ルカ7章から前回の続きです。
自分の態度に対して批判的、
否定的な思いをもっている人に対して、
こんな風にたとえ話をされるイエスについて、
どう思われますか、
という問いで前回は終わりました。
否定的な思いをもっている人に対して、
こんな風にたとえ話をされるイエスについて、
どう思われますか、
という問いで前回は終わりました。
自分に批判的な思いをもっている人に対して、
わたしはやはり、自分を守るような、
弁解するような言い方で対応するかもしれません。
わたしはやはり、自分を守るような、
弁解するような言い方で対応するかもしれません。
「いや、わたしはこの人のことをあなたが
見ているようには見ていませんよ」と言えば、
やはり自分を守るような言い方ですね。
見ているようには見ていませんよ」と言えば、
やはり自分を守るような言い方ですね。
イエスの態度に対して、表向きは黙っていましたが、パリサイ人シモンは内心、
批判的な目で見ていました。
その心の中の思いに気づいてイエスは、
このたとえ話をしておられます。
批判的な目で見ていました。
その心の中の思いに気づいてイエスは、
このたとえ話をしておられます。
余裕ですね。
7:41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。
一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
7:42 彼らは返すことができなかったので、
金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。
それでは、二人のうちのどちらが、
金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
7:43 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、
イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
このたとえ話は、
罪深い女のことではなく、ある金貸しのことでした。
罪深い女のことではなく、ある金貸しのことでした。
そして、500デナリ借りた人と50デナリ借りた人の話でした。
パリサイ人シモンは、
罪深い女とその態度に黙っているイエス、
その2人のことを問題にしています。
罪深い女とその態度に黙っているイエス、
その2人のことを問題にしています。
ところが、イエスのたとえ話は、
2人の話ではなく3人の話です。
2人の話ではなく3人の話です。
シモンはもうひとりのことを忘れていますね。
そのもうひとりとは誰のことでしょうか。
そうです。パリサイ人シモン自身のことです。
自分のことは横において、
人のことばかり言っている、
そういう経験はありませんか。
わたしはあります。
人のことばかり言っている、
そういう経験はありませんか。
わたしはあります。
しかし、イエスは、
「あなたは自分のことは横において、
人のことばかり問題にしていますね」
とは言っておられません。
「あなたは自分のことは横において、
人のことばかり問題にしていますね」
とは言っておられません。
たとえ話をして、その後、質問をしておられます。
その質問にシモンは答えました。
そのシモンの答えに対してイエスは
「あなたの判断は正しい」と言われました。
「あなたの判断は正しい」と言われました。
シモンは正しい判断をしました。
イエスはそれをハッキリ認めています。
イエスはそれをハッキリ認めています。
ここで、あなたやわたしが信じているイエスとは
どういう方だと思いますか。
どういう方だと思いますか。
では、シモンの何が問題だったのでしょうか。
シモンは、自分に関係のない話だと、
正しい判断ができるのです。
しかし、自分に関係のあることについては
正しい判断ができるとは限りません。
正しい判断ができるのです。
しかし、自分に関係のあることについては
正しい判断ができるとは限りません。
もっと言えば、人のことは見えていて
わかりやすいのですが、
自分の問題は見えていないのです。
わかりやすいのですが、
自分の問題は見えていないのです。
更にもっと言えば、
シモンは自分の問題も見えていないし、
イエスのことも見えていませんでした。
シモンは自分の問題も見えていないし、
イエスのことも見えていませんでした。
イエスの金貸しのたとえ話の3人のことは
よくわかっても、自分のこと、イエスのこと、
こちら2人のことが見えていなかったのです。
よくわかっても、自分のこと、イエスのこと、
こちら2人のことが見えていなかったのです。
ところで、
借りた借金が帳消しになるのと罪のゆるしとは
どういう面で共通するところがあるでしょうか。
借りた借金が帳消しになるのと罪のゆるしとは
どういう面で共通するところがあるでしょうか。





