古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

大津皇子はなぜ伊勢に行ったのか

2010年02月26日 23時59分20秒 | Weblog
 天武天皇が病床にいたときか、崩御後のことなのか断定できないようですが、大津皇子は伊勢神宮で斎宮をしている姉の大伯皇女 ( おほくのひめみこ ・大来皇女とも書かれる)にひそかに逢いに行ったとされています。
 万葉集に歌があり、知られているそうです。

ウィキペディア(Wikipedia)
《万葉集巻第2 105~106番(姉の大来皇女に会うために伊勢神宮に下向した時に大来皇女が作った歌)
わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ》

 なんとなく、悲劇を予感させるような歌と思えばそうも取れますが、どのようにもとれるのではないでしょうか。(どうせ別人がある意図を持って作った歌でしょう。)
 天武病床中の、または崩御後の、この伊勢行きを、一般的には、謀反を起こす決意を斎宮である姉の大伯皇女 ( おほくのひめみこ )に伝えるために出向いた、と考えているようです。(たぶん。おそらく意味がわからないのでしょう)

 ですが、どう考えられようと、それらは違います。
 大津皇子が天武天皇の皇太子だったならば、この伊勢行きは一つの意味しか持ちません。
 禊ぎ(みそぎ)です。
 この伊勢行きは、即位前に身を清める禊のためです。
 伊勢神宮でなければなりません。
 普通なら、崩御後でいいのでしょうが、高市・持統の妙な動きが耳にも入るでしょう。
 天武天皇は自分の生存中に大津皇子の禊を済ませ、崩御後すぐに即位できるように図りました。
 崩御後でなくてもいいです。生存中に大津皇子に譲位すればいいのです。
 不穏な動きを察知していたからこそ、禊を急がせました。
 もしそれが隠密裏の行動だったなら、なおさらそうです。
 もちろん天武崩御後でも構いません。
 大津皇子が皇太子ならば、それは即位前のごく普通の行事になります。
(この大津皇子の伊勢行きを知ったとき、すぐに、これは禊だと気づきました。なぜ誰も指摘しないのかなぁ、と妙に思ったのですが、私が「禊」だと考えたのは、見たばかりの韓国ドラマの「ソドンヨ」のせいでした。
大津皇子が皇太子だと気づかないと無理ですが、思うに、ほとんど、同じ筋書きになります。百済の王は、自分の死後、クーデターの起こることを予感し、自分の生存中に譲位することを決め、長男の阿佐太子を密かに禊の地に向わせます。禊の地で太子は襲われますが、何とか脱出し、王が譲位の宣言をされる会場に向います。東明祭とかいう行事で、そこには各国の大使も集い、そこで譲位宣言すれば既成事実になります。ところが、その会場に入る寸前に、太子の弟が少し目を離した隙に、太子は刺客に襲われ命を落とします)

大津皇子の謀反ではなく、高市皇子(及び持統)の謀反です。
それがわかるのは、蘇我入鹿の恐怖政治があったからです。

舌足らずですが続かせます。

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