散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ~参議院選挙でのアベノミクス

2013年07月14日 | 政治
太宰治は1943年、源実朝に表題の言葉を語らせた(「右大臣実朝」青空文庫)。
空飛ぶ要塞B29が登場し、米国が制海権と共に制空権を制して日本列島への空襲が本格化していく段階に入った辺りだ。戦局は下り坂になっている。

処で、参院選挙戦に入り、テレビのニュースでは、ほぼ毎日、党首の動きを追っている。いつも安倍首相から始まるが、経済政策の宣伝が先頭にくる。そこで、「一年前は引き続くデフレで世相は暗かったが、アベノミクスによって世の中は明るくなった!円安、株高で景気も良くなってきた。かつての高度成長を目指しましょう」こんな論法である。

しかし、その景気も産経20130526によれば、「夜の街にアベノミクス効果 株高と交際費復活 潤う高級店」なのだ。記事の内容たるや、8万5千円のボトル、法人カード決済増、こんな調子である。
一方、太宰が「平家ハアカルイ」と実朝に言わしめた、その明るさは、清盛が源氏の攻撃を聞いて、冑かぶとを取って逆様に被った所謂「忠義かぶり」の話、知盛が壇ノ浦で「今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候」と笑った話、なのだ。

この軽さは現代における「夜の街」の高額ボトル、交際費使用と、どこか同期しているように感じる。これは、終戦直後「堕落論」で坂口安吾が、戦争中は深夜でもオイハギの心配はないと言い、「戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲き溢れていた」と指摘しているのと共通する現象に思える。

「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」と太宰が実朝を通じて言ったその明るさは、虚しい明るさなのだ。暗ければ、暗いなりに考えることができる。しかし、「夜の街」「平家」「戦争中の日本」に共通してみられる明るさは、下り坂を感じながら、考えることを拒否し、今の今に生きるだけの明るさなのだ。

アベノミクスの明るさが、単なるマスメディアの言葉、円安・株高による泡銭の増加、余った金の散財、によって語られ、それに乗って選挙活動の宣伝に使われるだけであれば、虚しい明るさで終わるであろう。その後に残されるのは巨額な公的借金と日銀の破綻のようだ。しかし、財政規律に対する警戒感は強まっている。選挙で少なくても安部政権の思惑を外すことが第一歩として大切だ。