“元アウトローのカリスマ”こと瓜田純士(35)が今秋、人知れず「パニック障害」に苦しんでいた。外出しようとすると動悸が高まり、体も硬直してしまうパニック障害。ある日突然、なんの前触れもなく、この症状に襲われるようになったそうだ。以来、何週間も自宅に引きこもり、「このまま一生治らないんじゃないか」と悲嘆に暮れる日々を送ってきたが、最近になってようやく回復の兆しが見えてきたという。リハビリを兼ねて街へ出た瓜田に、話を聞いた。

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 この秋、文庫版『遺書』(竹書房文庫)と、新著『國殺』(竹書房)を相次いで出版した瓜田。さぞかし絶好調な毎日を送っているのかと思いきや、不調のドン底でもがき苦しんでいた。

 「歩いてここまで遠出したのは、冗談抜きで3週間ぶりです」。自宅から300メートルほどしか離れていない新宿二丁目の街角に立ち、感慨深げにそう語る瓜田。「最寄りのコンビニに行くのも怖かった僕が、これだけの人混みの中にいても大丈夫ってことは、だいぶ回復した証拠。数週間前の僕は、一生外には出られないんじゃないかという絶望の真っ只中にいましたから」。

 パニック障害を克服しつつある瓜田が、“暗黒の日々”を振り返る。

――体調の異変を最初に感じたのは、いつでしょう?

瓜田 10月初旬ごろです。嫁と二人で家の近所を歩いているときに突然、新宿通りまで出るのが怖くなり、引き返したのが最初。その後も外出しようとする度に、動悸が高まるとともに冷や汗が溢れ出て、空間認識能力が狂うというか、空間に圧迫されるような感覚に陥り、体が硬直してしまう。足掻こうとしても、脳がストップをかけているのか、体が動かないんですよ。

――それがパニック障害であるということは、医師の診断でわかったんですか?

瓜田 パニック障害の経験者である嫁から、たぶんそうだと教わりました。自分でもインターネットなどで調べたところ、症状がことごとく一致したので、あぁそうなのかと。なんの前触れもなく、いきなり来たから最初は戸惑いましたし、ものすごく不安になりました。

――原因にお心当たりは?

瓜田 いま冷静に分析すると、おそらくそもそものスタートは、秋の花粉症がツラくて眠れない日々が4日ほど続いたことだと思います。鍼(はり)の先生から聞いたんですけど、睡眠不足が何日も続くと、脳内の神経伝達物質のバランスが崩れて、パニック障害になりやすいそうです。眠れないとストレスになりますし、肩や首が凝って、脳への血の巡りも悪くなりますから。

――心療内科には通ったんですか?

瓜田 いや、心療内科は治療が長引く予感がしたので避けました。これまでの数多くの通院経験から、「今回はきっと自律神経に関係のある症状。神経を刺激するものといえば鍼」と判断し、鍼に通い始めた成果もあって、こうして短期間で表に出て、酒を飲み、人と話せるまでに回復しました。「眠れないストレスがそうさせた」という答えが見えてきたら、予期不安に襲われても、この闇はいつか抜けるものだと思えて、乗り切れることができるようになった。原因がわからないうちは本当にツラかったです。外に出るなんて、裸で戦場に行くような恐怖でした。

――パニック障害は、家にいる間も苦しいんですか?

瓜田 家では多少は安らぐんですけど、それでも症状が重い時期は、嫁に対する言動が荒くなってしまう。わかってほしい焦りから、ついつい当たってしまうんです。あと、ずっと家にいるから思考がだんだんネガティブになり、食も細くなり、日ごとにやつれていく時期もありました。最大の理解者である嫁がいつも寄り添ってくれて、食事を世話してくれて、いろんな知恵を授けてくれたおかげで脱出の手がかりをつかめましたが、もし一人暮らしだったらと思うとゾッとしますね。

――快方に向かっていった過程を教えてください。

瓜田 先ほど言ったとおり鍼治療は効果的でしたが、それは気休め程度のもの。僕の場合、パニック障害を論理的に把握することがかなり有効でした。まず、「パニック障害で死ぬことはない」ということを知り、気持ちがだいぶラクになった。次に、原因はなんなのか? その原因を最短で解消するにはどうすればいいのか? という仕組みがわかるにつれ、出口が見えてきた。そして何より僕を勇気づけてくれたのは、治し方うんぬんよりも、「実際に治った人が何人もいる」という具体的な情報でした。何人もの著名な方々がパニック障害に苦しんだ過去を持ちながらも、いま現在、表舞台で活躍されている事実を知り、自分もいつか治るはずだという自信が少しずつ湧いてきましたね。

――花粉症による不眠のストレスがパニック障害のきっかけになったとの自己分析ですが、出版に向けてのプレッシャーもまた、症状を悪化させる一因となったのでは?

瓜田 それも大いにあります。文章を書いたはいいけど、ちゃんとカタチになるのか? ちゃんと宣伝はしてもらえるのか? そうした思いを出版社にぶつけたほうがいいのか? いや、言うと信頼関係が壊れるんじゃないか?……などの不安や葛藤がストレスになり、心身の調子がさらに悪くなっていった部分もあります。10月下旬に竹書房から「『國殺』の見本が刷り上がった」との連絡が来たんですが、そのときもコンディションは最悪で、外へ出るのも人と会うのも怖かったから、取りに行くべきかどうか迷いました。

――結局どうしたのでしょう?

瓜田 人が大勢いる電車に乗るのは考えられなかったので、嫁に同伴してもらい、タクシーを拾って竹書房に向かったんですが、車のドアが閉まった瞬間、圧迫感で発作が起きて、手もガクガク震えだした。信号で車が止まる度に息が苦しくなるんですけど、途中下車したらもっと苦しくなるのは明らかなので、嫁に励まされながら、なんとか飯田橋までたどり着きました。タクシーを降りてからもツラくてツラくて、「もうダメだ! 帰ろう!」と駄々をこねましたが、嫁に説得されながらどうにか竹書房のビルに入って、本を受け取りました。

――そのときの心境は?

瓜田 本を受け取った瞬間に、ウソみたく元気になりました。渡された本を見てホッと安心するとともに、俺はまだ終わっていない! っていう自信がふつふつと湧いてきた。同伴してくれた嫁が僕の作品を手に取り、「純士、よう頑張ったな。これ、ホンマにすごいことやで」と涙を流しながら言ってくれたときはホント、こいつと一緒になってよかった、この人を幸せにしないといけないな、と思いました。嫁は僕が絶不調のときに「純士が仮に一生病気でも、一生付き合う」と言ってくれた。ありがとうの言葉しかないです。

――その日の帰り道は?

瓜田 帰りのタクシーではパニくることなく、平常心を維持できた。てことは結局、出版への重圧もパニック障害の一因だったということですが、それがわかったことでさらに気がラクになりました。以来、物事をプラスに考えられるようになって、発作が減ったり、外出頻度が上がったり、徐々に快方に向かいつつあります。10を全快とするなら、いまは7ぐらいでしょうか。

――大変なご苦労があったんですね。

瓜田 今回の闘病で気づいたのは、人間は日々、無意識下でいろいろなストレスを感じながら生きているということです。例えば、テンションが低いときに誰かから電話がかかってきて、本当は出たくないのに元気なふりをして出たりすることって、誰にでもあると思うんですが、それも小さなストレスなんです。あるいは、人混みの中を歩いているときに、誰かとぶつかりそうになって避ける。それも小さなストレス。そうした微量なストレスが積み重なり、何かのきっかけではじけてしまうと、僕みたいにパニック障害になってしまう。

――瓜田さんが人混みを歩くと、周囲がストレスを感じて避けるとの噂も……。

瓜田 確かに僕が胸を張って人混みの中を歩くと、みんなが勝手に避けてくれます(笑)。でもその歩き方って、実はものすごくパワーを使っていたんだなって思います。気張っているから肩や首が凝るんですよ。

――「新宿の瓜田」というプライドゆえの気張りですか?

瓜田 少年時代に不良の世界で、弱いのに新宿のアタマになってしまった。以来、「街は虚勢を張るところ」「街はライブの自分を見せるステージ」っていう感覚で生きてきましたから、弱った自分を家族以外には見せたくなくて、このところずっと引きこもっていたという部分もあります。

――アウトローの世界で名を売った男ならではの悩みですね。

瓜田 「アウトローのカリスマ」なんて呼ばれたこともありますけど、それは分不相応ですよ。いまの僕は、嫁にとってのカリスマでありたいだけ。他の誰にどう思われても関係ない。嫁に「この人を信じてついてきてよかった」って思われたいだけなんです。裏を返せば、そういう絆の強まりを確認できただけでも、今回パニック障害になってよかった。無駄ではなかった。プラスになった。あれだけツラい日々を送ったんだから、そうでも思わないと、貧乏性の僕としては割に合わないですよ(笑)。

――パニック障害になったことで得た教訓は?

瓜田 例えば格闘技をやっている後輩たちにも、やがて年齢的な限界がくるでしょう。体が動かなくなったとき、その先の人生は果たしてどうなるのか? ってことを考えると、彼らは10年後がめちゃくちゃ怖いと思うんです。でもね、10年後を怖がって今日萎縮するより、明日を怖がって今日動くような生活をしないとダメ。いきなりのことが起きたときはマジで、10年後のことなんて考えられもしないですよ。僕はパニック障害になって一時期、何もかもがどうでもよくなっちゃいましたもん。「明日をビビって今日動けないぐらいだったら、明日が来ないと思って今日動いたほうがいい」。それが今回得た教訓です。

――いい言葉ですね。

瓜田 だから僕はいま、自分の本がとにかく売れてほしいんです。名前を売りたいからでも、派手に遊びたいからでもない。シンプルにカネがほしいんです。何かあったときのためにいまからカネをためておかないと危ない、っていう考えです。僕や嫁が医者の世話になるかもしれない老後のことも考えて、いまから貯金をしておきたいんですよ。

――瓜田さんの発言とは思えませんね。

瓜田 ぶっちゃけこのトシになると、もうムチャはできないですよ。保険をかけちゃう。若いときは考えもしなかったけど、健康あっての幸せです。認めますよ。「瓜田純士は丸くなった」と。尖ったふりはしたくないですもん。痛いものを痛いと言えない世界、怖いものを怖いと言えない世界にいたから、丸くなったと素直に言えるいまはとてもラクです。

――さきほど「弱いのに新宿のアタマになってしまった」とおっしゃいましたが、弱さを自覚したのはいつですか?

瓜田 この際だからはっきり言いますが、僕はガキのころからタイマンが苦手だったんです。なんでかというとガキのケンカなんてジャンケンと一緒で、どれだけコンディションが良くても気持ちで勝っていても、負けるときは負けるんですよ。僕は背が高かったけど、タックルを食らって倒されたりして、「あれ? なんでこんなチビに?」っていう相手にも、けっこう負けたり苦戦したりした。タイマンは不良の見せ場で、ギャラリーが見たいのはきれいに勝つシーン。でも、なかなかきれいにはいかず、たいていゴチャゴチャになるんです。で、ゼェゼェ息切れしている間に先輩の止めが入り、「純士が押されていたな」と言われたり、仲間からも「瓜田はたいしたことない」と思われたりしちゃう。「あれ? おかしいな? もういっぺんやらせてくれ」と言っても、ガキのケンカに2ラウンドはないんです。ある時期そんな感じで負けが続いてしまって、もうタイマンを張るのはイヤだと思い、絶対的に自分が一番ってことを見せつけるケンカのやり方を覚えちゃったんですよ。

――そのやり方とは?

瓜田 要は「場面」ですよ。手下を使ってめちゃくちゃ怖い思いをさせてから、泣きながらブルブル震えているヤツのもとに、リーダーの僕があとから現れて、威圧感をたっぷり漂わせながら「てめえこの野郎」と言葉でさんざんいたぶるわけです。相手は萎縮して謝るしかない。腕力ではなく、空気感で相手を屈服させるんです。いちいちタイマンを張っていたら負けるリスクがあるから、そういう手をよく使いました。ズルしてでも勝ちにこだわったんです。

――本職顔負けのやり方ですね。

瓜田 実際、ナメられたくないという思いから本職になった時期もありました。でも、タイマンが苦手というコンプレックスを抱えたまま大人になったら未来がない。そう思って出たのが、第一回のジ・アウトサイダー(編注/リングス・前田日明主催の不良更生を目的とする格闘技大会)だったんです。あれは、大勢の観客の前で行う正真正銘のタイマンでしたから、だいぶ自分に打ち勝つことができた。やっぱ人間、どこかで一度は戦わないとダメですね。

――そんな出場動機だったとは知りませんでした。

瓜田 調子に乗って出た第二回大会では北海道の青年にボコボコにやられちゃいましたが(笑)、勝ち戦しか知らないヤツはどっかで死んだりしますから、あれもいいクスリです。自分の力を過信しちゃダメ。運だっていつかは尽きます。僕は痛い思いや苦しい思いをいっぱいしてきたから、運がないのかなって思うこともあるけど、その分、嫁との幸せを手に入れることができたからオールOKですね。

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 苦難を乗り越え、虚飾を脱ぎ捨て、真実の愛にたどり着いた瓜田。街はハロウィンに沸いていたが、午後10時になると「嫁に心配をかけたくないので」と言い残し、家路についた。

(取材・文=岡林敬太)  2015年11月24日   livedoor