古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

菟道稚郎子の墓の真の被葬者

2012年03月02日 23時59分19秒 | Weblog
阿武山古墳の被葬者は百済王・豊璋、大山守命墓の被葬者は豊璋の子の藤原不比等だと考えています。
仁徳天皇陵の被葬者はスサノヲだと思いますが、時代が違っているようです。
(時代が違っているのならば、スサノヲと磐之媛命の子孫が始祖のスサノヲを顕彰するために造ったのではないかと考えています。後の大和朝廷の祖先もスサノヲということで一致していますが、女系は卑弥呼臺与(トヨ)です。)

菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の墓の被葬者が豊璋と不比等とに関係するならば、まず豊璋の奥方で不比等の母が考えられます。
ですが、その場合、不比等が自分の墓の位置を決定するのは、少し難しいでしょう。
仁徳天皇陵、阿武山古墳、菟道稚郎子御墓がバラバラにあって、大山守命墓を現在の位置に決めるのは、よっぽどの発想の転換をしなければならないでしょう。
しかし、仁徳天皇陵、阿武山古墳、大山守命墓があって、その後に菟道稚郎子の墓を決めるのはそれほど難しそうにみえません。

菟道稚郎子墓
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-9iratukohaka.htm
・・・さて、伝承の中で、墓の位置を示すものは菟道の山上と書かれているのみである。
『延喜式』の記載はさらに曖昧で、山城国宇治郡に在り、兆域は東西十二町、南北十二町で守戸が三烟あることしか分からない。
現在の宇治墓の治定は、明治二十二年六月一日のことである。
行政区分では宇治市菟道丸山にあたるこの地点は、「菟道の山上」ではなく、宇治川右岸に接するところである。
明治の治定以前、この地には古墳状の円丘があり、菟道稚郎子を攻めて、逆に伏兵にあって宇治川で命を落とした大山守命の墓であるとか、菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓といった伝承があったようである。
宮内省がどのような経過でこの円丘を菟道稚郎子墓としたのかは不明であるが、治定後円丘周辺を広範囲に買収し、前方後円墳に整形し、現在の形にしたのである。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/uji-web/ujinowakiiratsuko.html
莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は応神天皇と宇治木幡の豪族の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれました。幼い頃から学問に秀で、応神天皇に望まれ一度皇太子になったのですが、兄の仁徳天皇と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子です。紫式部は、この皇子を源氏物語の八の宮のモデルにしたのではないかといわれています。 日本書紀によると莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られたとあり、江戸時代には宇治川東岸の朝日山山頂の経塚が莵道稚郎子の墓とされていました。莵道稚郎子の墓の所在地はいろいろな説がありその場所が特定されませんでしたが、明治23年(1890年)当時の宮内省によって「浮舟の杜」とよばれていた場所が買い取られ、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)とされました

菟道稚郎子の墓はどこであるか特定はされていませんでしたが、《明治23年(1890年)当時の宮内省によって「浮舟の杜」とよばれていた場所が買い取られ、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)とされ》、《治定後円丘周辺を広範囲に買収し、前方後円墳に整形し、現在の形にしたのである。》ということだそうです。
円墳(または円丘)が前方後円墳に整形しなおされたようで、なんてことをするんだ、と思いますが、物語では、菟道稚郎子が存在していた〈生年不詳 - 壬申年(312年)・・ウィキペディア〉では前方後円墳でなければならないため整形してしまったものと思われます。
しかし、それならば大山守命墓も改装しなければならないことになりますが、不比等の墓なんですから無理な話です。

http://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/1582ee50f171047b55fb2ea97d2a41ce
《直径10m程の円墳 應天皇皇子大山守命那羅山墓(宮内庁管理)です》

ともあれ、現在の菟道稚郎子の墓はもっと後の時代に造られたということが明白だったということです。
そして、位置からいって、ただの円丘ではなく、円墳です。

そこで被葬者は誰か、ということですが、橘三千代ではないでしょうか。
〈浮舟の杜〉と呼ばれていたところだそうですが、源氏物語では浮舟といえば宇治川に身を投げています。助かったものの、身を投げたといえば光明子が投影されている弟橘比売や御刀媛姫を思い出します。しかし、光明子には仁正皇后陵がありますから、光明子ではありません。
すると、不比等の母でもなく、子の光明子でもないとしたならば、残るのは橘三千代しかいません。
(橘三千代の墓がどこなのか、検索して探してもわかりませんでした。)
では、なぜ不比等の墓(大山守命墓)の近くにないのでしょうか。
大山守命墓の近くには元明天皇陵が既にあり、(後に元正・聖武天皇・仁正皇后陵が造られることになりましたが)、橘三千代は不比等の正妻でありながら、遠慮したのでしょうか。
それとも、遠くであってもふさわしい地が見つかっていたからでしょうか。
橘三千代自身の希望であるか、光明子の考えであるか、それとも双方の思慮の末であるか、まぁそのうちのどれかなんでしょう。

ですから、交野はそれらの方の魂のめぐり会う地であるはずです。
ところが、まだその他の方の魂がめぐり会うようにも設計されていたと思われるのです。

写真を載せれば一目瞭然ではないでしょうか。
以前にやったものを合わせてみました。
まだこの他にもあります。


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