福島第一原発の北西部に位置する浪江町は避難解除されているものの・・・(撮影:岡田広行)
数字上消えた万人単位の避難者は行き先を失い、全国各地をさまよっている。『地図から消される街』を書いた朝日新聞社社会部記者の青木美希氏に東日本大震災から7年経っても変わらない避難者たちの苦境を聞いた。
7年経った今、聞こえてくる避難者たちの苦境
――3.11から丸7年。東日本大震災直後から現場に足を運び、取材を続けているのですね。
デスクから行けと言われた。初めは岩手、それから宮城、福島と、本州を下がっていった感じ。その日の食に事欠き、経済的に困る人たちが発生して、新たな貧困層が生まれたことがどんどん見えてくる。自治体などの住宅提供で何とか暮らせたが、その提供が終わりだし、生活苦が同時に進行していく。
一方で、世間の関心が急速に薄れ、その無関心がまた被災者を苦しめる。「まだそんなことを言っているの」「もう復興しているだろう」「もう帰れる、どうして帰らないの」と、暗黙のうちに責め立てる。これが何重もの苦しみになっていった。
――今も被災地に通って?
困っている人たちの声を私たちがきちんと届けていないから伝わらないのでは、と思って、切迫した現状を伝えることに専心してきた。7年経ち、どうしてこういう形なのか、現在までの時系列と、そして未来においてさらに困るだろう事態までを含めて、包括的にわかってもらおうと考えている。
たとえば支払う学費がなく大学に行けないのは絵空事でなくて本当のことだ。避難した母親がいちばん頭を悩ますのは大学進学。全入時代で誰もが大学に行く。実例として、避難者で当初、学費の給付を受けていた学生が、制度がなくなり中退せざるをえなかったケースを記述した。彼は学校の先生になりたかった。だが大学中退になり、その夢をあきらめて、この4月から社会人になった。学ぶ意欲のある人がその力を十分に発揮できないことにつながり、希望する未来を奪ってしまっている。
――賠償金の期限も来ました。
もともと避難で働く場所を替えなければいけなくなった。正規の職業にありつけず、正社員からパートになった人の話はざらに聞かされた。それだけ世帯収入はどうしても下がってくる。
昨年3月の住宅提供打ち切り後に東京に残った人が7割近くいる。東京都のアンケートで170世帯が世帯収入の質問に答えている。結果はほぼ6割が世帯月収20万円以下。しかもその半分が10万円以下だ。つまり全体の3割近くが10万円以下なのだ。それで生活せよというのは酷ではないか。
放射能との闘いをまだ続けなければならない
――居住費は。
民間の賃貸住宅にはとても住めないから、都営住宅の枠で入っている世帯が多い。住宅提供が打ち切りになったときに、経済的には無理だから出身地に帰らざるをえないと帰った人もいる。ただ、放射能汚染が心配で、福島県内の保育園では外遊びさせず、子どもの活動は県外でさせている母親もいる。
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