ルカ福音書5章からの、前回の続きです。
ペテロたちはある意味、魚のこと,
漁のことについては詳しいプロの漁師でした。
ですから、信仰のことについては
詳しい先生であっても、
漁のことでは素人とも思える
イエスの言われることに従うことは
そう簡単ではなかったはずです。
一晩中働いても魚が獲れなかったところへもう一度漁に行くように、
イエスに言われたのです。
この聖書を読んでいるわたしたちは、
この話の結果を知っていますので、
それほど驚くこともないのですが、
この時のペテロの立場を想像し、
その状況に立てば、話はそう簡単ではなかった
と思われます。
「おことばですので」と言っているペテロがここにいます。
自分が漁師として身に着けている知識、
経験からすれば無理な話ではあっても、
先生のお言葉ですからやってみます、
ということです。
ここに信仰とは何かについての、
とてもわかりやすい教えがあります。
自分の持っている知識、
今まで経験してわかっていること、
そういうことを横において、犠牲にして、
イエスの言われることに従うこと,
これはそう簡単なことではありません。
「でも、おことばですから」とはそういう意味ですね。
5:4 話が終わるとシモンに言われた。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5:5 すると、シモンが答えた。
「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。
でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
お気づきですね。
ここでも、イエスのひと言は、ある意味で命令的な言い方です。
もう一度、網を下ろしてみてはどうですか、という提案ではありません。
わたしやあなたの人生とは、
自分の知識や経験したことを踏まえての
日々の歩みです。
そこから外れることは、
人にはわかってもらえない非常識な行動
ということになります。
それも、長年自分の身に着けてきた知識や経験に
反するという場合は、なおさらそうです。
しかし、イエスは今でも、
ご自分の言われる言葉に従う人を求めておられます。
その人の言う言葉を信じて従うということは、
その人を信じることです。
その人の言う言葉を信じないのは、
その人を信じないことです。
この聖書を読んでいるあなたやわたしは、
この後の結果、つまり大漁の奇跡が起こることがわかっています。
しかし、この時のペテロはその後、
どういうことになるのか、
その結果はわかっていません。
大漁の魚が獲れるとわかっていて
「おことばですから」と従ったのではありません。
今日、わたしたちは
イエスの肉声の言葉を聞くことは出来ません。
しかし、聖書を通して、
あるいはいろいろなことを通して、
イエスは聖霊によっては今も、
わたしたちに語りかけておられます。
そう、わたしは信じています。
ヘブル 11:6a
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
(新改訳2017)
あなたも小さなことでも大きなことでも、
ことの大小には関係なく、
ペテロのように「おことばですから」
と従った経験はおわりではないでしょうか。
それは勇気のいる信仰だったと思います。
それはどういう場合でしたか。
その結果はどうでしたか。






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