カトリック情報

katorikku jyohou

反宗教改革の立役者を迫害したのはプロテスタントではなく改革を拒む当のカトリックである。

2020-09-07 | 聖人

最初の修道院ができてからも既成勢力から迫害は続いた。76年カルメル会から修道院を建てることを禁止され、彼女は異端として宗教裁判にまでかけられて一時投獄され、著書は禁書となったのである。しかし彼女の支持者は広がり、79年フェリペ2世の布告で彼女は無罪となり、保護通告がされた。

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十字架の聖ヨハネことファン・デ・イエペスが聖テレサに会ったのは25歳のとき、二人の歳の差は27歳、テレサは堂々とした熟女である。若者ヨハネは、テレサと別れた1年後1568年アビラの近くの村ドゥエロで、男子の厳格な規則を持つ跣足カルメル会を発足させた。

彼らの仲間が順調に増えたところで、恩返しとばかり、テレサは何と、自分が院長をする修道院の霊的指導者にしちゃうのである、70年から2年間2人は(神への)ラブラブの毎日を送ったのである。しかし改革派を良く思わない神父達の姦計により、2人は引き離され、ヨハネはトレド修道院の牢獄に入れられる。

この牢獄で彼の才能は開花され、最初の傑作の詩「霊の讃歌」が書かれる。「どんなことに出会っても、彼はいつも自分の愛する人を思う」この詩が神のことだけとは言い切れないだろう。78年、彼は遂に牢番の協力を得て脱獄に成功する。

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1591年12月7日、十字架の聖ヨハネは49歳で帰天した。81年に彼の跣足カルメル会は承認されたが、91年6月1日、総長のドリア神父は、テレジアから続く会の精神を台無しにするような改憲を提案し、副総長のヨハネは反対したことで、すべての職務を剥奪されたのだ。

そしてヨハネの後任者のディエゴ神父は、ヨハネに恨みをもっており、ヨハネを自分の修道院に来させて、修道女と関係をもったと誹謗をいいふらした。さらに仲間の神父の修道院に行かせて、彼の世話を禁止させた。ヨハネは臨終に陥ったが、最後にひどいことをした院長は悔悛の涙を流したそうだ。

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