とよた市民活動センターで、とよた環境ネット主催(スローライフセンターの山本さんが司会だった)の「環境座談会」が行われたので行ってきた。
メインは高野先生の持続可能な社会についての講演だった。他の講演者で特定の微生物を川や海に投げ入れて浄化するという話もあったが、私はその話には興味がない。逆に何か得体の知れない恐怖感があった。
相変わらず、高野先生の話は私の心に響く。確実なデータからシミュレーションした結果を、専門的な言葉を極力省いた形で説明してくれる。最近の流行語みたく使われる「持続可能な社会」について、ハッキリと示してくれる高野先生の話には、もの凄く惹かれる。
右肩上がりの時代から、右肩下がりの時代へ移るちょうど変革期にあたる現在、何をすべきか?勇気を持って、止めるべきは何か?地下資源を使わないような、廃棄物を地球に戻さないような、生態系から頂く、再生可能な資源を循環できるシステムとは何か?そして、それを実践するのはいわゆる市民である。市民による自立した地域のデザインをする必要性。地域の問題こそが、資源と成りうる可能性。実際の事例の紹介など・・・
私自身の立場と、やりたい事、やらねばならぬ事、やってはならぬ事、それを漠然と感覚のままに流して来たことが恥ずかしくなるような感じだ。
いろんな意見もあるだろうが、私にとっては未来の夢を実現可能だと、思わせてくれる話だったのである。現場直結の提案や思想を素直に受け入れようと思う。
具体的には、山村の活性化だ。嫌になるほど聞くこの言葉。町の御意見番たちは一様にこれを言う。どれもこれも言うのは簡単だ。実際は難しい。単に懐古主義の人たちが「昔返り」したいだけで言う事もある。実際、今日の座談会でも、「カリスマ」と呼ばれる地元では有力者の爺さんがそんな事を言っていた。
昔からその土地に住んでいる人たちの想いはいつも同じだ。自分の故郷に活気を与えたいのだ。よそよりも良くなる事が目的。よそよりも儲かる事が勝ち。比較対象があっての評価は一番楽な自己満足だと思う。
それは悪い事では無い。だが、排他的で爺臭い考えだと思う。確かに伝統的な文化は守らなければならない。私の立場で言えば、薪炭だ。「火の文化」の継承だ。私の人生を賭けてでもそれを守りたい。だが、それだけでは無い。それだけならば、昔を懐かしむだけの、批判的な爺と変わらない。勝ち負けに拘るのは、もはや愚かな事だと、私は思う。
地球をここまで痛めつけた人類に対する反省と、未来の子孫に対する責任を担う私たちの仕事は、もっと大きな目的に向かうべきだ。特定の地域の活性化、つまり経済効果を自慢しあうような低レベルの目的ではいけないと思う。もちろん、経済が無くては何も成り立たない。きれい事だけでは生きていけない。
それを充分に踏まえた上で、純粋で大きな思想を持てと、高野先生は提唱していると思う。
現実的でないと、批判する人もいるだろう。しかし、それでもいいではないか?夢は願い、行動すれば現実となる。いや、むしろ批判する側の人こそ現実的ではない。本質が見えていないのではないか?
ある参加者の話の中で、「微力の結集こそが、これからの世の中を変えていく唯一の方法」とあった。
まさしく、そうなのだと思う。有名になる事や、金持ちになる事が目的である人たちとは縁を切って、貧しいが本当の意味で豊かな暮らしを味わうために努力を惜しまない人たちが増えている。そんな微力の結集が地球を救う。
高野先生にそんな事を教わった気分だ。明日からまた矢作。窯の機能部分は完成した。外回りの工事をやっつけなければいけない。煙突部分は私の仕事だったが、明日からは地元の人たちとの協働である。石を積み、回りをキレイにする。単に流木や間伐材を炭化する施設ではない。もっと大きくて深い意義のある窯になるはずだ。
試運転が済み、改良点や問題点を克服する目処がついたら、大々的に公表である。
春には、何らかの形で発表できると思う。それまでは煮え切らない表現でしかお伝え出来ないのがもどかしい。