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ロシアはウクライナでなく日本攻撃を準備していた...FSB内通者のメールを本誌が入手2022年11月25日イザベル・ファン・ブリューゲン

2022-11-30 15:06:22 | 連絡
<ウクライナ侵攻が始まる以前、ロシアは「かなり真剣に」日本との局地的な軍事紛争を計画していたとするFSB職員のメールを入手>
ラジーミル・プーチン大統領が率いるロシアは、ウクライナへの大規模侵攻に着手する何カ月も前の2021年夏、日本を攻撃する準備を進めていた──こんな衝撃的な情報を、本誌が入手した。これはロシア連邦保安庁(FSB)内部告発者からのメールで明らかになったものだ。 
 3月17日付けのこのメールは、「Wind of Change(変革の風)」と名乗るFSB職員が、ロシア人の人権擁護活動家ウラジーミル・オセチキンに定期的に送信しているメールのひとつだ。
セチキンは、ロシアの腐敗を告発するサイト「グラグ・ネット(Gulagu.net)」の運営者で、現在はフランスで亡命生活を送っている。
 メールのやり取りをロシア語から英語に翻訳しているのは、米ワシントンを拠点とする非営利団体「ウィンド・オブ・チェンジ・リサーチグループ」の事務局長イーゴリ・スシュコだ。
本誌は、同氏から全メールのやりとりを入手した。
 オセチキンが公開した内部告発者のメールは、FSB専門家でオープンソースの調査報道機関べリングキャットの代表のクリスト・グローゼフによって分析されている。
グローゼフがこのメールを「FSB(現・元)職員の知人」に見せたところ、「FSBの同僚が書いたものに間違いない」という答えが返ってきたという。
オセチキンが3月に受け取った内部告発者からのメールには、2021年8月にロシアは、「日本を相手にした局地的な軍事紛争に向けて、かなり真剣に準備をしていた」と書かれている。
このFSB内部告発者によれば、ロシアが攻撃相手をウクライナに変えたのは、それから何カ月も後のことだった。
「日本とロシアが深刻な対立に突入し、場合によっては戦争に発展する可能性はかなり高かった。
最終的にはウクライナが選ばれた(シナリオ自体はそれほど大きく変わっていない)が、その理由は私が答えることではない」とメールには書かれている。
〇ロシアにとって北方領土は「交渉の切り札」 
内部告発者は、日本を標的にした電子戦用ヘリコプターの展開について詳しく語っている。
また、ロシアがプロパガンダ・マシンを作動させ、日本に「ナチス」「ファシスト」というレッテルを貼る作戦を強く推し進めていたことについても説明している。
 内部告発者は、ロシア政府と日本政府の間にある「主な障害物」は北方領土だと述べている。
「日本政府にとっては、北方領土が現在の地政学的関係の土台となっている。日本にとって北方領土の返還は、戦後のステータスの見直し(場合によっては取り消し)を意味することになる」とメールには書かれている。
 それに対し、ロシア政府にとって北方領土は「有利な交渉の切り札」であると、内部告発者は続けた。
「中国は、戦後の取り決めを見直す試みをすべて、非常に否定的に受け止める。
そして、北方領土を巡る紛争で日本が勝利するようなことを、中国政府は容認しない。
絶対に認めることはできず、ロシアがそうした『贈り物』をすれば、中国は対露関係をたちまち複雑にするだろう
〇21年8月に始まった「反日情報キャンペーン」  
FSBは2021年8月、第2次大戦中に日本の特殊部隊がソビエト連邦の国民に拷問を与えたとする文書や写真などの機密を解除した。
内部告発者によれば、こうした機密を解除して「ロシア社会で反日情報キャンペーン」を開始するのがFSBの目的だったという。
「機密解除はまさに唐突で、ほとんど予想外と言える動きだった」とメールには書かれている。 
機密解除された情報には、第2次大戦時の日本陸軍大将で関東軍総司令官だった山田乙三
概略:
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日、83歳没)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍大将。
最後の関東軍総司令官として玉音放送による「聖断」を受諾し、ソ連軍に降伏した。
息子は登山家の山田二郎。
経歴:
陸軍経理官・市川確の三男として生まれ、山田貫之の養子となった。
成城学校(新宿区原町)から陸軍中央幼年学校を経て、1902年(明治35年)に陸軍士官学校(14期)を卒業。
同期に古荘幹郎、西尾寿造、宇佐美興屋らがいる。
1912年(大正元年)に陸軍大学校を(24期)卒業、同期に土肥原賢二、飯田貞固、牛島貞雄、香月清司、酒井鎬次、谷寿夫、柳川平助、山岡重厚がいた。
参謀本部総務部長、陸軍士官学校校長、第12師団長を歴任。
軍令、教育畑が長く政治色は薄かった。
1939年(昭和14年)10月、中支那派遣軍司令官から教育総監に就く。
1944年(昭和19年)2月に東條英機首相兼陸相が国務と統帥の一元化を図り、参謀総長兼任を企図した際には、杉山元参謀総長が強く抵抗、山田も統帥権独立への抵触を危惧するが、最終的にはこれを容認した。
しかし7月のサイパン失陥を契機に東條は退陣、参謀総長となった梅津美治郎の後任として関東軍総司令官に就任する。
1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が対日参戦、当日は大連に出張中であり急遽新京に帰還する。
総司令部を通化に撤退させ持久戦を図るが、15日には日本のポツダム宣言受諾により終戦詔書が発布される。
19日にはジャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。
その後は関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らとともにソ連に抑留され10年以上経って日本へ帰国した。

に尋問した際の情報も含まれている
 
「もともと8月8日の時点では、ロシアのマスメディアは機密解除のニュースをかなり控えめに報じていた。その内容は、日本が1938年から対ソ連戦争に備えて、攻撃計画を密かに立てたり、陽動作戦を計画したりするなどしていたというくらいのものだった」と告発者は書いている。
「しかしロシアのメディアは8月16日、文字どおり爆発的に報道を開始し、それと同時に、機密解除された文書についての論調も一変した。
たとえば、日本が細菌兵器開発のためにソ連軍の捕虜を使って残酷な実験を行ったり、捕虜を非人道的に扱ったりしたと報じた。
捕虜の拷問に使われたシラミについての話が、至るところで書き立てられた
〇「彼らは戦争の相手をウクライナに置き換えた」
だが結局、この「軍事攻撃」計画が実行されることはなかった。
彼らは、戦争の相手を日本からウクライナに置き換えたようなものだ」と告発者は続けている。「
いずれにせよ、彼らは正気ではない。
日本への攻撃を検討していたことも、ウクライナ侵攻を実行したことも、両方とも狂気の沙汰だ
内部告発者によれば、2021年夏には「日本に対するロシアの諜報活動が活発に行われていた」ようだ。
「彼らは、日本は残忍な生物化学の実験を行い、残酷で、ナチズムへと向かう性向があると主張することに賭けようとした。
日本は、第2次大戦後に非武装化されるべきだったが、そうした『規制』に違反しており、ロシアを危険にさらしている、と
「しかし結局のところ、ロシアが戦争に向かうことは避けられなかった。
なぜなら、ロシアの指導者が狂ったように戦争を望んだからだ。
そうしていま、戦闘準備の整ったその方面の部隊のほとんどが、ウクライナに再配備されている」と内部告発者は述べている。
(翻訳:ガリレオ)



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