古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

出雲大社・福井・伊勢神宮の三点を結ぶと本当に直角三角形を形成するか

2005年09月11日 20時28分46秒 | Weblog
タイトルの他に、もう一つ、福井から平城京に向かう線は(出雲大社・平城京・伊勢神宮)の線に直角でぶつかるでしょうか。

 鮮明でない画像は直角三角形のつもりです。(おっ、結構わかる)
底辺はACでその間にBがあります。頂点はDです。
それぞれ、A・出雲大社、B・平城京、C・伊勢神宮、D・福井の予定です。
∠A=30度、∠C=60度、∠D=90度、∠ABD=∠CBD=90度
大和朝廷は、【辺ACを4とすると、AB=3、BC=1、CD=2、AD=2√3】のように、各地点を定めたかった、と考えているわけです。

 さて、日本書紀における継体天皇の出身にかかわる記述はこうです。
父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)
母は振媛(ふるひめ)
  彦主人王は(ア)近江国の高嶋郡の三尾(の別邸)から使いをだし
  振媛を(イ)三国の坂中井に迎える
  振媛は彦主人王の死後、(ウ)高向(たかむこ)で御子(継体天皇)を育てる

文庫の解説によると、現在の地名は
(ア) は滋賀県高島郡高島町
(イ) は福井県坂井郡三国町
(ウ) は福井県坂井郡丸岡町

(ア)は地図で大雑把に見ると、BD(福井―平城京)の線上に乗りそうに見えます。やはり(ア)はその線上に乗せるための地でしょう。
 福井は越前三国です。
また、三国町、坂井町、丸岡町は福井市のそれぞれ北北西、北北東、北東にあります。福井と大まかに決めていましたが、この中の何処でしょうか。その地をXとします。
出雲大社、平城京、伊勢神宮から、それぞれ決まった角度(30度、90度、60度)で出発した線が、(平面上だったら、画像のように)一ヶ所でぶつかる地点がXです。
しかし、現実には、大和朝廷はその地・Xをはっきりと決められなかったのではないでしょうか。伊勢神宮が二つ必要だったように、地表面が球面だったためにXも候補地は何ヶ所も出てきたのではないでしょうか。(たぶん、八つ)
継体天皇は現天皇家につながる最初の方とされています。(それはそうなんですが、私の考えは微妙に違います)
もし、そうであって、X地点が、本当に継体天皇(または、継体天皇に擬せられる方)の出身地ならば、大和朝廷は何らかの由緒ある施設を造ったはずです。
それが見当たらないのは、この地が仮想であるということと、その地を一、二ヶ所に絞り込めなかったからではないでしょうか。
 また日本書紀の記述が(イ)坂中井と(ウ)高向で微妙に場所を変えているのもそのためではないかと考えられます。

初め、日本書紀の記述を無視して、福井市の市街地にある足羽山公園の継体天皇像を基点にしてみました。
なぜなら、何らかの言い伝えがあり、それに基づいて造られたものかもしれないと考えたからです。

ところが、ここだと、そこから出雲大社に向かう線と伊勢神宮(外宮)に向かう線の挟む角度が、90度を越えます。
 Ⅰ 福井・継体像→出雲大社の方位は258.151度です。
 Ⅱ 福井・継体像→伊勢神宮・外宮は165.419度です。
    258.151度―165.419度=92.732度
  内宮だともっと角度は大きくなります。
そうすると、もっと北でなければおかしいはずです。
 ただし、球面三角形の内角の和は180度を越えるそうです。とはいえ、直角を作らなければ意味ありません。

そこで、日本書紀の記述にそうことにします。
            2005衆院選挙速報を見るため中断 そして続く。





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