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per l/a psicoanalisi

アガンベン『味覚 Gusto』(2015, Quodlibet) の紹介と注釈

2019-01-07 21:32:19 | Agamben アガンベン
〔タイトルの Gusto は、イタリア語で“味覚”の意味以外に、“美的な様式や好み、楽しみ”といった含意もある〕


1. Scienza e piacere 知識と快楽

未だ知恵の実を食べ、楽園失墜に追いやられた君たちに、どのような情熱があるだろうか? 知恵が情熱の在り処を隠すなら、それこそが我々の探求の狙いだろう。君たちの生の情熱。一体いかほどか? 君たちの知らない知とは、味覚としての知だとしたら? あるいは、未だ快原理に属している(盲目の)知と、“別の知 altro sapere”のあり方の識別。

(党派性に根ざした闘争心。これは、限界にしかなっていないという証拠だろう。やがて、君たちは知識によって、知識故に苛まれる。)

あるいは、別の?

«L'estetica moderna, a partire da Baumgarten, si è costruita come un tentativo di indagare la specialità di questo «altro sapere» e di fondare l'autonomia accento alla conoscenza intellettuale (...).» p.12
「バウムガルテンから始まる近代美学は、この“別の知 altro sapere”の特殊性を探求し、また知的意識の横に自律性を創設する試みとして構築された。」

つまり、ここでは君たちの“知的意識 la conoscenza intellettuale”(論理的意識や概念でもある)から隠れた「情熱」の問題を、味覚という感覚機能(感覚的認識や直感でもある)を通して接近しようとしている。

«Solo perché verità bellezza sono originalmente scisse, solo perché il pensiero non può possedere integralmente il proprio oggetto, esso deve diventare amore della sapienza, cioè filosofia.» p.13
「ただ真理と美が根源的に分裂しているときのみ、ただ思考が完全に固有の対象を所持できないときのみ、それは知について愛すること amore della sapienza、即ち哲学になるだろう。」

このことは精神分析的に見ても面白い。哲学、つまり知を愛することが根源的に真理と美の分裂、固有の対象の非所持により成り立つのだとすれば、それは精神分析が実際には哲学に近い立場にあるということではないだろうか? つまり、ここでは意識が快原理(の主体)の固有の対象—それが、“新しい”知識であれ—保持することが重要なのではない。それが、真理と美のあいだで根源的に“失われている”ことが重要なのだ。それ故に、人は(未だ快原理に囚われたままでいる)利害関心からの出口を見いだすに違いない。


2. Verità e bellezza 真理と美

美しい花と花の美しさの違い。無知でも美しい花に目は止まり、時には心も奪われるだろう。だが、「花」の美しさとは? 知識を通じて見た場合の美とは?

《君は美しい。》——この場合、美は形容詞だ。
《君には美しさがある(ように私には見える)。》——この場合、美は抽象名詞であり、存在と所属の問題に遷移されている。

花の美しさ。あるいは、美しさがある(ように思える)。いずれにせよ、盲目ではある。無知ではないかもしれないが、盲目ではある。だが、どうしてか? 何か混乱してはいまいか?

イデアとしての美。これは、プラトンの弁証法の根源的なパラ-ドクサだろう。恋する者の葛藤。知識故の盲目と、実際上の問題。あるいは、プラトンの美的弁証法とソクラテスのアイロニカルな弁証法の根本的な位相差?

果たして、美しさ / あるいは美は目に見えるのか?

«Il paradosso della definizione platonica della bellezza è la visibilità dell'invisibilità.» p.14
「美のプラトン的定義のパラドックスは、不可視性の可視性である。」

«La visibilità dell'idea nella bellezza è, infatti, l'origine della mania amorosa, che il Fedro descrive costantemente in termini di sguardo, e del processo conoscitivo che essa pone in essere, il cui itinerario è fissato da Platone nel Simposio.» pp.14-15
「実際、美におけるイデアの可視性は、『ファイドロス』が忠実に眼差しという表現で描写する愛の妄想〔熱中、固定観念、強迫観念〕と、それが『饗宴』におけるプラトンから囚われた行程である、存在に据える認識の過程の起源である。」

つまり、アガンベンは美におけるイデアの可視性を、プラトンが囚われたままでいる愛の熱病 la mania amorosa として、また、それを存在に据える認識的過程の起源として問題視している。その場合、その熱病と認識的過程の固有の対象は、プラトン哲学においては“失われている”と見なせるだろう。そして、それが眼差し sguardo として表現され、同定されていることにも留意がいる。

繰り返す——。美におけるイデアの可視性とは、愛の熱病 la mania amorosa と、それが存在 essere へと据える認識的過程 il processo conoscitivo の起源にある問題である。そして、そのような(不可視性の)可視性が、美のプラトン的定義のパラドックス il paradosso でもある。

ここで、我々のテーマに戻ろう。美が、存在において見出される(そのように見える、つまり見せかけや眼差しの位相)とは、一体どういう事態なのか? 我々はそうプラトンから遠くはない。

«Nello stesso Simposio lo statuto di Eros nell'ambito della conoscenza è caratterizzato come medio fra sapienza e ignoranza e, in tale senso, paragonato all'opinione vera, cioè a un sapere che giudica con giustezza è coglie il vero senza poterne, però, dar ragione.» p.15
「当に『饗宴』の中で、意識の領域におけるエロスの身分は知識と無知のあいだの中間として特徴づけられており、この意味において、真の判断、つまり的確に評価する知に比せられており、またしかし、それについて根拠〔理由〕を与える能力なしに真理を掴む。」

«Ed è proprio questo suo carattere mediale che giustifica la sua identificazione con la filosofia» p.15
「そして、哲学によってその同一性を認めるこの中間的な〔媒介的な〕特性こそが、固有である。」

この二文は、解釈が難しいだろう。エロスにおける知識と無知の中間性の身分の特性が問題であり、それは的確に判断するある知 un sapere に比せられる。それに根拠を与える能力なし senza poterne dar ragione に、それは真理を掴む。これは、完全な根拠を与えるような知恵=学識=賢明さ sapienza なのではなく、ある無知 ignoranza とのあいだの中間性の知 sapere であると言えるかもしれない。そして、哲学が同一性を認めるのは、この中間的な〔媒介的な〕特性であり、それこそが固有である。この固有性は、対象の“失われた”固有性(の非所持)とは、“別の”あり方をしているに違いない。

«Sempre nel Simposio, l'itinerario amoroso è descritto come un processo che va dalla visione della bellezza corporea alla scienza del bello (toû kaloû máthēma) e, finalmente, al bello in sé, che non è più né corpo né scienza» p.16
「『饗宴』において常に、恋〔愛〕の行程は肉体的美のヴィジョンから美の知識 (toû kaloû máthēma) に向かい、また最終的に、もはや肉体〔身体〕でも知識でもない、それ自体における美に向かう。」

«Il compito paradossale che Platone assegna alla teoria dell'amore è, dunque, quello di garantire il nesso (L'unità e, insieme, la differenza) fra bellezza e verità, fra ciò che vi è di più visibile e l'invisibile evidenza dell'idea.» p.17
「プラトンが愛の理論に委ねるパラドクシカルな役割は、要するに、 美と真理のあいだの(つまり、より可視的であることとイデアの不可視の明白さのあいだの)結びつき(統一性と、同時に差異性)を保証するそれである。」


例えば、天上を見上げ星座を美しいと思う。このような星座は、科学 la scienza としてあるわけではない。つまり、可視性の美以上のものとして天の星座を見るが故に、それは心に美しく思える。

«La bella varietà delle costellazioni celesti non può essere, come tale, oggetto di scienza» p.17
「天の諸星座の美しい多様性は、このように、科学の対象ではありえない。」

«Ma solo se si potesse fondare un sapere delle apparenze in quanto tali (cioè, una scienza del bello visibile), sarebbe allora possibile affermare di aver veramente «salvato i fenomeni».» p.18
「しかし、ただもしこのようなこと(つまり、可視的な美の科学=知識)に関して、現れの知 un sapere delle apparenze を基づかせることができれば、真に《諸現象を救済した salvato i fenomeni》ことを認めることができるだろう。」

«L'epistēmē, di per sé, non può che «salvare le apparenze» nei rapporti matematici, senza pretendere di esaurire il fenomeno visibile nella sa bellezza.» p.18
「エピステーメーは(それ自体としては)数学的な諸関係の中で、その美において可視的な現象を消尽することを要求しないで、《現れを救済すること salvare le apparenze》以外しえない。」

我々は教義のリーズニング(イタリア語では ragionamento)やその知恵、または学知=知識 la sapienza, o la scienza に依ることではなく、現れの知 un sapere delle apparenze に向き変えることを学ぶ方がいいだろう。

«Per questo il nesso verità-bellezza è il centro della teoria platonica delle idee.» p.18
「このため、真理-美の結びつきは諸イデアのプラトン的理論の中心である。」

«La bellezza non può essere conosciuta, la verità non può essere vista: ma proprio questo intrecciarsi di una duplice impossibilità definisce l'idea e l'autentica salvazione delle apparenze che essa attua nell'«altro sapere» di Eros.» pp.18-19
「美は知られえず、真理は見られえない。しかしこの二重の不可能性の絡まり合いが、エロスの《別の知 altro sapere》においてそれが実現する、現れのイデアと確かな救済を定義するそのものである。」


† ここまでで我々は、我々の問題を見失わないために、以下のようなこれまでの足取りを振り返っておくことが有効かもしれない。

経験における、「古い-同じ-別の-新しい」という問題を我々は巡っていた。ここでは、根本的な新しさは、知識の側ではなく経験に位置しているのだった。だが、この経験における同一性の変容を、我々はどのように考えることができるのだろうか? 変容を、眼差しの深さに見出すのは、未だ知識の深さという微睡みや錯覚からは逃れていないことを意味するだけであった。

つまり、我々は新しい経験とそれによる変容の可能性について、「別の知 altro sapere」(Agamben) という様態の基に再発見しなければならない。根拠を理性の側ではなく、「美の現れ l'apparenza del bello」(Carchia) の方に置かなければならない。

論理の見せかけ sembiante から美の現れ apparenza ——。そこに、諸現象の救済 la salvazione dei fenomeni のテーマがあった。そして、それはある種の経験主義を持っている。
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«La teoria platonica dell'amore non è, però, soltanto la teoria di un sapere altro, ma, anche e nella stessa misura, la teoria di un «altro piacere».» p.20
「愛のプラトン的な理論は、だが、ただ別の知の理論なだけではなく、しかし、また同じ尺度において、《別の快楽 altro piacere》の理論でもある。」

«La frattura della conoscenza che Platone lasciava in eredità alla cultura occidentale è, dunque, anche una frattura del piacere» p.21
「プラトンが西洋文化の遺産の中に残していた意識の割れ目は、したがって、快楽の割れ目でもある」

“il problema estetico del gusto, che è, insieme, un problema di conoscenza e di piacere, anzi, nelle parole di Kant, il problema dell'«enigmatica» relazione del conoscere del piacere” p.22
“趣味=味覚〔美的センス、テイスト、好み、楽しみ〕の美学的問題(同様に、意識と快楽の問題でもある)は、むしろ、カントの言葉において、意識と快楽の《謎めいた》関係の問題である”


3. Un sapere che gode e un piacere che conosce 享楽する知と認識する快楽

この gusto というイタリア語は多義的であり、快楽 piacere と享楽 godimento の両方を含み、その両者のあいだの問題の繋がりと亀裂をも呈示している。もちろん、この用語は恐らくヨーロッパの美学的テーマの転回点を指し示してもいる。

«Il gusto appare infatti fin dall'inizio come un «sapere che non sa, ma gode» e come un «piacere che conosce».» p.22
「趣味 gusto は事実、最初から《知らずに、しかし楽しむ知 sapere che non sa, ma gode》として、また《知る快楽 piacere che conosce》として現れる。」

享楽とは、逆説的には意識と快楽の間の“無意識の謎”だとしたら? だとすれば、享楽を意識において知ることはナンセンスであるばかりか、無駄にしかならない。何故なら、それは“知らずに non sa”楽しむような知 sapere だからだ。ここでも、享楽の“理論を知る者”は、実際には頓挫してしまう。

美と享楽の結節点としての趣味——。この主体の亀裂が明かすのは、知られない享楽=知 godimento-sapere と享楽されない快楽=意識 piacere-conoscenza の問題である。美と真理のパラドックスは、イデアの可視性と不可視性の問題として、先に措定された。次は、美と享楽である。これら二重のパラドックスと亀裂。我々はこの両者の移行と断絶に、ミステリーの構造を読み解いたばかりである。

さしずめ、piacere-sapere を巡る美学的判断の“謎めいた関係”(Kant) とは、主体においては美と真理のパラドックス、そして快楽と享楽の亀裂としてミステリー化されているとでも言うべきだろう。このテーマは、エコノミー(オイコノミア)の問題と通底する。そしてまた、ここで我々が思い出すのは、フロイトによる意識と記憶の相互排他性という無意識の痕跡—つまり、それこそがミステリーである—に由来する分裂である。

† 無意識には、救済(経験論)と神秘(エコノミー)の問題がある。とりわけ、記憶痕跡における相互排他性—意識のパラドックスと快楽と享楽のあいだの亀裂。
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«In questa prospettiva, il gusto appare come un senso soprannumerario, che non può trovare posto nella partizione metafisica fra sensibile e intellegibile, ma il cui eccesso definisce lo statuto particolare della conoscenza umana.» p.27
「この見方において、趣味 gusto はある定数以上の感覚として出現する。それは可感的なものと知性的なもののあいだの形而上学的な分割における場を見出すことはできず、しかしその超過は人間的意識の特殊な規則を定義する。」

p.28??? «Un tale senso,

«In questa prospettiva, il bello, come oggetto del gusto, finisce con l'assomigliare sempre più all'oggetto della sorpresa, che Descartes, con espressione significativa, definiva appunto come “cause libre”: un oggetto vuoto, un puro significante che nessun significato ha ancora riempito.» p.30
「この見方において、(趣味の対象としての)美は、意義深い表現でデカルトがまさに“自由の原因 cause libre”—未だいかなる意味内容も孕まないある純粋な意味作用である、空虚な対象—として定義していた、驚きの対象により常に類似するに至る。」

«Nella sua formulazione più radicale, la riflessione settecentesca sul bello e sul gusto culmina così nel rimando a un “sapere”, di cui non si può rendere ragione perché si sostiene su un puro significante (Unbezeichnung, «assenza di significato», definirà Winckelmann la bellezza), e a un “piacere” che permette di giudicare, perché si sostiene non su una realtà sostanziale, ma su ciò che nell'oggetto è pura significazione.» pp.33-34
「より根本的な公式化において、美と趣味についての18世紀の省察は、こうして“sapere” —それについてはある純粋な意味作用(Winckelmann が美を定義するだろう、Unbezeichnung《意味内容の不在》)の上に支えられるので根拠〔理由〕は与えられない—と、ある実体的な現実性の上にではなく、対象において純粋な意味作用化=表示 significazione であることの上に支えられるので、判断することを可能にする“piacere”への参照において頂点に達する。」

端的に述べれば、趣味としての il gusto は、“sapere” と “piacere” という用語参照の上に、その問題の射程を持っている。


4. La conoscenza eccedente 超過する意識
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