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精神分析と教育の諸問題

2018-10-08 10:47:58 | 精神分析について
これまで、精神分析の教育的な問題には幾度か触れた。


無知には大別して、“無知の無知”(知らないということを知らず、知ったつもりになっている状態)と“不調和の無知”(別名、“無知のきわみ”と呼ばれ、己自身に負けることや快楽に道を譲ることが挙げられた)の二つがあった。

では、それは何か魂=心に“足りないもの”や“欠けている知”を外部から与えることで為されるのかと言えば、そうではなかった。

特に、“無知の無知”を相手に知らしめる(論駁する)には、何らかの知を携えている必要はなく、自らが“知らないことを知っている”状態(無知の知)にあるだけでいい。

そして、そのことにより“魂=心の向き変え”が起きることに、何らかの精神分析的な治療効果や教育効果も帰せられることができると示唆しておいた。

それは、外部からの知識の教授によっては達することはできないので、エロスと美のあいだには“冒険”(魂の気概や性格的な問題に対応する)や“ミステリー”(魂の思慮や理知的な問題に対応する)という迂回路を経ることが重要というところまでも、哲学的な問いから概観した。

では、“不調和の無知”(無知のきわみ)にはどう対峙したらよいのか?

これは難しい。このような魂=心は、精神分析を望むことはできない。何故なら、根本的な善さ—利得的なものではなく、徳としての—を軽蔑し、快楽を満たすことを優先しているだろうからと言えなくもない。むしろ、精神分析に敵対すらするあり方をし、自らを忘却しきっているあり方をしている。

少なくとも、個人の中で憎しみや破壊に向かうのが優勢か、エロスや愛に向かうのが優勢かという闘いはある。

精神分析が賭ける必要があるのは後者においてということは言うまでもない。

愛は、因果律には収まらない、ある奇跡的な結合を可能にする。もし、それに賭けないなら?
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