きまぐれストロール

植物、風景などを主として

日坂宿~金谷宿

2012年10月02日 06時30分58秒 | Weblog

9月22日(土)晴天、「歴史街道を歩く会」の9月の例会で東海道「日坂宿の日坂峠から金谷宿の石畳茶屋」

まで歩いてまいりました。 今回は、初秋という時期もよく、さらに自然環境にも恵まれたなかでの散策でした。

その上、宿場の見所も多くありました。

まず、①小夜の中山の歌碑・句碑の道 ②諏訪原城跡 ③菊川坂・金谷坂の石畳などがありました。

☆歌碑・句碑の関心のある方には、この峠は魅力的な道ではないでしょうか。 ②つ目の諏訪原城跡については

この城跡の規模の大きさに驚かされ、最後の菊川坂・金谷宿の石畳については、平成の「道普請」ということで

地元の方をはじめ多くの方々の尽力で、復元されたこと。 「万古不易」の石碑や「石畳の説明板」などではじめて

知り、まさに感動ものでした。 同時に「心温まる」思いでいっぱいでした。

 ◆午前◆

   

                       日坂宿の日坂峠より掛川市・久延寺付近まで

       中部建設協会発行の東海道さんさくマップをお借りしました。  有難うございました。

 

  この浮世絵は広重が天保13年(1842年)頃に            「二の曲がりと沓掛」

視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日坂   二の曲がりとは旧坂口町を過ぎて東へ向う沓掛へ

である。  倭園琴桜   「あたらしく今朝にこにこと   至るこの急カーブを指しています。 沓掛の地名は峠

わらび餅をかしな春の立場なるらん」            の急な坂道にさしかかった所で草履や馬の沓を山神

                                    に手向け旅の安全を祈願したという古い慣習に因る

                                    といわれています。

  

 保永堂版東海道五十三次 日坂・小夜の中山               夜泣石跡

            広重作                    妊婦の霊魂が移り泣いたという石が明治元年まで

                                   ここの道の中央にあったが明治天皇御東幸のみぎり

                                   道脇に寄せられた。

 

          涼み松広場                               妊婦の墓

かって夜泣き石のあった路の傍らに大きな松があり  松の根元で自害した妊婦(小石姫三位良政と月小夜姫

松尾芭蕉がこの地で休み、「命なりわずかの笠の下  との間に生まれた子)を葬った所で墓碑に「往古懐妊女

涼み」なる句を詠んだ。これに因みこの周辺の地名   夜泣松三界万霊…旧跡」と刻くしてありっます。

を「涼み松」というようになった。

 

   歌碑  壬生忠芩・新古今和歌集                  句碑   松尾芭蕉・野ざらし紀行

東路のさやの中山さやかにもみえぬ雲井に世をや          道のべの木槿は馬にくわれけり

尽くさん  

☆☆ 代表的な和歌や俳句の碑が、この峠の道沿いに多く建てられています。 遠い昔に想いを馳せながら

                  ゆっくり歩いてみてはいかがでしょうか。

 

  歌碑  藤原家隆朝臣・新古今和歌集                      鎧塚

ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れね人を      建武2年(1335)北条時行の一族名越太郎邦時が

      さやの中山                      世に言う「中先代の乱」のおり京に上ろうとして、この地

                                   において足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討ち死に

                                   をした。 頼国は邦時の武勇をたたえここに葬った。

 

         佐夜鹿(小夜の中山)一里塚                   西行法師歌碑

                                    年たけてまた超ゆべしとおもいきやいのちなりけり

                                    さやの中山

 

             久延寺                                        久延寺夜泣石(小石姫供養塔)

奈良時代の行基が開基と伝えられる名刹。       夜泣き石と同じ形で「南無阿弥陀仏」と書かれている。

                                   この石は夜泣石物語の小石姫を弔うために建てられた  

                                   供養塔である。 

 

             茶亭跡(久延寺境内)                   御上井戸

慶長5年(1600)掛川城主山口一豊は境内に茶亭   掛川城主山口一豊が徳川家康を茶亭でもてなした

を設けて大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう     時の井戸水、これを御上井戸とよばれている。

徳川家康をもてなした。 関が原合戦後その功績が

認められ土佐20万石に栄転した。

◆午後◆

    

                          久延寺から石畳茶屋まで

              中部建設協会発行の東海道さんさくマップをおかりしました。

 

     歌碑 衣笠内大臣・新五選和歌集                       道標

旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし      日坂宿(掛川市)  ・ →  菊川の里(島田市)

ふくなり

 

    このあたりは産地だけあって茶畑が多く                菊川由来の石

  見られます。                         付近の川から菊川紋の石が多く出土されました。その

                                   石は菊石と呼ばれて川の名前を菊川と名付け地名も

                                   生れました。 白菊姫の伝説による菊石は北の1km

                                   位のところにある佐夜鹿公民館の傍にあります。

 

 

        菊川の里 さんぽ茶屋                         間の宿 菊川

                                    間の宿は普通、2宿間の距離が3~4里に及ぶ時に

                                    置かれますが金屋宿と日坂宿のように1里24町でも

                                    急所難所が続くような場合は特別に「間の宿」「菊川」

                                    が置かれました。

 

             道標                               菊川坂登り口

 ← 金谷宿    菊川の里      日坂宿→           菊川坂石畳 頂上まで600m

宿境まで18町  (島田市)     宿境まで一里

                               菊川坂石畳

   

            菊川坂石畳                             万古不易                              

                                               菊川坂石畳を上りつめると頂上には石畳完成を記念  

                                               し「万古不易」の記念碑が建てられていた。  

      

                            菊川坂と金谷坂                                                                

 

           諏訪原城跡                            諏訪原城跡天守閣跡

天正元年(1573)、武田勝頼が家臣の馬場美濃守

氏勝に命じて築城。現在も空堀、井戸など九割の遺構

が残されています。別名扇城ともいわれ甲州流築城法

の典型を見ることができる。城内には武田家の守護神

諏訪明神が祀られています。

 

      天守閣跡付近からの眺め                         諏訪原城跡

                                    東海道武田領の先鋒を勤める重要な拠点金谷台に

                                    天正元年(1573)武田勝頼の臣馬場美濃守の縄張

                                    に築かれた山城の跡である。

  

           お堀跡                                金谷坂の石畳

                                     平成3年、町民約600名の参加を得て実施された

                                     「平成の道普請」で430mが復元された。今街道の

                                    石垣で往時を偲ぶことができるのは、この金谷坂の

                                    ほか箱根峠、中山道十曲がり峠の3ヶ所となりました。

         

  

            すべらず地蔵                                             金谷石畳

金谷坂石畳の途中には町民有志が建立した「すべらず

地蔵」がある。旅人の足元を守ってきた「すべらない山石」

にあやかって、「すべらず」「ころばず」歩けるようにと願って

建立。

                   

                                 庚申堂

               現在のお堂は昭和40年に移設されたもので、中には猿を従えた木造

               「青面金剛明王」が祀られています。 その昔、元の庚申堂では盗賊

               日本左衛門が度々盗賊の身支度をしたと伝えられています。

                    

                                          金谷宿一里塚跡

                  延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば「金谷1里塚榎木」

                  とある。

                                     

  


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