古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

継体6年の任那四県割譲について

2006年10月17日 13時23分17秒 | Weblog
 年表では、継体6年は西暦512年となっています。
 穂積臣押山は、大伴金村に任那四県の百済委譲を進言します。
この四県は百済に近くて、日本から遠いから、百済に譲渡したほうが安全だ、ということのようです。(理屈になっているのでしょうか)
 大伴金村は、これをもっともだと考え、さらに継体天皇に進言します。

「賜物(たまひもの)とあわせて制旨(みことのむね)を付(さづ)けて、表(まうしぶみ)によりて任那の四県(よつのこほり)を賜ふ」

 継体天皇は四県を譲渡した上に、贈り物をあげ、御言葉までつけた、ということです。

 なんと人のよい、立派な天皇だ、てなことをいう人がいるわけはありません。
 こんなことはありようがないのです。
 
 ただし、これは時期が違っているのです。その上、そのとき切羽詰った状況にあったはずです。

この 「大伴金村と穂積臣押山が任那四県の百済割譲を奏す。」は百済の滅亡した660年から白村江の戦いの663年までの間のことではないでしょうか。
 
 百済滅亡後、任那で百済の亡命政権が樹立されたのではないかと推測したのですが、それが「任那四県の百済委譲」ではないでしょうか。≪推測が当たっていた?7/25,8/1あたりのブログで書いていたはずです≫

 百済が存在しているときに、百済に委譲するならば、それは売却か無償譲渡ということになります。百済と戦争して獲られたということではなさそうです。
 歴史上、国の領土を売買したというのは、ロシアがアラスカをアメリカ合衆国に売却したという例があります。(アラスカ購入・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)(ロシアはクリミア戦争で疲弊していたそうです。致し方なく、ということでしょう)

 ともかく、512年のことにしろ、660年より後のことにしろ、国の領土を戦争によらず、贈り物をつけて、譲渡することはありえません。

 書紀では、継体6年大伴金村と穂積臣押山が賄賂をもらい、任那四県を百済に譲渡した、という噂が流れたことになっています。(文庫・巻三p178)
 事実だったとは書いてありません。
 もし仮にそういうことがあったとしても、その場合、決断したのは継体天皇になります。(百済は緊急の事態でしょうから、賄賂、口利き料ということはあったかもしれません)

 大兄皇子(勾大兄皇子・まがりのおおえのみこ・後の安閑天皇のこと)は、宣勅(みことのり)を知るのが遅かったために、驚いて改めさせようとしたが百済の遣いは理屈をつけて受け入れなかった、と継体6年12月の条に書かれています。
 ですが、大伴金村がいくら有力者だったとしても、継体天皇は領土を百済に割譲することを認めるでしょうか。

 これは、事実としたならば、どう考えても、継体天皇の責任のはずです。

継体天皇(男大迹天皇・おほどのすめらみこと)即位前期では(文庫・巻三、p162)
「天皇、壮大(をとこさかり)にして、士(ひと)を愛(め)で賢(さかしき)を礼(ゐやま)ひたまひて、意(みこころ)豁如(ゆたか)にまします」
と書かれています。

こういう方が領土を割譲するとは思えません。
「領土を返せ」という方はいるでしょうが、領土を他国にたいした理由もなくあげちゃう方はいらっしゃらないでしょう。

 しかし、これが660年百済滅亡の時なら、理由は付けられるのです。
 大兄皇子とは、安閑天皇ではなく、中大兄皇子(天智天皇)になります。
 時の天皇も、天智天皇のはずなのです。(皇極・孝徳・斉明天皇の御代はありません)
 たぶん、後に不比等はこれを天智天皇の判断ミスと考えて、天智天皇を傷つけまいとして、任那滅亡の原因を大伴金村の賄賂の受け取りによる任那四県の割譲に求めたのでしょう。

 しかし、百済の滅亡は即、任那の危機になりますし、日本本土に危険が及ぶ可能性もあったのです。(任那の滅亡は白村江の敗戦の時だと考えています)

 百済の滅亡を容認して任那を護ることができるのか、という判断と、または百済を復興させたほうが日本にとって安全なのか、という判断のどちらかの選択をするか、ということです。
 そして、百済復興させた場合には、領土の返還が可能になります。
 この割譲は永遠のものではなかったはずです。その確約もあったはずです。
 それに、この防衛策は安上がりでもあるでしょう。
 百済もがんばるでしょうし、日本が前面にたつよりも、制圧された半島内部の百済支持の人々の支援も受けやすいでしょうから。

しかし、継体6年・512に152(=19×8)をたすと664になります。
これでは、660年の百済滅亡どころか、663年の白村江の戦いも終わっています。これは駄目です。
 ですが、継体6年というのが別の年を指しているとしたならば可能性はあります。
 512年が継体6年というのは、507年が継体元年になっているからです。
しかし、この継体元年(507)は、不比等が元明元年の707年から導いたもののはずです。ですから、継体元年が最初の構想から移動しているものと思えます。

継体23年(529) 529+133(19×7)=662
欽明23年(562) 562+100=662
想定・天智23年(663)・・舒明崩御年(641)が天智元年だったと想定

また、推古9年(601)、推古10年(602)の任那救援・対新羅の作戦も同じです。
 601+60=661
 602+60=662
 干支一運60年を足せば、やはり、1,2年のズレはあっても、百済滅亡と任那滅亡に向かっています。
 すべては663年の白村江に吸い込まれていくのです。
 
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