古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

気多大社―氣比神宮-広隆寺-四天王寺-住吉大社-久米田寺

2017年08月05日 22時45分42秒 | Weblog
住吉大社→広隆寺を延長すると、氣比神宮を通り気多大社に行くようです。
以前やったことがあるような気がして、自分のブログを検索してみましたら、
やっぱりやっていました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/eb09e0ee43e9a7e772ce65fa37c0c342
⊿竹島-氣多大社-住吉大社は二等辺三角形 2014年07月13日

そして、広隆寺→住吉大社の延長線上には久米田寺があります。
要するに、気多大社―氣比神宮-広隆寺-四天王寺-住吉大社-久米田寺はほぼ一直線になります。《一番ずれていたのは氣比神宮》

△竹島-気多大社-住吉大社が二等辺三角形であることから、以前、この三角形は663年白村江の戦い以降に考え出されたものと想像しました。
《白村江の戦いで負けた後、竹島を通って日本に戻ってきた人の中には、その後の歴史の中で重要な役割を担った人たちがいたはずです。》










また、インチョン湾が白村江と考えています。
△インチョン湾-沖ノ島・沖津宮-竹島も二等辺三角形になります。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/f334df359cfb5287f160df8a4518fbd6
⊿竹島-沖津宮-インチョン湾 2014年07月21日

そして、△出雲大社-沖ノ島・沖津宮-住吉大社も二等辺三角形になっていました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/4f30ff059b3d6058c8e032a8d6ab5030

なぜ、広隆寺は気多大社-住吉大社―久米田寺の線上にあるのでしょうか。
広隆寺は603年頃または622年頃に建立されたことになっていますが、どうなんでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
《『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。》

広隆寺は秦河勝が建立した、とされています。
秦氏は治水・土木工事に秀でていました。
久米田寺は行基が造ったとされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E7%94%B0%E5%AF%BA
《この寺は、行基が開削指導したため池である久米田池を維持管理するため天平10年(738年)行基によって創建されたと伝えられる。》

行基も多くの寺院を建立し、治水技術も持っていたようです。
秦氏と行基の関係が深いという説もありました。

聖徳太子には聖武天皇も投影されている、と考えたことがありました。
すると、秦河勝に行基が投影されていてもいいじゃないか、・・・。
ともあれ、秦河勝と行基は似ているのではないでしょうか。

ということはおいといて、なぜ広隆寺は気多大社-氣比神宮-住吉大社の線上にあるか、が問題でした。

秦氏が(京都に)日本海側の航路、瀬戸内海の航路を結びつけようとした、ということぐらいしか思いつきません。《出雲大社も宗像大社も結びつきます》








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