ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

災害から「逃げられない人」を減らしたい

2019年01月30日 19時40分36秒 | 障害者の自立

2011年の東日本大震災時、被災3県での障害者手帳保持者の死亡率は全住民の約2倍で、死者数の約6割を占めていたのは65歳以上の高齢者だ。

災害時に支援が必要な人をどう避難させるかが大きな課題となっている中、その手段の一つとして注目を集める「JINRIKI®」開発者の中村正善さんに話を聞いた。

きっかけは「弟」「観光」「震災」

人力車のように前輪を持ち上げ、段差や砂利道もスムーズに移動

「JINRIKI」とは、けん引レバーを車椅子に装着して使う補助装置の名前。車椅子を後ろから「押す」のではなく、人力車のように前から「引く」というアイディアから生まれた道具で、災害避難用として自治体を中心に導入が広がっている。

 

 

前輪がとられやすい砂浜や雪道でも、JINRIKIが活躍 

開発したのは、長野県にある株式会社JINRIKIの代表取締役・中村正善さんだ。金融系システム開発の会社で働いていた中村さんは、ある時、標高1500mにある上高地(長野県)での観光客誘致のコンサルティングを担当することになった。そこで、そこまで来られなかった高齢者や車椅子ユーザーを観光客として呼ぼうと考え、河川敷や山道にも対応できる車椅子を探したという。

弟が車椅子に乗っていたこともあって、段差や砂利道での不自由さはよく知っていました。でも、どこを探してもいい車椅子は見つかりませんでした。

どうしたら凹凸道でも楽に進めるのかと車椅子を眺めているうちに閃いたのが、前輪を持ち上げるというJINRIKIの仕組みだった。

車椅子の小さい前輪は、段差や凹凸にひっかかりやすい。そのため、介助者が押す場合は力をかけて前輪を持ち上げ、段差を越えなければならない。けん引レバーをつけて引けば、テコの原理で前輪が浮き、大きな後輪だけになるので、凹凸道だけでなく砂浜や雪道もスムーズに進めるのだ。しかし、商品開発の経験がなかった中村さんは、アイディアを思いついたものの、一旦はあきらめてしまう。

再び思い出したのは、2011年3月11日に東日本大震災が起きた時だ。

高齢者や足の不自由な人が逃げ遅れたと知り、がれきや坂道でも移動できるJINRIKIがあれば、助けられたかもしれないと思ったんです。

車椅子ではない人と同じタイムで避難可能に。

負傷者、妊婦など、広がる用途。登山や観光にも活用

思い立った中村さんは会社を退職。試行錯誤しながらJINRIKIの試作機を一人で完成させる。「大変な作業でしたが、試作機を作っていた時にかけられたひと言が私を支えてくれました」

それは、避難訓練の時だった。三重県では、2011年秋の避難訓練に初めて車椅子ユーザーも参加したが、急な坂の上にある避難場所まで逃げることができなかった。しかし、その翌年、できたばかりのJINRIKIの試作機を訓練で使ったところ、全員が車椅子ではない人と同じタイムで介助者と避難場所までたどり着くことができたのだ。

その時、参加した車椅子の男性が「あなたは私たち家族の命の恩人です」と中村さんに声をかけてきた。「津波が来たら、家族はおそらく私を置いては逃げられない。だから、その時に、私たちの人生はおしまいだと思っていました」

このひと言に、中村さんは「なんとしても商品化させよう」と決意する。

災害時に一人で迅速な避難ができないのは、障害のある車椅子ユーザーだけではない。高齢者、視覚障害者や知的障害者、妊婦や怪我、病気の人なども想定される。

「東日本大震災では、助けようとした支援者も逃げ遅れました。必要な人はたくさんいるはず」

会社員時代の貯金をつぎ込み、専門家の協力も得て3年かけて商品化。国内外での特許も取得した。

今では、災害避難用だけでなく、観光地でもJINRIKIを取り入れるところが少しずつ増えている。今年4月に障害者差別解消法が施行されたが、観光地のバリアフリー化はなかなか進んでいない。そんな中、兼六園や和歌山城、札幌の雪祭りなどでもJINRIKIが取り入れられるようになったのだ。マウントレースやビーチなどレジャーにも利用され始めている。

前輪がとられやすい砂浜や雪道でも、JINRIKIが活躍 

 「これで登山にもチャレンジしたんですよ。ワンタッチで着脱できるので、観光や旅行時に携帯して段差や坂道に慣れておけば、災害時にあわてないですみます」

車椅子に乗っている人の体重のおよそ10%程度の力で持ち上がると言い、子どもでも大人の車椅子を引くことが可能だ。試しに75㎏の男性が乗った車椅子にJINRIKIをつけて引かせてもらうと、後ろから押した時には越えられなかった段差を軽々と越えることができた。坂や山道、階段などでは前後に一人ずつ介助者をつける。

「100回聞くより、一回引いたほうがわかるでしょう?」と中村さん。

9割の車椅子に対応可能。いずれは東北の復興事業に

開発にあたって、こだわったことが二つある。一つは、できるだけどんな車椅子にも取り付けられること。電動式、自走式、オーダー製など、約9割の車椅子に取り付け可能なため、乗り慣れた車椅子を変えなくてすむ。もう一つは、部品を国内で分散して製造することだ。

「今は長野県内の10社に外注しています。コストで考えれば、海外でまとめて作ったほうが安い。でも、東日本大震災がきっかけで生まれた商品なので、販売台数が増えたら宮城や福島県の復興事業にしたいのです」

昨年からは、一部の自治体で、障害者総合支援法の「特例補装具」「日常生活用具」として補助の対象にもなった。

「災害時にいかに安全に速やかに避難するかは重要な課題。JINRIKIがあれば、車椅子だからとあきらめていた場所も移動できるようになります。車椅子を『引く』姿はまだちょっと見慣れないかもしれませんが、これが当たり前になるくらい、早く普及させたいですね」

 (中村未絵) 株式会社JINRIKI
〒399―4601
長野県上伊那郡箕輪町中箕輪9514―1
TEL:050―5835―1000
販売している主な商品は、ワンタッチで取り外し可能な「JINRIKI QUICKⅡ」(バッグ付。6万4800円。税別)と、常時装着タイプの「JINRIKI」(4万9800円。税別)など。器具の重さは約3㎏。累計販売台数、約5千台。
http://www.jinriki.asia/

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災害から「逃げられない人」を減らしたい

2019年01月30日 19時06分17秒 | 障害者の自立

東日本大震災の経験から誕生、世界初の車椅子・補助装置「JINRIKI」

開発したのは、長野県にある株式会社JINRIKIの代表取締役・中村正善さんだ。金融系システム開発の会社で働いていた中村さんは、ある時、標高1500mにある上高地(長野県)での観光客誘致のコンサルティングを担当することになった。そこで、そこまで来られなかった高齢者や車椅子ユーザーを観光客として呼ぼうと考え、河川敷や山道にも対応できる車椅子を探したという。

弟が車椅子に乗っていたこともあって、段差や砂利道での不自由さはよく知っていました。でも、どこを探してもいい車椅子は見つかりませんでした。

どうしたら凹凸道でも楽に進めるのかと車椅子を眺めているうちに閃いたのが、前輪を持ち上げるというJINRIKIの仕組みだった。



車椅子の小さい前輪は、段差や凹凸にひっかかりやすい。そのため、介助者が押す場合は力をかけて前輪を持ち上げ、段差を越えなければならない。けん引レバーをつけて引けば、テコの原理で前輪が浮き、大きな後輪だけになるので、凹凸道だけでなく砂浜や雪道もスムーズに進めるのだ。しかし、商品開発の経験がなかった中村さんは、アイディアを思いついたものの、一旦はあきらめてしまう。

再び思い出したのは、2011年3月11日に東日本大震災が起きた時だ。

高齢者や足の不自由な人が逃げ遅れたと知り、がれきや坂道でも移動できるJINRIKIがあれば、助けられたかもしれないと思ったんです。

車椅子ではない人と同じタイムで避難可能に。

負傷者、妊婦など、広がる用途。登山や観光にも活用

思い立った中村さんは会社を退職。試行錯誤しながらJINRIKIの試作機を一人で完成させる。「大変な作業でしたが、試作機を作っていた時にかけられたひと言が私を支えてくれました」

それは、避難訓練の時だった。三重県では、2011年秋の避難訓練に初めて車椅子ユーザーも参加したが、急な坂の上にある避難場所まで逃げることができなかった。しかし、その翌年、できたばかりのJINRIKIの試作機を訓練で使ったところ、全員が車椅子ではない人と同じタイムで介助者と避難場所までたどり着くことができたのだ。

その時、参加した車椅子の男性が「あなたは私たち家族の命の恩人です」と中村さんに声をかけてきた。「津波が来たら、家族はおそらく私を置いては逃げられない。だから、その時に、私たちの人生はおしまいだと思っていました」

このひと言に、中村さんは「なんとしても商品化させよう」と決意する。

災害時に一人で迅速な避難ができないのは、障害のある車椅子ユーザーだけではない。高齢者、視覚障害者や知的障害者、妊婦や怪我、病気の人なども想定される。

「東日本大震災では、助けようとした支援者も逃げ遅れました。必要な人はたくさんいるはず」

会社員時代の貯金をつぎ込み、専門家の協力も得て3年かけて商品化。国内外での特許も取得した。

今では、災害避難用だけでなく、観光地でもJINRIKIを取り入れるところが少しずつ増えている。今年4月に障害者差別解消法が施行されたが、観光地のバリアフリー化はなかなか進んでいない。そんな中、兼六園や和歌山城、札幌の雪祭りなどでもJINRIKIが取り入れられるようになったのだ。マウントレースやビーチなどレジャーにも利用され始めている。

 
北海道旭岳への登山。車椅子1人、サポート3人で約1800mまで登った
 
「これで登山にもチャレンジしたんですよ。ワンタッチで着脱できるので、観光や旅行時に携帯して段差や坂道に慣れておけば、災害時にあわてないですみます」
車椅子に乗っている人の体重のおよそ10%程度の力で持ち上がると言い、子どもでも大人の車椅子を引くことが可能だ。試しに75㎏の男性が乗った車椅子にJINRIKIをつけて引かせてもらうと、後ろから押した時には越えられなかった段差を軽々と越えることができた。坂や山道、階段などでは前後に一人ずつ介助者をつける。

「100回聞くより、一回引いたほうがわかるでしょう?」と中村さん。
前輪がとられやすい砂浜や雪道でも、JINRIKIが活躍 
 
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ろう者の写真家が手話で「語った」少数者としての「生存戦略」

2019年01月30日 18時39分56秒 | 障害者の自立

 音のない世界で「声」を撮り続けている写真家がいます。齋藤陽道(はるみち)さん(35)。ミスチル(Mr.Children)のアルバムジャケットなど、有名アーティストを被写体に数々の作品を手がけてきました。齋藤さんは、耳が聞こえないろう者です。聞こえる人たちがつくる社会で生活をしている聴覚障害者たち。中でも、第一線の写真家として活動する齋藤さんは「わかり合えないことって、誰にでもある。その孤独感が、聞こえる人と聞こえない人をつなげることもできる」と話します。齋藤さんの言葉から「誰かとわかり合う」ことの意味を考えます。(withnews編集部・平尾勇貴)

写真が伸ばす「声の限界」

 現在、写真集『宝箱』(ぴあ)と『感動』(赤々舎)を刊行し、7年がかりの写真プロジェクト「神話」に取り組んでいる齋藤さん。写真を撮り始めたきっかけを聞くと、意外にも「写真が好きで始めたわけではない」と語ります。

 初めてインスタントカメラを手にした中学生の頃は、不自然なくらいに人の写っていない写真が多かったそう。人の感情や意思が宿る「声」をモチーフに選ぶようになったのは、手話に出会ってからでした。

 「とにかく、いろんな人や動物や、見えないものなど、いろんな存在と関わりたいと思っていて、それにあたって、写真がすごくちょうどよかったという感じですね」

 齋藤さんの写真集には、動物や風景、障害者、LGBTQなどが被写体となっている写真が収められています。そのどれもが被写体の「声」を感じさせる写真ばかりです。 

 こうした被写体の「声」が写し出される写真は、多くの人々を魅了し、日本写真協会新人賞をはじめ数々の賞を受賞するなど評価されてきました。

 齋藤さんが撮る写真の多くは、被写体を中心に据えた「日の丸構図」で撮られたものです。それは、齋藤さんが被写体の存在に真正面から一対一で向き合ってきた結果でした。

 聞こえないという孤独のなかで、世界と自分とを結びつけるものとしての写真。写真を撮ることを通して、他者と関わり、つながろうとしていたそうです。

 「写真をやることで、他者と関わるために必要な『声』というものの限界が、どんどん伸びて、広がっていく感じがあって、それが、とにかく、うれしくて、おもしろいです」

 齋藤さんは「声」を「目の前にいる存在とこの私との間で相互に通いあうもの」だといいます。手話、表情、手のぬくもり、やわらかなまなざし、抱きしめられた時の力強さ。写真家としての原点は、こうした豊かな「声」の届かない「孤独」にありました。

齋藤陽道さん=河原夏季撮影

齋藤陽道さん=河原夏季撮影

ただ「わかる」だけではない言葉の豊かさ

 齋藤さんが耳が聞こえないと分かったのは、2歳になる頃。発音を身につける施設で、しゃべるための厳しい訓練を繰り返したそうです。

 しかし、そうして身につけた自分の発音は、自分の耳では聞こえません。自分の言葉のはずなのに、目の前の人の反応をみることでしか確認できない言葉でした。

 それでも、小中学生の時は、聞こえる世界に憧れて、音声言語にこだわり続けました。聞こえてしゃべれて当たり前。そんな「呪い」が、齋藤さんを捕らえて離さなかったそうです。

 聞こえると見せかけるために電話をかけるふりをしたり、日本語がきちんとしゃべれると見せかけるために、会話では発音が得意な言葉を多用したりしていたといいます。しかし、そんな生活は齋藤さんの孤独を深めていくばかりでした。

 転機は高校生の時にやってきました。聞こえる人たちに合わせる生活に耐えきれなくなり進んだ「石神井ろう学校」(現・東京都立中央ろう学校)で、手話と出会うのです。

 片手をグーにして枕を下げる動作で表す「おはよう」の手話。シンプルでも、使う人それぞれ表現が違うことに驚きました。手話に触れてはじめて、同じ言葉なのにひとりひとり違う「声」がある、と気づいたそうです。

齋藤陽道さんと息子の樹(いつき)さん

手話で感じた「声」のめぐり

 手話と出会い、二十歳で補聴器を着けずに生きていくと決めたそうです。その時の決断を振り返って、こう語ります。

 「補聴器を使って音を聞こうとする限り、自分じゃない自分のままでいるような気がして。当時は直感でしたが、今となってみれば、すごく正しい選択でした」

 「『自分の身体に戻ることが出来た』と思いました。今はとても快適です」

 そう語る齋藤さんは、自身の半生を記した著書『声めぐり』で次のように述べていました。

 手話が自分の気持ちと深く結びついたものとして話せるようになるにつれて、ありふれた「声」が言えるようになってくる。「声」を出すと、相手からも「声」が返ってくる。何のあいまいさもなく、明確に伝わってくるものとして、その「声」は目に聴こえる。

 ぼくから相手へ。相手からぼくへ。

 声のめぐりを感じるほどに、冷え切っていた声に血が通い、ぬくもりが宿りだした。

出典:齋藤陽道『声めぐり』(晶文社)から

 齋藤さんは「目がどんなふうに合ったかとか、手を握るときの、指先や手のひらが感じた直感とか、そういうものを、筆談や手話、通訳といった、ただわかるだけの言葉よりも、大事にしています」と教えてくれました。

 

「つんぼ」の言葉に感じてしまった「ぬくもり」

 22歳になった齋藤さんは、アルバイトとしてやきとり屋に飛び込みます。業務は厨房での皿洗いと調理補助。耳が聞こえないため、バイトリーダーとのコミュニケーションが大きな壁となりました。

 リーダーは、ぼそぼそとしゃべる人でした。話が全く聞き取れない齋藤さんが、指示が分からずにうろたえている様子を面白がっていたそうです。せめて筆談を、と頼んでも無視されるばかりだったといいます。

 しかし耳が聞こえないことを理由に、数十件の面接で落とされた末、ようやく合格できたバイト。簡単には辞められませんでした。

 ある日、サラダや揚げ物の仕込みをしていた時のこと。バイトリーダーが齋藤さんの肩をつかみ、憎々しげな表情でゆっくりと、こう言い放ったのです。

「つ ん ぼ は よ け い な こ と を す る な」

 リーダーが放った侮蔑の言葉。口を大きく開けながら、ゆっくりと区切って発せられたその言葉は、「こいつにしっかり分かるようにののしってやろう」という思いで発せられたのでしょう。

 にもかかわらず、齋藤さんは、一瞬、「血の通ったぬくもりのある喜び」を感じたといいます。

 「別に聞こえる人とも交わらなくてもいい、会話できなくても我慢すればいい。生きるためにはお金が必要だから、という思いでいて、平気なつもりでした」

 「でも、たとえ悪口であったとしても、それが分かるということに喜びを感じてしまった。『ああ、そうか。人と言葉を交わしたいんだな』という自分の気持ちに行き当たりました。孤独が極まっているなと思いました」

 本来なら差別に反抗すべきなのに、相手のしゃべっている声が分かるという喜びを、感じてしまったのです。「ああ、あれは怒るべき場面じゃないか」と気づいたのは後になってからでした。

 差別と侮蔑が込められた言葉。皮肉にもそれは、バイト先で孤独だった齋藤さんが、ようやくバイトリーダーと通じあえた、「声」の交差点でした。

聞こえる人の世界で過ごすための「生存戦略」

 今回、取材をした私は難聴者。齋藤さんと同じ障害ですが、筆談や手話でコミュニケーションをする齋藤さんと異なり、主に口の動きを読んだり自分の声でしゃべったりすることでコミュニケーションをすることが多いです。取材は手話と筆談で行いました。

 聞こえる人たちが作る社会で、聞こえない人は生活しています。私には聞きたいことがありました。耳が聞こえない私たちが、聞こえる人たちと上手く付き合っていくための「生存戦略」についてです。

 私の場合、会話が分からなくてもうなずきや愛想笑いをして、「騒がしいところでちゃんと会話が出来ているように見せかけるために、結論を知っている話を振る」といったことをしたことがありました。今思えば「自分は普通に聞こえてしゃべれる人間だ」と誰かに認められたかったのかもしれません。

 齋藤さんにそのことを話すと、「それはぼくもよく使いました。つらいねえ」と共感してくれました。

 これまでにとっていた「生存戦略」はありますか――。私の問いかけに、少し間が空いて、こんな答えが返ってきました。

 「戦略というほどでもないですが、自分のものじゃない言葉を、少しずつ自分の中から追い出し、自分のろうである身体やこころの感覚で感じていることを、正確に正直に伝える、というちいさなことから始めました」

借りものだった言葉を取りもどす

 齋藤さんがそれまでに触れてきた言葉や文章のほとんどが、聞こえる人たちの感覚で作られたもの。いざ伝えようとしてみると、聞こえる人たちのリズムや聞こえ方で作られた言葉が、ほんとうはそんな音を聞いたことがないにもかかわらず、つるつると出てきてしまう。手話が自分の言葉になるにつれて、徐々に違和感が芽生えてきたそうです。

 今、齋藤さんは、ろうである身体の感覚に合った言葉を選ぶようにしていると言います。例えば、「おはようと言った」としがちなところを「その手は『おはよう』と動いた」「その口は『おはよう』を示していた」と表現するようにしたそうです。

 「意味としては同じだけど、ぼくが日常的に見て使って、なじみあるものは、明らかに後者なんです。そういうふうに、だんだん言葉と自分の感覚が近づいてきたころには、すごく楽になりましたね」

 生活に言葉は欠かせません。その言葉が、聞こえる世界に住む他者からの借りものだったら。齋藤さんは生き抜くために、自分の実感に合わない「つるつるの言葉」を使わないという道を選びました。

 それは、ろうである自分の身体やこころで感じとれる言葉だけを使う生き方でもあります。こうすることで、他の人と同様に聞き、話せない人が、時にはじかれてしまう社会と距離を置くことにしたのです。

「わたしの名前はわたしのもの」

 斎藤さんが、この自分の感覚をごまかさずに表現した作品のひとつが、「わたしの名前はわたしのもの」という意味を込めた「MY NAME IS MINE」です。手話がことばになってきた自分自身の感覚を、写真のうえにどうやって活かすことができるかという実験でもありました。

@Harumichi Saito

@Harumichi Saito

 「MY NAME IS MINE」は、ろう者が自分の名前を表現する手話の動きを捉えています。齋藤さんは、「手話は、その人の姿や手やそのまわりの空間があってこその言葉です。手だけではなく、その人の存在すべてをもって見る言葉です。存在自体がすでに名前になっているのだ、ということでもあります」と語ってくれました。

他者と関わる「幅」を広げる

 聞こえる人と、聞こえない人。わかりあえる部分はあるのでしょうか。齋藤さんは「こんなにも分かりたいと願うのに分からない」という「孤独」でつながれる部分があると語ります。

 「好きな人がいるけれど、相手が何を考えているか分からないとか、師匠や先輩が自分のことをどう思っているのかが理解できない、とか。結構ささいなことでも感じているはずです。そんな感情って、聞こえても、聞こえなくても共通ですよね。どっちもただの人間だから」

 「でも、聞こえない人と聞こえる人とでは、そう感じる場面の比重に差が、ものすごくあるんです」

 しかし、齋藤さんはこう続けます。

 「聞こえない人の抱える孤独感を、自分がこれまでに感じたであろう孤独感と結び、つなげてもらえたらいいなと思います。同じ人間として抱えざるをえないものを、起点として見つめるしかないですね」

 「大切な問題は、聴覚障害がどうこうではなく、他者と関わるため方法が、幅が、ものすごく狭い、というところにあると思っています。その、他者と関わるために必要な『声』の幅を広げることはずっと考えています」

 「幼い子どもが、初めて世界に触れるときのような方法、衝撃に、「声」の幅を広げるヒントがあります。世界にあるもの、自分が見つめる先にあるもの、そのことごとくがメッセージです」

 他者との関わり方の幅を広げる。豊かな「声」を受け取れるようになること。必要なのは、少しの好奇心と、少しの勇気。わかり合えないことから、それでもわかり合うために、私自身も、自分のコミュニケーションのスタイルを固定せずに、豊かな世界に対してひらかれた身体でありたいと思っています。

インタビューを終えて

 今回、取材をした私は難聴の障害を抱える当事者でもあります。手話と筆談。お互いが自由に使える言葉で行われたインタビューでは、普段とは違った心地よさを感じました。

 私の場合、音声言語を使ったコミュニケーションが中途半端にできてしまうこともあり、これまでは手話を本格的に習得する道を選ばず、聞こえる言葉の世界で生きるという選択をしました。

 同じ程度の聴覚障害でも、ろう者として生きる齋藤さんと、難聴者として生きる私。生き方の違いから見える発見が少なからずありました。

 「手話と出会って、自分の身体に戻ることができた」。すっきりとした表情でそう語る齋藤さんを、心底うらやましく思う一方、まだ自分の言葉を見つけることが出来たという経験がない私にとってはあまりピンとこず、さみしさを感じました。

 でも、障害者同士でも、障害に対する考え方の違いがあることには、むしろ、うれしさとして受け止めました。

 特に印象に残ったのは「ろうである自分の実感にあった言葉を使うことで、自分を取り戻せた」という齋藤さんの発言です。

 人一倍、コミュニケーションの言葉に疎外されてきたからこそ、人一倍、コミュニケーションの言葉を大切にしている。そんな生き方が伝わってきました。

 言葉は豊かな「声」への入り口でもあります。私は普段、手話ではなく、日本語でやり取りをしています。齋藤さんの話を聞きながら、もし自分が手話で物事を考えたのなら、どのような風景が広がるのかを想像しました。

 これまで理解していた概念を、違う「言葉」でもう一度理解し直す。それは、障害の有無を超えて、誰かの豊かな「声」を受け取る助けになるのでしょう。
 齋藤さんが手話と出会い、写真や障害者プロレスをきっかけに自分のことばを取りもどしていくまでが、齋藤陽道『声めぐり』(晶文社)に記されています。
 齋藤さんのパートナーのまなみさんや子どもの樹(いつき)さんなど、自分と異なる存在との豊かな「声」をめぐった交流が、齋藤陽道『異なり記念日』(医学書院)に記されています。
 ◇ ◇ ◇

 一般に、なじみが薄くなりがちな障害者の存在。でも、ふとしたきっかけで、誰もが当事者になるかもしれません。全ての人が、偏見や無理解にさらされず、安心して暮らせる社会をつくるには?みなさんと考えたくて、withnewsでは連載「#まぜこぜ世界へのカケハシ」を企画しました。国連が定めた12月3日の「国際障害者デー」を皮切りに、障害を巡る、様々な人々の思いを伝えていきます。

2019年01月30日         withnews(ウィズニュース)

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職員聴取7割「身内」 厚労省、統計不正の調査やり直し

2019年01月30日 17時34分41秒 | 障害者の自立

 毎月勤労統計の不正問題で、厚生労働省は二十九日、外部の有識者委員で構成する特別監察委員会の調査を全面的にやり直す方針を決めた。不正に関係したとされる同省職員・元職員のうち七割近くは外部委員が聴取せず、「身内」の職員だけで話を聞いていたとして、国会での答弁を訂正した。

 二十五日に再調査方針を示した際は「監察委報告書の補強」として追加的な聴取にとどめる方向だったが外部委員が対象者全員から聴取し直す抜本的な再調査が必要と判断した。厚労省が組織的隠蔽(いんぺい)を否定する根拠としていた監察委調査の中立性が完全に失われた。

 昨年発覚した障害者雇用水増し問題でも、第三者検証委員会の報告書の原案を厚労省が作成していたことが新たに判明。身内の関与の常態化が浮き彫りとなった。

 統計不正問題を巡って通常国会で論戦が始まり、安倍晋三首相は二十九日の参院本会議で「不足した給付の速やかな支払いや徹底検証、再発防止に全力で取り組んでほしい」と述べた。

 監察委の調査に関しては、二十四日の国会の閉会中審査で厚労省幹部が、部局長級、課長級計二十人の聴取は外部委員が担当したと答弁していた。だが二十九日になって約半数の八人は身内の同省職員のみで実施したと訂正。前身の監察チームを含め、課長補佐級以下を合わせた対象三十七人のうち二十五人を身内のみで聴取していた。

 監察委による聴取の一部では、事務方ナンバー2の宮川晃厚労審議官や、定塚(じょうづか)由美子官房長が同席して質問もしており、根本匠厚労相はこの日の記者会見で「結果として第三者性への疑念を生じさせてしまった」と述べた。

 障害者雇用水増しでは昨秋の臨時国会を控え、政権が報告書の早期取りまとめによる沈静化を急いだ経緯がある。聴取は検証委の外部委員が担ったが、国の三十三行政機関の人事担当者に対し計約三十五時間で、単純計算では一機関当たり一時間強だけ。検証内容が正当かどうか、統計不正と同様に議論を呼びそうだ。

2019年1月30日        中日新聞

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不良品の靴下をモンキーに 芦屋の作業所が制作

2019年01月30日 17時25分44秒 | 障害者の自立

 障害のある人たちが働く「就労支援センター ワークキューブ」(兵庫県芦屋市公光町)が靴下でできたサルの縫いぐるみ「ソックモンキー」を作っている。生産過程で出る不良品の靴下を、カラフルで愛らしい縫いぐるみに生まれ変わらせるプロジェクト。販売を予定し、関わる人たちは「多くの人に癒やしを届けたい」と願う。

 ワークキューブは就労継続支援A型作業所で、27人の利用者が芦屋大学(同市六麓荘町)内のカフェでの接客、会計入力や造花を使った雑貨作りに取り組む。

 ソックモンキーはワークキューブと雑貨店「mokono(モコノ)」(同市大桝町)と靴下製造販売「稲坂莫大小製造(稲坂メリヤス製造)」(同市業平町)が協力。稲坂莫大小で出た不良品をワークキューブが仕入れて縫いぐるみを作る。

 利用者は特性に合わせて作業を分担し、丁寧に作り上げる。1体ずつプロフィルがあり、最初にできたソックモンキーの愛称は「マサル」で「温厚で仲間思い。妹には頭が上がらない性格」だという。

 ワークキューブの鍋島奈穂子代表(56)は、障害者が作った物ではなく「いいなと思った物がたまたま障害者によって作られていた」と思われることを望み、「かわいいソックモンキーが私たちの活動を広げてくれたら」と話す。

 4月から、ワークキューブの店舗やホームページなどで販売を予定する。価格は稲坂莫大小製造の靴下を使った物が2500円から、市販の靴下を使った物が1500円から。ワークキューブTEL0797・21・5577

ワークキューブで作っている靴下でできたサルの縫いぐるみ「ソックモンキー」=芦屋市公光町

ワークキューブで作っている靴下でできたサルの縫いぐるみ「ソックモンキー」
 
2019/1/30    神戸新聞NEXT
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