散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ナショナルアイデンティティの議論に向けて~「涼しい国家?」青木昌彦

2014年10月05日 | 政治
時期はずれるが、気になった青木昌彦氏の論考をファイルしておいたのを、偶々見つけ出した。2008年における表題に関連した議論だ。当時はまだ、青木の言葉で云えば、制度的な議論である。

昨今の韓国、中国との直接的な捻れが顕在化した状態では物足りない面はあるが、基盤となる日本の立場を議論せずに、左右の対立だけが目立つ状況に対して、一石を投じる効果はありそうだ。そこで全体を紹介する。

円滑な外交にはパブリック・ディプロマシー(PD)が不可欠と青木は指摘する。PDとは、国の在り方やアイデンティティ(ID)について、他国の公衆や知識人に直接話しかけることだ。

当時の米国公使が「ナショナリズム」があり得るとすればIDの確立しかないと当地で話していたと云う。一方、青木は今の日本人に、外国に向けて積極的に表現しうるようなIDがあるのか、と疑問を持ったのだ。

「国民の間の絆を紡ぎ直し、世界にIDを誇りうる、何らかの価値観の再構築が必要なのか。あるいは、それはグローバル化にそぐわない時代錯誤で、世界の変化に自己責任で適応できる強い個人の確立こそ、必要なのか」。

「この二つの視座は、一見相容れない。しかし、それらは必ずしも二律背反ではなく、ある場合には相補的でありうる、その条件は?日本の行先に関し、何かの示唆をそこから引き出しうるだろうか」。

この疑問に対して、「社会科学のフロンティアでは、社会秩序の構成やその変動を理解するのに、個人と社会のあいだの二律背反的な区別を考え直す機運が出てきた」、と社会秩序の成り立ちの基盤に関する議論に青木は注目した。

「伝統的な価値観、社会的な規範は、数世代の経験が積み重なって出来た、神・政府が与えたのではない。国のかたち、会社組織も、人々の様々な試み、模倣、競争で生み出され、構成される。人が皆で作っていくものだ」。

「しかし、個人が強く、合理的であっても、先まで世の中の動き、人の出方を読むことは出来ない。世の中の動きに秩序が適応していく過程では、個人の意志、能力の働く余地もある。人々の間に個別性と共通性が相互に働くこと(相補性)によって、社会の安定的な秩序はダイナミックに構成される。社会科学における「鶏か、卵か」の問題は常識的な所に落ち着く」。

ここまでの議論で、振り出しに戻り、青木は国家のIDを考え得るのだが、何か奇妙に思える。彼自身は強い個人であって、特に国家のIDを排除する必要はないが、差し迫って必須なものではない。この中途半端さから同国民を説得するIDを提案できるのか、どの様な根拠からか、との疑問が合う。

案の定、その提案は1)社会保障、2)環境問題という政治問題だ。
「消費税の社会保障税化と最低限の給費保障という、簡単にして透明なルールを作ること、政府の裁量の余地を最小限にして、小さな政府を実現することが望ましい」と述べるが、簡単にできないから政治問題になるのだ。

環境問題では「環境親和的な技術開発のフロントランナーになることが日本にとっての命綱になる」との考えだ。これも文句の付け処はないが、総論賛成、各論様々であって、具体的に話が進むのか、とも思う。しかし、この環境問題対応に基づく、「かっこよく涼しい国家」が提案になる。

「国民の努力と期待の焦点をこのように方向付けることに、日本の「ナショナル・アイデンティティ」の可能性がある」。それは「グローバル・コモンズの維持という倫理的義務とも両立するという意味で、一国家の枠を越えた真の意味でのグローバリズムの種をも宿している」。

結局、青木の辿り処は、一国家の枠を越えた真の意味でのグローバリズムは「トランスナショナリズム」に近いところだ。しかし、抽象的な目標が一致しても手段に意見の相違があれば、それを巡って対立が起きる。「涼しい国家」群が「熱い国家」群に早変わりする危険も大いに有り得るのだ。

これまでのナショナリズムの議論は良くも悪くも「ドメスティックナショナリズム」の範疇にあった。しかし、ここで提起されたものは、それを越えるだけでなく、ブーメランの如く、国内での議論に跳ね返る。青木が意図したであろう「国民の間の絆を紡ぎ直す」のではなく、「絆を乱す」ことに資するかも知れない。
逆に、それは避けられないことかもしれない。