散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「永井政治学の世界」 はしがき~第一の契機

2014年10月26日 | 永井陽之助
団塊の世代である筆者は大学時代に永井陽之助氏の授業を受講、卒業後は技術者として民間企業で仕事をし、一介の市民として生活する中で、氏の新たな論文等が公表されるごとに、それらを継続的に読んできた。その意味で、新聞の読書欄を注意深く読み、また、有名書店を適宜に巡って書棚をみるなど、趣味の読書のネタを仕入れると共に、雑誌を立ち読みし、新刊に氏の本あるいは氏の文献解題の中にある本がないか、などのチェックをしていた。

それと共に、普段の生活の中で、マスメディアの様々なニュースに接し、「こんな事象の時に氏はどう考えるだろうか」、あるいは、「そうだ、永井さんは、確か、こんなことを言っていたはずだ」など、思い出すことも良くあって、その都度、本をめくり、該当する箇所を探し、読み直していた。

その読み直しも面白く、これまで理解していたことが、浅い理解であって、「いや、そういうことだったのか!」とか、判らずにいたことが、別の箇所の記述と重なり合い、「やっと、理解できた!」との思いになったりした。

更に、進んでくると、「あそこに書かれた内容をもう一度、確認しておこう!」と頭に浮かび、その箇所と周辺の記述を合わせて読み、周辺部分でも当時、読み飛ばした処に気が付き、認識を新たにするなどの経験も、一度や二度ではなかった。そんなことが重なると、いつからとはなく、氏の思考が独特の方法を含み、「永井政治学」と云って良い様な、いや、そう呼ぶべき内容を豊富に含むと感じる様になってきた。

今から思うとそんな経験なのだ。であるから、表紙が破れたり、破れかかったりしている本がある。激しい順に、「政治的人間」、「柔構造社会と暴力」、「現代政治学入門」、「平和の代償」だろうか。「現代と戦略」も仲間入りしそうだ。

一方、筆者は地域の少年サッカーコーチの経験から、地元の川崎市政及びそれを巡る市議会の実態に関心を持ち、2006年頃から地方議会改革に関する市民活動を手探りで始めた。

そのなかで、有権者の投票行動にも関心を持ち、そんな折り、氏の政治学の主要な概念である「主体的浮動層」の反対概念が「客体的浮動層」(筆者注.現在の無党派層の圧倒的多数に相当すると思われる)であることを確かめる必要にかられて、氏の著作を調べる気になった。うろ覚えの記憶を頼りに、氏の入った座談会「講座 日本の将来 世界の中の日本」の中で、触れられているかなと思い、グーグルで名前を入れて検索したところ、2チャネルにぶつかった。

そこで最新ニュースをみると、何と、
『<訃報>永井陽之助さん84歳=国際政治学者、2009年3月18日 毎日新聞
現実主義の論客として活躍した国際政治学者、東京工業大、青山学院大名誉教授の永井陽之助さんが昨年12月30日に亡くなっていた』。
 『永井陽之助~「自己認識の学」としての政治学20110502』

グーグルから2チャンネルへ、そこで知った情報とはいかにも現代的である。授業を受けていた単なる学生であって、特に親しくして頂いたわけではない。知ったのも幸運と思わなければいけないのだろう。

朝日新聞を検索しても、もちろん同じであったが、ここでも“国際政治学者”とあったので違和感を覚えたのは、確かであった。しかし、この違和感が「永井論」をまとめようと考えた“第一の契機”であった。

永井政治学の神髄は国際政治ではない。いや、そこも神髄ではあるのだが、本当の神髄は“政治意識論をベースにした政治理論”にあるのだ。これが永井政治学について筆者がこれから「永井論」を書こうとする強い動機である。

(本稿は「永井政治学の世界」の『はしがき』として執筆)