古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

江戸城天守閣跡ー持統上皇行在所跡ー斎宮跡(竹神社)

2020年07月31日 16時31分16秒 | Weblog
持統天皇とされていますが、持統(鸕野讃良・うののさらら)は天皇位に就いていなかったと考えています。
(ですから、当然上皇にもなっていなかったはずです)
高市天皇の時代を消すために創られたものと想像しています。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3e36eb6f036ddfe2751752ec926b944a
持統が天皇ではなかった証拠・吉野行幸    2010年03月05日
《持統10年(696)・2月3日、4月28日、6月18日
持統11年(697)・4月7日
大宝元年(701)・6月29日》

吉野行幸が30何回もあったということは、それを証明するはずです。当時天皇が頻繁に遠方に行幸していたならば、行政が止まってしまいますから。
とすると、持統(鸕野讃良・うののさらら)は「斎宮」に当たるような位置づけではなかったでしょうか。
ならば、度重なる聖地・吉野へ出かけることもありえそうな気がします。
また、以前やりましたが、
持統(鸕野讃良・うののさらら)は死の直前に三河に行宮を造り、行幸します。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3f19b23f95bb37da1faba3183f4e271b
『大宝二年(702)12月13日持統太上天皇の病が重くなり、12月22日崩御。』
その直前ともいえる9月19日、三河に行幸するための準備として、五国に行宮を造ります。
『702年9月19日伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に行宮を造ります。』
そして、10月3日三河国に行幸するために諸々の神々を鎮め祭ります。
10月10日三河国に行幸します。(出発したのではなく、三河についたことのようです)

なぜ持統(鸕野讃良・うののさらら)は三河に行幸したのでしょうか。
故郷だったからではないか、と考えたこともありました。
しかし、可能性はあると思いますが、わかりません。

ですが、三河といえば松平・徳川の出身地です。
持統(鸕野讃良・うののさらら)と《松平・徳川》とは関係ないのでしょうか?
もちろん、妄想のたぐいと思われて結構ですが、ありえないこともないでしょう。
否定しきれましょうか。
また、徳川家康は「源」を名乗っていたことは聞いたことがありましたが、検索すると「藤原」を名乗ったこともあったそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F
《松平一族が徳川に改姓したのではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである》
《日光東照宮に残る家康の口宣案等はすべて源家康となっており、徳川氏が源氏を継続的に称していたことになっている。》
《永禄9年(1566年)の叙爵は実際には、「系図発見」の経緯もあって藤原家康としておこなわれており、この時点では藤原氏を称していた。》

「徳川家康」に「源」や「藤原」を名乗る根拠があったのでしょうか。
「自称」と考えられているようです。

なんとか根拠を見つけようとしましたが、無理矢理です。
江戸城天守閣跡→持統上皇行在所跡の延長線を見ると「斎宮跡」がありました。
江戸城天守閣跡ー持統上皇行在所跡ー斎宮跡が一直線になりそうです。

斎宮跡の隣の竹神社の位置に斎宮の御殿があったのではないか、とされていました。

https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_2931.html
明治44年(1911)、旧斎宮村にあった25社の神を合祀して誕生した神社。元は竹川の古里にありましたが、明治時代に野々宮が祀られていた現在の場所に移動。周辺からは平安時代の大規模な塀列や掘立柱建物の跡が発掘されたため、斎王の御殿があった場所ではないかといわれています。また、観世流の謡曲「絵馬」にちなんだ絵馬殿にあった絵馬が、現在この神社に保管されているのも特筆すべき点です。

江戸城天守閣跡ー持統上皇行在所跡ー斎宮跡(竹神社)
江戸城天守閣跡→竹神社(斎宮跡)
 ①246°50′07.36″ ②65°01′52.46″ ③313,089.392(m)
江戸城天守閣跡→持統上皇行在所跡
 ①246°48′56.98″ ②65°24′42.00″ ③242,160.272(m)
持統上皇行在所跡→竹神社(斎宮跡)
 ①245°29′52.52″ ②65°05′52.68″ ③70,929.182(m)

242,160.272(m)+70,929.182(m)=313,089.454(m)
313,089.454(m)ー313,089.392(m)=0.062(m)=6.2cm・・・・・ほぼ一直線といっていいでしょう。













持統上皇行在所跡
北緯34度48分15.47秒 東経137度19分17.74秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344815.47&l=1371917.74

江戸城天守閣跡
北緯35度41分17.80秒 東経139度45分16.00秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=354117.80&l=1394516.00

竹神社
北緯34度32分13.55秒 東経136度37分06.66秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343213.55&l=1363706.66
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« △江戸城天守閣跡ー日光東照宮... | トップ | 日光東照宮ー江戸城天守閣跡... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事