おもい出し日記

小さいころの家の記憶



私の父と祖父は大工で小さな工務店を営んでいました。つくる家は瓦がのった大屋根の大きな家が多かったと記憶しています。

私の生まれ育った家も同じです。40坪ぐらいの面積がある母屋は築60年になる平屋建てで和室が3部屋も続いていました。リフォームする前は寝ている部屋には天井がなく、構造材の梁が見えている状態でした。壁も土壁のままで仕上げがありませんでした。

南側は玄関や縁側があり大開口でしたが北側は押入れや仏壇、茶箪笥が配され、開口部がなく風が通らない家でした。

職人の家系でしたので小さい時から家の手伝いをするのは当たり前のことで工事現場がいつも遊び場みたいなものでした。この頃ぐらいに断熱材のグラウスールが工事現場に登場することになります。

現場で断熱材をカットして施工するのですがその時に腕などにグラスウールの切りくずがつき、チクチクしていやな思い出として記憶に残っています。

その当時、断熱・気密材の施工方法はまだ確立していませんでした。断熱材さえあれば「あったかい家」とイメージされていました。

夏は蒸し暑く、冬はとにかく寒い、そんな家で育ちました。
「家とは我慢するところ?」ぼんやりそう思っていました。

もう一つ不満がありました。

職人の家系と書きました。父を含め叔父兄弟4人が大工でした。
茶の間での朝食時にはいつも兄弟がそろってお茶を二服いただき、それから現場に出発します。

夕食時には同じく茶の間でお酒を呑みながらの一日の反省会がはじまります。
最後は口論になり…。翌朝はいつものようにお茶を二服…。

その当時、父の役職で建設業保険を集金する係で多くの職人が土日関係なく出入りしていました。

工務店の支払いもあり、朝から晩まで…。
年末の12月31日20時頃、集金に来る方もいました。毎年です。
たぶん必ず支払ってくれると安心し、年末最後の集金場所と決めていたのでしょう。
そんな業者の方もおられました。

とにかく出入りが多い。土日関係なく…。
家の中に、プライベートの空間、時間がありませんでした。

家にいても落ち着く場所がないのです。
「家とはこんなにも窮屈なのか…」いつもそう思っていました。

「昭和以前の家」と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、よく昔の家はすべてオープンで近所の人が子供の世話をすることや、知らない人が来ても近隣の方が注意してくれていることなど…。個室においての事件がニュースで流れるたびに良く言われることです。

そのたびに私は「違うな~」といつも思っていました…。

このように、さむくて暑い家、プライバシーがない家、落ち着くことができない窮屈な家を体験したことが家づくりの原点になっているのかもしれません。
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