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欲望の mysterium / ministerium について

2017-11-19 17:48:19 | 精神分析について
Agamben が、mysterium と ministerium の混同について指摘しているが、これについては、Lacan 派にも影響があったりするのだろうか? 端的にイタリア語では、ministero=聖務であり、mistero=神秘・秘密〔複数形では秘儀・奥義〕を指し示す。

つまり、欲望のミステリー〔ここでは身体のミステリーでも別段変わりはない〕とは、欲望の〔経済学的な問題も含む〕管理経営 l'amministrazione を内包しているという観点すら持たないとならない。

欲望のミステリー的な転回——初期の転移の様相はこのようなものとして表れるだろうが、分析の諸相としてこのテーマは度々出現する——があるなら、それは欲望の管理経営的問題を示唆することは否定しきれない。これを、“享楽の節制”として考えることは、無理はないだろう。禁欲原則を思い起こしても、享楽を称揚した方が無理がある。

Lacan が聖性や神性として残した問題を逆照射する観点が、Agamben にはある。

Agamben 曰く、この用語の混同の起源はパウロの表現まで遡る。

“...ma l'origine della confusione è più antica e riposa nella stessa espressione paolina « economia del mistero » e nella sua inversione in un « mistero dell'economia », ...” (Agamben, Il Regno e la Gloria, p.175)

「…しかし、混同の起源はより古く、パウロの同様の表現における《ミステリーのエコノミー》と、その倒置法における《エコノミーのミステリー》の元に戻る」

ここでは、Agamben はパウロの表現とその倒置法における mistero を取り上げているが、他にも ministero が同時に出てくる箇所を、ウルガタ聖書〔主として聖ヒエロニムスが四世紀末に翻訳したラテン語訳聖書:ローマカトリック教会が公認した〕から引いている。確かに、この翻訳過程でこれらが混同される可能性は高く、その影響が Lacan 自身の宗教的な背景にあることは否定しきれない。

“L'amministrazione (L'« economia ») ha essenzialmente a che fare con un arcano e, d'altra parte, il mistero può essere dispensato solo amministrativamente ed « economicamente ».” (Ibid., p.175)

「管理経営(《エコノミー》)は本質的にある謎〔神秘〕に関わりがあり、また他方、ミステリーはもっぱら管理経営的に、そして《経済=エコノミー的に》分配されうる。」



■ここで、この問題を受けてある方がとても示唆的なコメントをしてくれたので紹介したい。

《ラカンはイエズス会だったわけですがセミネールではルターやパウロが度々登場しました。有名なのは精神分析の倫理について語ったセミネールで、いかにして人は精神分析家になり得るかと問うところです。そこで彼はパウロが師となるようにフロイトを同化させて、倣うことに焦点を当てます。

パウロには神秘体験というものが語られるわけですが、まさに「神秘」こそが、あらゆるものを飛び越えてキリストと合一する方法で、「神秘」によりパウロは師となり得たわけです。「聖務」は「神秘」の再現です。ですからラカンの側からパウロを見るとこの二つは区別されるものではないわけです。

パウロがキリストに倣うように、ラカンはフロイトに倣います。どちらも廃すべきものによって成り立つ欲望があります。双方空虚/欠如を作らねばならないのです。その引き算を前提にして純粋な欲望が備給されます。ラカンはパウロのようでありたいと願ったのです。》


この言を更に受け、分析家の欲望とは欲望の謎 il mistero の管理経営 l'amministrazione 的な問題——つまりは、聖務 il ministero ——を内包していると言ったら、言い過ぎだろうか?
〔分析家の欲望と欲望の分配、ないしは配剤〕
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