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勝福寺 Gikoohの日替わり法話

山寺の住職、Gikoohが日々感じたことを綴っております。
(プロフィール用の落款は天野こうゆう僧正さま彫刻)

Gikoohの弘法大師伝(5)

2020-08-21 21:32:08 | Weblog

◇明敏篤学
画像は、『弘法大師行状曼荼羅』(勝福寺蔵)より。

15歳になられた真魚様は、学問に一層励まれ、仏様の世界への関心も深まっておられた。

昔は諸国視察のために朝廷が使者を遣わして、国々の様子を把握していた。真魚様の母方の叔父で儒学者・阿刀太足様(あとのおおたり)という、都で伊予親王(桓武天皇の皇子)の侍講をする学者がいて、ある時、お役目で讃岐へ訪ね来た折に、噂には聞いていたが真魚様の聡明さに驚いたという。

大足様は、仏門に入り仏弟子となることも貴いが、まずは史伝を受けて学問を修めて身を立てるのが良いと、讃岐から当時の臨時の都・長岡京へ上京することをお勧めになり、太足様と共に都へ上ることになった。佐伯一族の真魚様に対する期待は大きかったことだろう。

奈良の都では大足様から、主に漢籍を学ばれ渉猟(文章を読み漁る)の日々を過ごされた。

18歳になられた真魚様は、我が国唯一の大学へ見事入学される。讃岐出身で地方豪族の真魚様は、貴族の子弟でない為に大学への入学は困難だったが、身分の問題は大足様等の尽力もあり超えることが叶った。当時の大学は、政府官吏養成の教育機関で、政府の高官になることを目的としていた。味酒浄成様、(うまざけのきよなり)、岡田牛飼博士に従い、論語、孝経、毛氏左伝、左氏春秋等の漢籍を学ばれたが、真魚様の学問ぶりは群を抜いて際立ち、一を聞いて十を知るほどの明敏だったという。

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