、「いらっしゃい」と話すのだとか。うーん、まったりとして良い感じです。



「いらっしゃい」

「御覧なさい」

「御気を付けなさい」



多分、御家人さんの仰る「冷凍保存された」品の良い日本語って、こんな感じじゃ有りませんか?



著者の断では、これは東京語、即ち、江戸弁ならぬ、武士階級の言葉の末裔だと書いてました。その言葉が戦前の上流階級の住まう帝都東京では主流だったのだとか。江戸弁は、下層階級の話す言葉であり、両者には大きな隔たりが有ったと。



所で、御家人さん、アダルトサイトへのトラックバック、煩いです。何とか成りません?
 
 
 
パラオでも (のま)
2006-02-10 16:27:39
いい話ですね。私は以前パラオに住んでいたのですが、日本語世代の人たちが、「もう忘れました」とかいいながら、とても美しい日本語で話をしてくれたことを思い出しました。パラオでは投票用紙がアルファベットとカタカナだったんですよ、当時(今は知りません)。でももうみんな70歳以上ですからね~。この世代が消えていくのがなんか寂しくもあります。
 
 
 
Unknown (ずび)
2006-02-10 16:55:34
良いお話でした。



私は、台湾に中国語の勉強に行きました。

そこで中国語の先生に誘われて、BBQへ。

すると、もう70代?のお婆ちゃんが居て、

とても綺麗な日本語で話してくれました。



できれば「その時代」を過ごした方と

話してみたいなぁ、と思っていたので、

思わず話し込んでしまいました。

(女学校を出た、と言っていました)



また、そのBBQに来ていた台湾人のうち

2人が日本に留学したことがあり、

1が日本語を勉強中でした。



つまり10人前後のBBQで、4人の台湾人が

日本語を解するのです。

他の台湾人参加者も、驚いていました。



勉強も後半、私は中国語の先生に、

こんなことを話しました。

「日本人と台湾人って、性格が合うんじゃないかな。戦争できた日本人も、たぶん台湾が大好きになったと思うよ。僕が、台湾を大好きなように」と。



同世代の先生は、とても喜んでくれました。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2006-02-10 21:40:01
私が台湾を訪れたのはもう十年以上も前ですが、そこここで親切にされたのを覚えてます。

デパートの地下のフードコートでは店頭にいた娘さんが、我々が日本人と分かると奥にいた日本語がよく分かるおばさんをわざわざ引っ張ってきて我々の相手をさせてくれました。

この辺の細やかさは売らんかな一点張りの本土の商人とは全く違いますね。

今年の休みは久しぶり台湾に行こうかな。
 
 
 
日本の失われた世代 (後塵)
2006-02-10 22:20:13
とてもよいお話をありがとうございました。

小生の母親は80歳になります。でも、私は学生の頃、母の若い頃(戦時中)の話を聞きませんでした。全共闘世代として、ある価値観で昭和前期を見ていたからです。最近(この数年ですが)、孫たちと楽しそうに会話をします。

我が息子「おばーちゃん、B29は爆弾をバラバラと落としたんだよ」母「そうかなー、おばーちゃんは、ボトボトボトと落としていったと思うよ」とか、

甥っ子「それじゃ、ラジオにかじりついてたんだ」母「私と○○ちゃんと、××ちゃんが、サボってラジオで「敵空母3隻撃沈!」とか聞くとワーッって大騒ぎして見つかったのよ」甥「なんだ、ワールドカップで日本が得点したノリと同じじゃん」

などという会話をしています。

私は、もう同じ目線で大東亜戦争を話題にするには、知識に手垢が付きすぎてしまったように感じます・・・・。

南京入城の提灯行列の賑やかさなど、子供心で素直に聞くことはできません。南京虐殺の真実云々、百人切りの真相などなど、親の世代の思い出を素直に受け取ることができなくなってしまったという意味で、日本の第二世代なのでしょう。残念です。
 
 
 
 (芋焼酎)
2006-02-11 16:28:51
李登輝氏と孔泉等のような中韓の報道官や外相との人相を比べれば、余りの悪人顔にムカムカします。

指名手配の顔写真がどう転んでも悪人面であるのと同じですね。

捏造と歪曲で人を罵れば、どうしてもそういう顔になる。李登輝氏の好々爺然とした顔と正しく対極にあると思う。

きっとそのお婆さんもいい顔をしていたことと思います。
 
 
 
私も (Risshin)
2006-02-13 01:42:53
 他のブログのコメントにも書いた話なのですが、10年以上前、NYのクィーンズ区のパブリックゴルフ場に一人で行った時、一緒にプレイした人が台湾の方でした。



 私が日本人だとわかると、立派な日本語で「私は昔大日本帝国海軍のパイロットでした。ゼロ戦に乗ってました。その後、米軍のF86で朝鮮で戦争しました。」と話してくれました。電話番号も貰ったのですが、そのままにしてしまった事が悔やまれます。

 
 
 
Unknown (かおる)
2006-02-13 14:05:32
二年前、遅い夏休みで北海道に行ったときのこと。

丁度サケが遡上を始めた頃で、楽しそうにサケを見学しているお年寄りの団体と遭遇したのです。

「跳んだ、跳んだ!」とか、「そこそこ!」とか、賑やかな日本語の歓声があがっていたし、最初は国内の団体ツアーだと思っていたのです。でも、聞こえてくる言葉には、どうも中国語(台湾語というべきか…)が混ざっているような気が…。

思いついて目があった方に「台湾からいらしたのですか?」と話しかけると、やはり台湾からの団体ツアーの方たちでした。

しばらく雑談したのですが、皆さん日本語がお上手で、「日本に来て日本語を聞いていたら、忘れていた日本語も思い出しました」と満面の笑顔で話されていたのが印象的でした。
 
 
 
みなさんコメントありがとうございます (御家人)
2006-02-13 22:40:38
ちょっと忙しくてエントリーの更新がままならず申し訳ありません。



>>でんすけさん

 香港にいたころは田舎に住んでいたのと、仕事で「自分だけ日本人」状態が大半だったので、頭のどこかにいつも「自分は日本代表だ」という意識がありました。特に田舎の香港人なんて一生の間に接触する日本人が私だけかも知れませんし。職場でもそうです。キレるときは容赦なくキレますけど(笑)、普段は意識してローカルスタッフとの交流に努めました。あと実力勝負の世界でしたので「さすが日本人は違う」と思わせることも忘れませんでした(笑)。

 台湾は立派な先人たちの足跡があるので特に「自分は日本人だ。恥ずかしい真似はできない」という気持ちが強かったです。でも仕事で統率上必要なときは私が日本人であることを意識させるための演出などもしましたね。まあオトナの世界ですから(笑)。



>>ジェイのファンさん

 不思議な絆ですね。ジェイ・チョウのお祖母さんは日本人あるいは「日本」から童謡を習って、それを孫のジェイに歌って聞かせた。それは幼少だった彼の音楽的才能を刺激し、影響を与えたことでしょう。そのジェイが日本でコンサートを開くまでに成長して、日本のファンを魅了する。……日本からお祖母さんに伝えられたものが三世代を経てまた日本に戻ってきたことになります。不思議ですが素晴らしい絆だと思います。

 ジェイを含め「台流」には頑張ってほしいものです。人気が出るほど日本人が台湾を意識し、台湾と中国が違うものであることを認識することになるでしょう。個人的には、大陸とひとくくりで「漢流」と呼ぶマスコミには嫌悪感を覚えます。



>>90さん

 いつもコメントありがとうございます。「多桑」は有名でいろいろな本に登場するのですが私自身は観たことがありません。上のエントリーに出てくる私の尊敬する台湾人社長も、若い頃は日本に対する認識で両親とよくぶつかったそうです。たぶん当時の台湾のあちこちで「多桑」実話版があったのだと思います。台湾における先人たちによる数々の美談は歴史教育か道徳教育の題材にすべきですね。



>>muruneko

 私の個人的経験からすると、「冷凍保存」された日本語というのは一通りではなく、相手の方の日本統治時代における周囲の環境によって、山の手言葉だったり、もっと庶民的な気さくな言い回しだったりするように思います。具体例は……ぴったりくるものはありませんが、夏目漱石の『三四郎』を彷佛とさせるものがあります。

 言葉は時代とともに変化していくものですから、現代であれば「おいで」でも違和感はないように思います。「御覧なさい」「いらっしゃい」というのは私の恩師(清朝の王室、つまり愛新覚羅家に連なる方で日本語で初等教育を受けたそうです)が普通に使っていました。綺麗で歯切れのいい日本語でした。

 日本語というのは目上・目下の秩序感覚に細かいところがありますが、部下のお祖母さんの使った「お出でなさい」というのは私を「孫の上司」ではなく「自分より若年者」と認識しつつ、親しみ込めて出た言葉だと思います。少なくとも、当時の場の雰囲気はそんな感じでした。



>>のまさん

 だめです。パラオはいけません。あそこは泣けるエピソード満載じゃないですか。日本はああいう国をもっと大事にしなくちゃいけないけませんね。私は皇室には興味がありませんけど、首相が訪問するよりも天皇皇后が現地を訪れる方が両国の紐帯を強くするのではないかと思います(もちろん第一世代がまだ健在なうちに)。日本人として恥ずかしい振る舞いはできない、というのは一種のやせ我慢なのですが、昔の日本人は外地に出たときに自然とそういう感覚で「やせ我慢」を貫けたのかも知れません。それゆえパラオでも台湾でも自分の子供に日本人の名前をつけたりする現地人が大勢出てくるのではないかと思います。



>>ずびさん

 言葉というのはスポーツのようなものですから、ある程度のレベルに達すれば、長いブランクがあっても使っているうちにどんどん思い出してくるものですよね。そのBBQでずびさんと日本語で会話したお婆さんもきっと若やいだ気分になってとても楽しかっただろうと思います。

 近隣諸国をみると、様々な意味で日本と価値観を共有できる国は台湾しかありません(香港はダメです。大陸や鮮人は言わずもがな)。日本と日本人は台湾・台湾人との絆を深めるべくより努める必要があるかと思います。



>>Unknownさん

 あれは台湾人の外来者に対する優しさなのか、日本だけ特別扱いなのかよくわかりませんが、親切で人情味あふれる、というところがいいですね。ちなみに私の台湾時代、北京語のできない配偶者(香港人)は「なんちゃって日本人」で振る舞っていました。買い物などで、親切度がかなり違ったそうです(笑)。



>>後塵さん

 時代への価値観や思い入れは別として、当時を生きた方々にはありのままの体験談を残してほしいと思います。私事で恐縮ですが、数年前のある日に実家の母が外出しようとしていたとき、数km離れたところにある花火工場が爆発して物凄い轟音に接して「ああこれはきっとまた戦争が始まったんだ」と思って、玄関口からそっと外をのぞいてみたそうです(敵兵がいるかも知れないということで)。私たちならどこかでガスタンクでも爆発したのかなどと思うところですが、体験者は違うものだと思いました。

 母は終戦時に現在でいう小学校低学年だったのですが、空襲で家が全焼したり家族で山中に疎開したり、夜間の艦砲射撃で敵弾?が社宅長屋を縦貫したり、また負傷者や死者や飛び散った内臓の類を目にしたり、またB29はもちろん、1トン爆弾で開いた穴に水がたまって池のようになったといったような経験をしているそうです。そういう身に染みた感覚が60年後になっても轟音への最初の反応となって出るものなんですね。当人は記録として残すようなつもりはなさそうなので、母が元気なうちに私が聞き書きしなきゃいけないなと考えています。やや大袈裟に言いますと、それは日本・日本人に対する責任として、そういう体験者を親に持つ者の義務のようなものではないかと思うのです。



>>芋焼酎さん

 顔といえば唐家センや江沢民は実に醜悪な顔をしていますね。故・司馬遼太郎氏の表現を借りるとすれば「豚の内臓」といったところでしょうか。孔泉の場合は一種の芸としてやっていますから私は気になりません。李登輝氏は好々爺とした部分と哲人としての表情を持っていますけど、ときに百戦錬磨の政治家という凄みのある顔を垣間見せる一瞬がありますね。毛沢東などとは違っていい意味で歴史に足跡を残すことになる人というのはさすがに違うものだと感じさせられます。



>>Risshinさん

 零戦搭乗員とは恐れ入りました。たぶん学徒出陣組で戦闘機操縦課程を経た、予備士官だった方なのでしょう。台湾人パイロットが朝鮮戦争に出陣していたとは初耳で、驚きました。国民党空軍あがりならともかく、貴重な経歴の持ち主としかいいようがありません。いまも御健在だといいですね。



>>かおるさん

 私は実見したことがありませんけど、日本語世代の方の場合は同世代の方と日本語を使ってみたりすることがあるのかも知れませんね。若かりし頃の思い出を懐かしみ語り合う際のアイテムとしての日本語、といったところでしょうか。こういう第一世代の台湾の方々が訪日される機会は年々減っていくのでしょうが、せめて日本滞在中に「私にとっての日本はこうではなかった」と幻滅することがないように、「やっぱり日本はよかったよ」と帰国して家族に話せるような日本・日本人であれかしと思います。

 
 
 
ところで... (kαtze)
2006-02-14 12:46:39
きれいな色の花の名を持つあの人は、このところ、いったいどこへ行ったんでしょうね。
 
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