不動の動

洞察しましょう――(観相学的)断章(フラグメント)。。う~ん、、洞察には至らない印象を書き留めるメモ、いや落書きかな。

テント芝居

2017-09-13 | Weblog
見に行かないと、井の頭公園!

<クオキイラミの飛礫   ワタシヲスクエ!>                                              桜井大造

 今年の私たちのテント行動は、この東京井の頭公園での公演が3度目である。4月は北京市の3箇所にテント場が立った。公演主体は「北京流火テント劇社」だが、いつものように「野戦之月」「台湾海筆子」メンバーとの協働公演である。6月は東京明治大学にテントが立った。こちらは野戦之月と丸川ゼミとの共同試演会で今年で3年目となった。12月には台湾台北市で「海筆子16-18」主体のテント公演が予定されている。また、テントは立てなかったが、7月には済州島南部のカンジョンという村で「テントワークチョップ」が行われた。長期にわたる韓国海軍基地建設反対抗争の現場である。必然というか、銃を構えた歩哨の立つ海岸線の壁の前が「ワークチョップ」の広場となった。
 それぞれの土地では、テントの形状も芝居の内容もまるで違うものとなる。私たちのテント行動の基点は、その土地・クニに暮らすものが体感する苦(まれには快)である。それが直接的にその本人の苦とは限らないにせよ、自分の身体の周辺に偏在する苦を共振と共感をもとにいったん引き受けるのである。それを大鍋に入れて煮詰めるわけだが、その鍋に他の土地・クニの苦が入りこんでくるのが私たちのテント行動の特徴だ。鍋に熱を与えるのはもちろん観客であり、その土地・クニに固有のテント場である。
 クオキイラミは単に「未来記憶」を逆さまに読んだ造語である。未来記憶(あるいは展望記憶)という言葉は、明日以降の自身の行動や姿を現時点で計画し記憶することであるらしい。現在の日常現実はこの記憶を基本として移ろっていくようだ。そこにはやらねばならない仕事や約束が詰め込まれているわけだが、それを支えるのは「ワタシの希望」であろう。逆に言えば、「ワタシの希望」を再生産できないかぎりワタシはこの日常現実を快適に送ることはできないということになる。これが難しい。「ワタシの希望」を発信するのは「大脳」だが、それを再生産するのは生身の身体だからだ。ヒトの身体は周辺とつながることで身体であって、唯一無二の「ワタシ」のものではない。にもかかわらず大脳が希望するのは単体としての身体の増強、あるいは身体の消去である。要するにサイボーグ化かアンドロイド化を希望しているということだ。この希望に沿うことはできないーーこれはおそらく私たちの祖霊たちや将来の未生の子供たちからの呼び声であり、その呼び声は実は現存する「ワタシの喉仏」から発語されているようだ。ここに闘争点があるのかもしれない。
 戻ってみれば、このTOKIOネシアは「末人(まつじん)世界」の先頭にあると感じられる。そして末人の悲哀と絶望感を「ワタシの希望」が着々と上書しているように思われるのだ。「未来」というよりは「末来(まつらい)」が到来しているわけだが、さて私たちのテント場はこのTOKIOネシアでどのような対抗を出来させるだろうか。



(総タイトル)
<野戦 17の秋>野戦之月テント芝居公演

(芝居タイトル)
(本題) 「クオキイラミの飛礫   ワタシヲスクエ!」

      作 桜井大造

(場所日時)
      9月14日(木)~18日(月・祝)
      午後6時半開場・午後7時開演
      東京 井の頭公園西園文化交流広場(ジブリ美術館となり) 特設テント

料金   前売予約3000円 当日3500円 外国籍者・大学生2000円 中高生1500円 小学生以下無料 (二度目から2000円)

演員    ばらちづこ 森 美音子 みりん 春山恵美 押切マヲ 崔 真碩 渡辺 薫 ロビン リュウセイオー龍 申源 楊 ?鴻 矢野玄朗 桜井大造


音楽    野戦の月楽団
      原田依幸


導演    桜井大造
舞台監督  おおやまさくに
照明    瓜 啓史 2PAC
音効    羅 皓名
舞台装置  渡辺 薫 小童 森 温 風間竜次
舞台美術  春山恵里 中山幸雄
宣伝美術  春山恵美 みりん
衣装    ヒグマエリカ 五反田まり子
通信    韓氷 丸川哲史  水野慶子
協働    海筆子16-18(台湾) 北京流火テント劇社(中国)
制作    野戦之月制作部 押切珠喜 今泉隆子 たお
後見    新井輝久 根岸良一
協力    「山谷」制作上映委員会 明治大学大学院丸川ゼミ 国立木乃久兵衛 独火星 広島アビエルト プーロ舎 他多数の有志者


(チケット取り扱い)模索舎 03-3352-3557
(予約・問合せ)携帯 090-8048-4548/E-mail;yasen2011@ezweb.ne.jp
http://www.yasennotsuki.wix.com/yasennotsuki


明日が初日です。
芝居、特にテント芝居は総合芸術、見ると必ず何かが起こると思います。
明日、明後日は平日、比較的人も少ないかもしれない、天気も良さそうで、狙い目かもです。夜は若干涼しくなるかもなので羽織るものを持っていかないとかなあ…




以下、若干ネタバレかもですが、とにかく、日常から離れて、見てもらわないと始まらないからなあ…
と思い、アリの巣のように張り巡らされた地下鉄の中で、アリのような人間の一員として、書いています。
僕たちは日々改善の世界に生きていますが、時々は、思い切りオルタナティブな世界を想像-構想しないと、何かにのみ込まれます。ある種の脱出は必至だと勝手に思っています。
僕は悪夢などの経験から、絶対のリアリティ、というのはあると思っていますが、悪夢だけでは困る、というか、美しいものも、もがきも、ある種のリアリティとして、持っていれば、時間も超えられる、かもしれない、なんて… 甘いかな?

というわけで、少し台本や稽古を見せていただきました。
やはりすごいです。妥協がない。
毎回、文庫半分以上になろうかという台本も個々の役者さんのキャラクターを生かしつつ、全体の構造がまた素晴らしい。バフチンでいうポリフォニー構造とカーニバル、健在です。(急いで付け加えると、言葉の世界でもあるが、言葉に対する全肯定、全的信頼があるのではない。むしろ逆かもしれない。毎回のように出てくる言葉遊びがそれをずらす役割を果たしているし、音、音楽、うた、身体、踊り、舞台美術、様々な面で言葉そのものの持つ至らなさ、虚しさを補完している。)
フクシマ後の記憶と未来、というのが一応のテーマかもしれないし、そうでないかもしれない。
個人的には、時間(時計)の取り合い、奪い合いの場面、テーマが面白いと思います。
あと、傷を受けた個人、および世界について…
魯迅の「野草」の忠実な(と僕には思える)再現も見られます。

舞台、美術も注目で、毎回、とても凝っています。絵になります。

いずれも美術館、ギャラリーなどでは味わい得ないもので、よりダイナミックな集団的身体表現で、例えるなら、私たちがただ比較的重要な夢で全身全霊で体験することができるだけの、あの感覚(朝、何か啓示のようにあるビジョンを見て、裁かれたように「がばっ」と起きたりすることはないでしょうか?)のようなものを目指しているのではないか? あるいはそんな体験が根底にある。音も空気も匂いもおそらくは味まであるイメージ、これは解釈をなかなか許さない。でありながらも、それとして受け止めることが大切だ、と… 目指すなら絶対の体験、リアリティ、これだと僕も思います。(しかも、いつも惜しくも、驚きで、信じられないことですが、夢と同じく、テント、ホントに跡かたもなく消え去ってしまうのですから…)



といっても、一番は、見た人が何かを受けることでしょう。行けば必ず何かを受ける気がします。
ぜひ多くの人に見てもらいたい総合芸術です。
濃密な2時間余り、僕はこれが芸術の最先端の一つだと勝手に思っています。

思想問題とユーモアの塊である桜井大造さんも僕たちは今のうちに見ておかないといけません、と思います。
今回はますます磨きがかかったアナグラムの世界が広がっています。

桜井大造さんがすごいのは、いろいろな面がありますが、その一つに、北京と台北でそれぞれ現地の役者さんが自発的に参加する形で、芝居の公演を実現させていることだろう(まずはじめに彼らはいわゆるプロではありません。生活の場に行きつつ、参加している)
そして、台湾と中国および東京などでも、それぞれの地の参加者が互いに赴き、協力する、そういう関係と場を作り上げていること。
これは私たちが見慣れた多国籍企業や政府の事業ではない。桜井さんの個性を除けば、自発的と言ってよい動きで、いかに珍しく難しいことか、と思います。
この辺りは、以下のリンクで一旦を知ることができます。
http://multitude.asia/archives/894

例えば大造さんは、自分の役回りを蝿の王(僕は同名の小説を読んだことはないが)、時には「帝国主義者」になぞらえる。もちろん、諧謔であり、大造さん自身はそこから最も遠い人だと言ってよい。
が、その役回りから見えてくるものも大事にしているところがおそらくある。彼らの立場を想像することはなにより、より深く責任を負う、という面だけではおそらくない。イフはない歴史との対話。これについてはまた考えたい。(たとえば、「帝国主義」を捨てた「日本人」の「世界史」的役割はあるのか、など)

また、面白いのはたとえば今回のタイトルにもある回文というのか、アナグラムの世界は、やはり日本語から中国語にそのまま直せるものではない。言語的に転換可能なものと不可能なものの間が常に問題になってくる気がする。漢字と仮名文字、表意文字と表音文字、孤立語と膠着語と…

言葉遊びというのは子供のイマジネーションを育むもっとも大事なものの一つではないかと思う。音から入ることにより意図しない方向へ連れていかれる。空間だけでなく、時間的にも… 私たちの意識は何と言っても言葉の体系に縛られている。ある言葉の体系に縛られ、にっつもさっちも行かないとき、その言葉の体系が世界の全てであると思い込んでしまっているときなのかもしれない。そんなときには深呼吸と、言葉遊びが有効なのかもしれない…
さらに石、飛礫(つぶて)が出てくる。それは物質化した言葉かもしれない、聖なる石かもしれない。飢えをしのぐジャガイモかもしれない、その重くなった石を体内から心から取り出し、投げ捨てる。いや、道を尋ねる… 傷を負った人間と世界が辿り着くべき道を…



私たちを取り巻く環境は日々変わりつつある。
人間も動物である以上、その変化を乗り越える術は持っている。と信用したい。
大造さんの芝居には驚くほどの間、動物たちが出てくる。

ただ、その変化を倫理的に受け入れるか否かは多少次元が異なる問題で、そこに人間が人間たる様々な個性も生じてくる。
そこに正しいか否か、と言った判断は人間の領域には属さないかもしれない。その時々で、正しいかわからない、変化を取り込むべくやむにやまれぬ動きを動物と人間との間にあって、行う。まず、そこを描くこと。言葉というよりは身体で。その先は、個と個の間にある何か、あるいは「テント」というその場を作ることによって生じる何かが、私たちを然るべきところへ連れて行ってくれよう、そんな信頼があるかもしれない。ここには僕などには解明しようのない「秘密」がある、と思う。ぜひ見て感じていただきたい。

桜井さんが芝居を作るとき、最初から結論が見えているわけではない、その場、役者たちとの対話で、物語が生まれてくる。大造さん自体も、なんとか手綱を握ってコントロールしつつ、連れて行かれる、といったところがあるのではないか、と想像する。


また、思考の徹底性。
日本のある世代以前の人たちにはこれがあり(アプリオリであるのではない、やはり不断の努力で獲得したものだろう)、僕は「自己否定」という言葉で括りたいという欲望に駆られる。
大学や大企業、天皇に至るまで、社会において祭り上げられたあらゆるものを否定する力が一部の人たちにあった。
僕がある世代の一部の方々と話していて、一番ホッとするのはそうした高さ・深さに触れたときだ。
私たちはなんと小さな枠で思考し、行動しているのだろう、と気付かされる。
往々にして自分でその小さな枠を作り上げてしまっている…
僕が中国の人たちと話していて、僕などと危機感を共有できるのは共産党員の人たち、ということが多い。
しかし、そのどれだけの人たちが、一歩進んで、自己否定できるだろうか。
たぶんそうした思想の輸入はこれからなのだろう。
いや、かつて右派とされた人たちの中にかなり多かったかもしれないが。

僕のイメージだと、魯迅は危機感の人で、伊藤虎丸さんに終末論や預言者と結びつけた魯迅論かあるが、今、大陸中国に一番欠けているのは危機感だと僕は思う。危機感を表明できない社会になっていまいか、と思う。メディアがこう規制されてしまっては…
正面から問えない何かがあれば、一方で象牙の塔で外来の専門用語をああでもなくこうでもなく撫でまわしてしまうかもしれないし、また他方で内輪的なネット新語が雨後の筍のように生まれ、飽和状態となり、全てが顔の筋肉だけしか動かない笑いでひとまず収める慢性的なフラストレーションのバブルが続いてしまう。
もっとも魯迅が生きたころもそうだったかもしれない。魯迅はメディア人としても名前を変えたり、雑誌の発刊、廃刊を繰り返していた。彼が北京を離れてからのあの頃に今は近づいていやしまいか?
(そしてもちろん、危機感を持って時代と雰囲気への違和感を多くの人に伝わるよう平易な言葉で、あるいは身体的表現や振る舞いで、あるいは映像で、自身が主流メディアに代わるメディアとなるべく頑張っている人たちも中国にはたくさんいる。だが、その努力は主流メディアに取り上げられることはなく、その影も消されてしまう…)

大造さんの芝居はいずれも、背後から忍び寄る危機感に追われていますが、それでもヒロイックなものは排されています。これもある種の経験からくる老成かもしれない。ヒロイックなものの役割は存在している、それがないと歴史は動かないところもあろう。しかしそれだけではない。名もなく死んで行く無数の人たち、そこに注がれた目。(砂を噛むような地味な作業と爆発的な芝居と)そこが素晴らしい。

関係ないが、大江健三郎氏が鬱、いやアル中、という。大江氏は言葉遊び(アナグラム)の天才、という気がしていた。彼の小説は彼の評論の何倍もトリッキーで、イタズラに溢れている。それゆえに大変残念で、悲しいことだ。だが一方で、あまり同情する気にもなれないのはなぜだろう?
戦後の何かを象徴している気がする。でも、何を象徴しているのか…? また、なぜ、大造さんについて書いていて、大江氏を対照的に思い出したのだろう…



「高く心を悟りて俗に帰るべし。」かなあ🤔😅😁😊