大漁の奇跡が起こったこのガリラヤ湖畔は、
イエスの宣教の開始の場でもありました。
その時、イエスは「悔い改めよ。
その時、イエスは「悔い改めよ。
天の御国は近づいた」と言われました。
聖書には、福音とは「罪の赦しの福音」とも
言われていますが、
「神の国の福音」とも言われています。
ルカ4:43
しかしイエスは、彼らにこう言われた。
「ほかの町々にも、
神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。
わたしは、そのために遣わされたのですから。」(新改訳2017)
「ほかの町々にも、
神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。
わたしは、そのために遣わされたのですから。」(新改訳2017)
天の御国、神の国、天国などの「国」は
単なる国ではなく、
原語でも英訳でも王国(キングダム)です。
王のいる国のことです。
単なる国ではなく、
原語でも英訳でも王国(キングダム)です。
王のいる国のことです。
もちろん、この神の王国での王とは、
主イエスのことですね。
主イエスが王であるところに神の国があります。
主イエスのことですね。
主イエスが王であるところに神の国があります。
では、このルカ5章の「大漁の奇跡」の話を、
神の国の視点から見ていくとどうなるでしょうか。
神の国の視点から見ていくとどうなるでしょうか。
5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り・・・
シモンの舟に乗る時、「乗せてください」と、
シモンに頼んでいませんね。
シモンに頼んでいませんね。
5:4 話が終わるとシモンに言われた。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
このイエスの言葉はお願いや提案ではなく、
命令的な言葉です。
命令的な言葉です。
ペテロはこのイエスの言葉に従いました。
彼自身、強い確信があったわけではありませんし、
もちろん大漁の奇跡を期待していたわけでも
ありません。
彼自身、強い確信があったわけではありませんし、
もちろん大漁の奇跡を期待していたわけでも
ありません。
それほどの確信があったわけでもなく、
イエスの言葉があまり理解できないままでの
従順でした。
イエスの言葉があまり理解できないままでの
従順でした。
この場合、イエスの言葉が理解できるか、
できないかではなく、
その言葉に従うかどうかが問われています。
できないかではなく、
その言葉に従うかどうかが問われています。
ペテロのみ言葉への従順は、
意外と何もわかっていないままでの従順でした。
意外と何もわかっていないままでの従順でした。
意味も分からないままで、
その人の言葉に従うとは、
その人を信じ、信頼していることになります。
その人の言葉に従うとは、
その人を信じ、信頼していることになります。
イエスの招きに応えて、
ペテロは自分のこれまで生きてきた漁の世界、
つまり自分の国から出て、
王であるイエスの命令に従い、
神の国の圧倒的な力を見ることになりました。
そして、その神の国の中に生きる者となったのです。
ペテロは自分のこれまで生きてきた漁の世界、
つまり自分の国から出て、
王であるイエスの命令に従い、
神の国の圧倒的な力を見ることになりました。
そして、その神の国の中に生きる者となったのです。
そして、やがて、ペテロたちはこの世から
人間をとって神の国に入れる働きを
することになりました。
人間をとって神の国に入れる働きを
することになりました。
この大漁の奇跡のお話は目に見える映像として
イメージできますが、
一方で、ここに目に見えない神の国が
表されています。
イメージできますが、
一方で、ここに目に見えない神の国が
表されています。
こういう視点でも、この話を読むことができる、
とわたしは思っています。
とわたしは思っています。
マタイ 6:33
まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはすべて、
それに加えて与えられます。(新改訳2017)
まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはすべて、
それに加えて与えられます。(新改訳2017)






※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます