喜多圭介のブログ

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鶴野佳子さんとの出会い

2007-01-10 00:08:08 | 俳句・短歌と現代詩

ヒトとの出会いには不可思議と思われることが起きるときがある。偶然と言えば偶然なのだが、そうとも言い切れないような偶然もある。この場合は必然と呼んだりするが、男同士の場合は相手がすでに功成り成し遂げた人物であれば、その人物との邂逅が自分の立身出世となることがある。木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)と蜂須賀小六(後の徳島藩藩主)、織田信長との出会いは、籐吉郎にとってまさにそういうものだった。これが男女のあいだでは微妙な事になりかねないが、歌人鶴野佳子さんとの出会いは、そのほうの感度は鈍くなっている年齢でもあり、また男女のあいだに〈真の友情〉という付き合いがあってもいいではないかと考えていた時期だけに、微妙な事も起こらずに至(いた)っている。

 

しかし男のこういう言葉こそ信用がおけないこともある。時折嶋岡晨訳『エリュアール選集』を読み返すのであるが、詩人エリュアールの晩年の写真が数葉掲げてあり、そこにはエリュアール夫婦とピカソ夫婦が一緒にくつろいでいるのもある。羨望の眼で眺めているのであるが、どちらも妻が若い。3、40は年下に見える。エリュアールは1949年生涯最後の恋愛をし結婚。54歳のときのこと。そして56歳で亡くなっている。ピカソはエリュアールより年上と思えるが妻は20代でないか。つまり男女のことは相手が年上であろうと年下であろうと、男のやることは事これにかぎっては信用できない。ただしぼくの恋愛歴は年下でなく年上に弱いので、ピカソのようなことは度外視してある。しかしこれも当てにはできない。こういうことは自分で自分が信用できないから、始末に悪い。

 

男のぼくが言うのだから間違いは少ないが、読者に誤解なく書いておくと、歌人鶴野佳子さんとの付き合いは、爽やかなものである。だいたいお会いしたのは三度である。一度目はキティ・キャラクターの展示会場、二度目は三宮。三度目はこの島で。

 

先日の「短歌を食わず嫌いであった訳」で書いたが、学校を出てからというもの現代短歌に近付いたことが1998年までなかった。小説と現代詩、文藝評論は哲学、心理学の書物と並べて愛読、下手ながら小説と現代詩は若い頃から創作してきた。しかし現代短歌は歌人木俣修著『短歌の作り方』を書棚に並べてあっただけで、まるでこの世界のことはわかっていなかった。木俣修は北原白秋門下。『短歌の作り方』はよくできた入門書である。

 

98年必要あって京都駅地下の書店で眼に付いた総合短歌雑誌二冊、取り急ぎという思いで求めた。角川書店発行の「短歌」と短歌新聞社発行の「現代短歌」、どちらも五月号であった。帰路の新幹線車中で「現代短歌」をめくっていると、初めのほうの頁に――in 嵯峨野 鶴野佳子――という見開き頁があり、連作10首が大きな文字で載っていた。この短歌に眼が吸い寄せられた。というのも嵯峨野はぼくにとっての〈まぼろしの里〉であり、ぼくは二十歳の頃から〈嵯峨野病〉に罹(かか)っていた。

 

落柿舎  高一の頃

 

とうとうやってきました。

 

十数年の歳月は

あなたを霞の里へとみちびきましたか。

けむり色の青葉の伏した小倉山をみつめ

あるかもしれないわあの向こうにと

すいこまれて行ったあなた。

渡月橋に白いコートが微笑みました。

あなたの背後に

哀しみのような歓びのような

愁い色の二月の雨が

やさしく冷たく降って。

 

中之島の図書館からの帰路

装飾と喧噪の夜の街を

有島武郎の煩悶を

太宰治の絶望を

切れ長のまなざしであなたは語った。

ある女子校のチャコールグレーのブレザーで

そして来春奈良女子大を受験すると。

二つ年下のぼくはそのとき

自分の黒い革靴を重たく感じていた。

 

きょうも二月の雨がそぼ降っています。

あなたのまぼろしの里を追って

竹畑の小路(こみち)を落柿舎へと

歩いてみます

あのときの革靴を濡らして。

 

このような有様であるから、東京から関西に戻ってきた頃から一人で足繁く嵯峨野に通っていた。まぼろしの里に消えた女人探しであるが、この世にいないのであてどなく彷徨(さまよ)う。それに五月雨の頃であるから、出掛けるタイミングが難しい。

 

人生の探し物を終わったとき、そのヒトのロマンチシズムの終焉(しゅうえん)である。そうなるとあとは俗物的欲求だけになり、情緒も気品もなく、野卑な、退屈な人生になりはしないか。

 

桜満開と紅葉の時期もいいが、小雨降る梅雨時に当てもなく物思わし気な顔で、人通りの少ない竹畑の小路を散策するのが気に入っていた。脚が疲れると甘党のお店で善哉を頼む。こういう心境は何歳になっても変わらずである。だから鶴野佳子の短歌にすぅと気持ちが引き寄せられた。どの歌もぼくのその頃の心境にぴったり馴染んでくる詠い方であった。観念と抽象が強すぎると惹かれなかったであろう。ここにその10首を再掲しておく。

 

in 嵯峨野      鶴野佳子

 

人力車を茶髪の青年が曳きゆけり嵯峨野坂道しぐれ茶屋角

野々宮の絨毯苔に起伏あり小暗き緑かがようみどり

落ち椿さがの野々宮縁結びあてのはずれし御籤をむすぶ

蓑笠を吊るはあるじの在宅中 落柿舎はいま花霞して

小柴垣の小径にふいに線路ありたちまち車輌がトンネルに消ゆ

祗王寺の虹の窓より暮れ残る苔の庭辺の馬酔木の白さ

棄てられし祗王のさだめに重ねては散る花をみる吉野窓より

うすべにの猩々袴咲く庭に祗王の若き悟りが痛し

仏御前の水晶魚眼伏し目がち時隔てなお十七歳にて

清盛にあらずも女を捨つるらん世を隔つとも花開けども

 

まるでぼくの嵯峨野散策の行動がそのまま眼前に映し出されているようで、真実アッと驚いた。一語一語が見事に切り立っており、それがために韻律もよかった。「ふーん、こういう歌人もおるのやな」と、胸中唸っていた。

 

とくに気に入ったのは、

人力車を茶髪の青年が曳きゆけり嵯峨野坂道しぐれ茶屋角

小柴垣の小径にふいに線路ありたちまち車輌がトンネルに消ゆ

である。

 

上の歌は嵐山の渡月橋付近でよく見られる光景であるが、〈嵯峨野坂道しぐれ茶屋角〉のリズム感がよい。短歌の調べには嫋々(じょうじょう)としたものもあるが、鶴野佳子の歌はこうした調べでなく、一つ一つの言葉が屹立(きつりつ)したかのような調べである。小説の文体は大別すると志賀直哉風と谷崎潤一郎風があるが、鶴野佳子の抒情短歌は志賀直哉風といってよい。凛とした精神を裡(うち)に秘めていないと、志賀直哉風は難しい。

 

下の歌は嵐山に出掛けてこの場所に立たないとわからない歌。ぼんやり歩いているとすぐに通り過ぎてしまう光景であるが、この場所が在る。線路より高見で、そこから見るとトンネルの口の開いているのが一目。ぼくは竹畑を散策しているとき、此処(ここ)に来ると立ち止まる。子どもの頃から京都経由の山陰本線の汽車に何度か乗ったことがある。冬休みを過ごすための、妹と二人きりの松江への旅。物寂しい旅だった。嵯峨野を散策し始めてから、初めて「あー、あの頃夜汽車でここを走っていたのだな」と気付かされた。大阪駅を夜の10時過ぎ母親に見送られて出ると、松江には翌朝6時に着いた。ぼくのこころの影を見抜かれたようで気に入っている。

 

総合雑誌の歌人の名前を見ても知らない人ばかりであった。ぼくが知っている歌人といえば、いっとき話題になった俵万智くらいだから当然である。

 

その後ぼくも下手ながら作歌に励むことになるが、拙作を紹介すると、鶴野佳子の上記の作品との符合を理解して貰えるかもしれない。恥ずかしながらである。

 

十五夜の名月眺む桂川逢瀬の胸にそれぞれの月

月高し瀬音高鳴る桂川月のみぞ知る逢瀬の夜半

ぴょんぴょんと踏み石を跳ぶ汝(な)のしぐさ秋空高くをなごの幸か

秋袷(あきあわせ)塩瀬の帯をゆったりときみがかをりは嵐山(らんざん)を行く

娘にと「良縁」結ぶお守りをきみと詣りし野宮(ののみや)神社

梅雨どきの二度きみと来し嵯峨野路の石榴(ざくろ)の花は雨空を切り

なみなみと青葉広がる祗王寺(ぎおうじ)の暗き仏間に汝と座す刻(とき)を

小倉山きみと詣でし二尊院(にそんいん)青き楓は雨と睦みぬ

 

明治以降の歌人の作品を、とくに現代歌人の短歌に目を通しておかないと作歌も始まらないと、あちこちのホームページを散策しては、歌人の短歌を集め、これを平成太郎の館の「歌集・句集の館」に収録する作業に入り、この折りに――in 嵯峨野――を収録しておいた。その後のことであるがある日、メールが飛び込んできた。鶴野佳子とあり、収録しておいたことのお礼であった。本当はこちらから通知しなければならないことだが、鶴野佳子さんがパソコンを触っていることも、メールアドレスも知らないので通知のしようがなかった。大変に驚いた。

 

短歌にチャレンジしてみようかと思い、それで短歌の総合雑誌を購入、頁を開くと気に入った作品に出合った。その歌人からのメールであった。不可思議な感動。そしてその後、鶴野さんからご自分の歌集『人魚の鱗』や会誌「うた野」を贈呈して貰った。このことがご縁で平成太郎の館に「うた野」の会のホームページを開設させて貰った。ここに『人魚の鱗』を歌集体裁で掲載してもある。

http://www.tulip.sannet.ne.jp/nah01433/hei4/turuno.html

 

三宮でお会いしたときは、「うた野」の田鶴雅一氏とご一緒。三人で新神戸駅横のハーブ園にロープウェイで上り、散策した。いい思い出になっている。

 

鶴野さんの服装は上下ともにジーンズであった。年齢よりはずっと若やいだ容姿であったが、それでも結構派手なジーンズ姿に、ぼくは最初眼が点になった。しかしぼくの母もそうだったので違和感はない。実のところ、ぼくは普段ジーパンを穿いていることが多い。肌触りが好きだし気楽でいい。いまは外出時上着もジーンズで、お会いしたときの鶴野さんと同じ恰好である。とにかく気持ちの若い歌人。まだまだ元気なままデジカメ持って、あちこち歩かれ、歌を詠って貰いたい。

 

日本の国を今一度潤いのある国にしていくには、変な教育論をぶったり読んだりするよりも、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、国民が短歌に親しみ作歌すればいい。潤いとか情緒、あるいは優しさ、気品、倫理観といったものは、理屈だけでは本当の物にならない。論理的言葉にならない真実という物がある。それは芸術という創作によって、こころに響かせていかなければ、本当の人間にならないのではないか。

 

ただしこのことに注釈を加えておくと「論」というものは、言葉を多分に論理的に用いるが、言葉は非論理的にも用いる。詩・短歌・俳句、呪術の言葉はその表現形態から見ると、非論理的表現を性格として有する。しかし非論理的であるが故に万物の生命の働きを表現しうる。鑑賞する側は作品が放つ波動によって論理的表現では得ることのない、我々にとって価値ある生命のリズム・韻律、さらに形態を知覚、新たな経験、体験に覚醒する。絵画であれば言葉でなく線・色彩を用いる。

 

逆説的であるが非論理的表現に論理を視ることが、芸術であると言及してもよい。

 

比喩的であるが、正月のお節料理の黒豆、光沢のある黒い豆を一粒口に含むと、甘い、まろやか、ふくよかなどの言葉で賞賛するが、この賞賛は黒豆固有の物ではなく、口に含んだヒトのそのときの体調とか心理と渾然一体となっている体験である。「甘い!」という感動は、論理的には説明しがたい表現であるが、個々の人との経験、体験に直線的に直結する論理を有しているのである。

 

このことを経験、体験するのに短歌づくりは、さほどお金もかからない国民的芸術である。

 

この島にも訪ねていただいた。

 

こういうご縁であるが、不可思議なご縁であったと感じている。


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