2月15日は仏教の偉大なる開祖、お釈迦さまがお涅槃された全世界の仏教徒にとって特別な日で、各地で涅槃会(常楽会とも言う)が勤修されることだろう。
今夜は『仏教聖典』より、お釈迦さま最期の場面を引用して、日替わりブログをご覧の皆さまと共にお釈迦さまをお偲びしたいと思う。画像の涅槃図は天明7年(西暦の1787年)というから、235年前に制作されたものだ。明日15日は、午後から勝福寺においても涅槃会を勤修させて頂く予定になっている。
最期の教え
一、釈尊はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の下で最期の教えを説かれた。
弟子たちよ、お前たちは各々、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ。他の教えをたよりとしてはならない。
二、弟子たちよ、お前たちのために私の説いた教えは、常に聞き、常に考え、常に修めて捨ててはならない。もし、教えの通りに行うなら常に幸いに満たされるであろう
教えの要は心を修めることにある。だから、欲を抑えて己に克(か)つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、言葉を誠あるものにしなければならない。貪(むさぼ)ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。もし、心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主となれ。心は人を仏にし、また、畜生にする。迷って鬼となり、悟って仏となるのもみな、この心のしわざである。だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。
三、弟子たちよ、お前たちはこの教えのもとに、相い和し、相い敬い、争いを起こしてはならない。水と乳とのように和合せよ。水と油のようにはじきあってはならない。共に私の教えを守り、共に学び、共に修め、励まし合って、道の楽しみを共にせよ。つまらないことに心をつかい、無駄なことに時を費やさず、悟りの花を摘み、道の果実を取るがよい。
四、弟子たちよ、私の終わりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はない。今、私の身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身を持って示すのである。いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の真実の姿に眼を覚まさなければならない。変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
煩悩の賊は常にお前たちの隙をうかがって倒そうとしている。もし、お前たちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ち着いてその部屋で眠ることは出来ないであろう。煩悩の賊は追わなければならない。お前たちは謹んでその心を守るがよい。
五、弟子たちよ、今は私の最期の時である。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、壊れることはやむを得ない。仏の本質は肉体ではない、悟りである。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道とに生きている。だから、私の肉体を見る者が私を見るのではなく、私の教えを知る者こそ私を見る。
私の亡き後は、私の説き遺した法がお前たちの師である。この法を保ち続けて私に仕えるようにするが良い。
弟子たちよ、私はこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、為すべきことはすべて為し終わった。私にはもはや秘密はない。内もなく、外もなく、すべてみな完全に説き明かし終わった。
弟子たちよ、今や私の最期である。私は今より涅槃に入るであろう。これが私の最期の教戒である。
『仏教聖典』より引用