ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

割れる判断

2007年07月19日 | 時事ネタ関連
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裁判員制度

一定の刑事裁判に於いて、国民から事件毎に選ばれた裁判員が、裁判官と共に審理に参加する日本の司法・裁判制度。2009年5月迄に開始予定。「一定の刑事裁判」の代表例は、次の様な物を指す。

1. 殺人。
2. 強盗致死傷。
3. 傷害致死。
4. 危険運転致死。
5. 現住建造物等放火
6. 身の代金目的誘拐。
7. 保護責任者遺棄致死


裁判員法

第67条第1項 評議に於ける裁判員の関与する判断は、裁判所法第77条の規定に拘わらず構成裁判官及び裁判員双方の意見を含む合議体員数の過半数の意見による。
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7月17日付けの東京新聞(朝刊)に、「『過半数で判断』 割れる条文解釈」という記事が載っていた。上記した様に2009年5月迄に開始される「裁判員制度」では、有権者から選ばれる裁判員6人とプロの裁判官3人の合わせて9人が、一定の刑事裁判に関して多数決で有罪、又は無罪を決める事になるのだが、その多数決の遣り方に付いて記されている「裁判員法第67条」の解釈を巡って法律家の間ですら解釈が割れているのだとか。

先月の29日、西村正治弁護士等と劇団「東京芸術座」による法廷劇「美しい国の裁判員時代」が上演された。殺人罪に問われた女性を裁判員達が裁くストーリーだが、注目されたのは「評決」の場面。

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裁判長: 「色々意見は在る様ですが、此処で決を採らせて貰います。有罪の方は○を、無罪の方はXを挙げて下さい。」

(裁判官3人と裁判員1人が○を挙げる。裁判員5人がXを挙げる。)

裁判長: 無罪5名、有罪4名ですね。無罪が過半数です。ですが、無罪の中に裁判官が居ません。こういう場合には、裁判員法67条によって、無罪と決めちゃいけない事になってます。結論が出る迄評議を続けるしか在りません。
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多数決で「無罪」が過半数を超えたのに「無罪判決」が出されずに「評議続行」という事に”この芝居の中で”描かれたのは、次の様な”解釈”による。①裁判所法第77条で評決は多数決で決めると定めて在る。 → ②しかし裁判員制度では、過半数が有罪と判断した場合でも、その中に裁判員・裁判官の両方が含まれていなければ有罪判決は出せない。 → ③同様に過半数が無罪と判断した場合でも、その中に裁判員・裁判官の両方が含まれていなければ無罪判決は出せない。

この解釈に対して、裁判官や検事は総じて異を唱えている様だ。有罪辺決を出せる条件は上記の②で正しいが、無罪判決に関しては③の解釈は誤りとしている。つまり多数決で有罪乃至は無罪の決が過半数を占めたとしても、有罪判決が出される場合には裁判員・裁判官の両方が含まれる事が必須だが、無罪判決が出される場合にはそれが必須では無いという、「有罪判断」と「無罪判断」に差が付く解釈。評決で有罪と判断されなかった場合は全て無罪になる。という事で、要は有罪判決よりも無罪判決が出易い解釈と言っても良い。

裁判員法は刑事訴訟法に付加した特別法。 → 従って疑わしきは被告人の利益に』という刑事訴訟法の大原則を踏まえて解釈する。 → 故に、評決で『有罪』にならなかった場合、迷う事無く『無罪』で在る。という理屈で、或る大物裁判官も「裁判は有罪かどうか判断するもので、無罪かどうかを判断するものじゃない。だから有罪に決まらなかった時は全部、無罪です。」と語っている。

確かに裁判員法を国会で審議した際、同様の答弁が行われた様だ。しかし法律実務が国会答弁に縛られるものでは無いし、法律家の中にも異なった見解を持つ者が居るのだから話は複雑だ。「”判断”を”有罪判断”に書き直すとか、判断の定義を書き加えるとか、何等かの明文化が必要。さもないと、何か明文化したくない理由でも在るのかと思いたくなる。」、「条文からは『有罪判断と無罪判断に差が付く。』という解釈は出来ない。刑事弁護の現場に居る自分としては、そういう解釈の担保が欲しい。条文を書き直して欲しい。」、(裁判員法を)作った側の論理としては『死刑判決等の”積極的な判断”を裁判官・裁判員双方を含んだ多数でないと出来ない時は無罪』というつもりなのだろうし、その様に運用されるだろう。しかし第67条だけ見れば解釈に迷う。(の法廷劇のケースでは)有罪・無罪を決められないという考え方が出て来ても不思議は無い。作った側の考えで法解釈が左右されて良いのか、あくまで条文だけで解釈す可きという議論も在り得る。国民から見れば、不親切な条文だ。

法律で全ての事象を縛るのは無理だが、少なくとも解釈が個々によって割れる様な条文は望ましくはないだろう。
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5 コメント

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Unknown (アラメイン伯)
2007-07-19 22:31:03
裁判員制度にイロイロと疑問があるのは解るけど先進国で陪審がないのは日本だけ。
司法というのは三権の一つであるから、そこに市民がなんらかのカタチで関わらなければなりません。

現在の封建的な司法の在り方がいかに問題の多いことか。
価値観が多様化した社会では行政も立法も司法も市民の代表が携わらないと上手く機能しません。

裁判員になる人は苦労も多いと思うけど民主主義社会は有権者が楽をしてはいけない。

裁判員制度は問題が発生すれば改善しつつ進めていくしかないと思います。
いいかげんな人間なので裁判員には無理です (マヌケ)
2007-07-20 09:38:36
学生時代に刑事裁判を傍聴する機会がありました。 被害者が目撃した野球帽に書かれていたイニシャルが同じで前科があってしかも組員で事件直後に県外に出ているというだけで誤認逮捕された容疑者が被害者との面通しで犯人ではないことが判明し、直後に真犯人が捕まりましたが精神病で入院暦があり結局は被害者が泣き寝入りすることになったものでした。 誤認逮捕された方はと言えばレンタルショップで借りたものを期限が過ぎても返却していないということを業務上横領?かなにかで警察が別件逮捕するためにこじつけた罪状でした。 警察の初動の失敗や真犯人の両親がもしかすると息子が犯人ではなかろうかということで交番に相談に行ったもの取り合わなかった警察官がいたこと、連続して犯行が起こり市民の不安が増す中で県議会でも警察署長が突き上げをくらい警察に犯人逮捕への焦りがあったことなど裁判そのものよりも警察の不始末が裁かれることがどうしてないのだろうと疑問に思ったものです。 裁判に参加することでしか知り得ない事実を知ることで報道されることは真実のごく一部でしかないと改めて理解するものです。 そして真実の近くを知ることで裁判に参加することは非常に重たいものだとわかるでしょう。 警察も裁判官も弁護士も被害者も容疑者も傍聴する人も迷ったり焦ったり、いいかげんなことをしたりする同じ人間です。多数決というある意味逃げ場のある決め手で判断する側が心のどこかに救われる余地を持たせているのだと思います。 罪状認否ですでに感情的にボルテージが上がってしまうような私などは参加すべきではないだろうなと思ってしまいます。 こんなやつは死刑にしてしまえと短絡的になっちゃうからです。 
>マヌケ様 (giants-55)
2007-07-20 12:09:35
書き込み有難う御座いました。

何時の頃よりか、裁判で下される判決が一般人の感情と乖離した物が目立ち始め、「判決に一般人の感情が或る程度反映される可きではないか?」という思いを持った人は少なくなかったと思います。そういった思いを受けて裁判員制度が導入された面も在るのでしょうが、いざ導入されるとなると様々な”不安”が出て来ているという所なのでしょうね。

確かに人間は完璧では在りません。ましてや「思考を停止し、世論誘導に乗り易い人が目立つ」我が国に在っては(以前、”鮫の脳味噌”と嘲笑された元首相が問題発言を繰り返していた頃、彼の地元で「誰に投票しますか?」と聞いた所、「何だか判らないけど、○○さんに絶対投票します!」とその元首相の名前を挙げた女性が居ました。「何だか判らなくても彼に投票するのか・・・。」と頭が痛くなったものです(苦笑)。)、「きちんと判断した上での票決になるのだろうか?」という不安は在りますね。

唯、判決に一般人の感情を反映させるという点は個人的に評価したいし、問題は「票決に到る過程で、裁判官がどれだけ論点等をきちんと彼等に説明出来るか。」という点に懸かっている様な気がします。
Unknown (破壊王子)
2007-07-20 12:12:51
刑法も刑事訴訟法も、あくまで被告人の立場を守るためのものだという認識が、国民のどこまであるんでしょうかね?よく「被害者の人権がどーのこーの」という話がありますが、刑事裁判の被害者にはそもそも人権なんて存在しないんじゃないですか?だって人権とやらは国家が法で担保してるものでしょ?国家が人間の生存権に関わるからこそ人権問題になるわけで、加害者と被害者の間には有り得ない。ま、人権なるものが空から降ってくるとか、木にぶら下がっているとか、地面から湧くものだというなら話は別ですが、前にも言いましたがアタシは今まで見たことありませんのよ。

法治国家というわりには、その精神が守られているのか疑問が残ります。(光市の事件のあの鬼畜、あれでも現在は被告・容疑者ではあれ、犯罪者として取り扱っちゃいかんはずなのです)

ま、アタシは封建制こそ有りだと思っているので、裁判員制度にノーを突きつけ、大岡裁きや遠山裁きを望みます。愚民の情緒的な判決か、血も涙もある切れ者奉行のお裁きか?どっちが魅力的でしょうか?
>破壊王子様 (giants-55)
2007-07-20 21:09:36
書き込み有難う御座いました。今回頂戴した書き込みに関しては、こちらにレスを付けさせて貰いますね。

基本的には目に見える(見えた)物じゃないと信じないのですが、でも勿論例外も在ります。世の中には目に見える物よりも、寧ろ目に見えない抽象的な物の方が多いからです。「債務」なる物、一見”実態”が在りそうですが、目で見える物では在りませんよね。目に見えないから信じないという事になってしまうと、経済活動を根底から信じない、延いてはそんな信を置けない活動には従事出来ないという事になるのではないでしょうか。目に見える物だけを信じ、そうで無い物は一切信じないとなってしまうと、世の中を生きて行くのは非情に困難(可能性を自ら閉じてしまう)だ思います。

「刑法や刑事訴訟法が、あくまで被告人の立場を守る為に存している。」、これは確かにそうでしょう。しかし多くの人間が疑問を感じているのは、これ等の法律の条文の解釈&援用が余りにも”拡大化”されている事に在るのだと思います。余りにも偏り過ぎているが故に、被害者の立場が蔑ろにされている感が在り、だからこそ揺り戻しが起きているのではないでしょうか。

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