気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香5 高台寺へ

2024年02月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺圓徳院を辞して、ねねの道を北に進んで高台寺へ向かいました。途中の右手に上図の古い門がありました。高台寺の塔頭のひとつ、月真院の山門です。幕末に活動した勤皇の志士たちが御陵衛士に任じられた際に本拠地とした屯所の跡です。

 

 門の脇の案内説明板です。U氏は二回読んだ後に「では」と中に入ろうとしましたが、正面の「こちらは非公開です」の立て札を見て入るのを止めました。私が「当時の遺跡や遺物は一切残ってないらしいよ」と言うと、なんだ、とガッカリした表情になりました。

 

 それからまた、ねねの道を北へ歩きました。北の突き当りに大雲寺の山門と本堂、左の祇園閣が見えました。それを見ながら右の坂道に入りました。

 

 この階段道が、高台寺への参詣道として知られる「台所坂」です。北政所が屋敷と高台寺を行き来した道であり、「台所坂」の名称はおそらく「御台所(みだいどころ)」であろうと思われます。御台所とは、大臣や将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称であり、北政所おねねさんも生前はそう呼ばれていた筈です。

 

 「台所坂」を登ると上図の「台所門」が建ちます。「大門」とも呼ばれ、いまの高台寺の実質上の中門に相当します。つまり南西の表門から「ねねの道」、「台所坂」を経てこの門をくぐるのが現在の正式な参詣ルートであるわけです。

 ですが、江戸期に仏殿があった頃は南側から入った筈なので、表門からどのようにたどっていたのかを知りたいところですが、それを垣間見る事の出来る資料類がなぜか見当たりません。境内地の古絵図とかを探しましたが、どういうわけか文化財関連のデジタルアーカイブにも見当たりませんでした。高台寺は近世から近代に数度の火災をこうむっていますので、その際に古い史料類は相当数が失われたもののようです。

 

 「台所門」の建物は、大正元年(1912)にいまの本堂である方丈とともに再建されたものだそうです。U氏も「こりゃ新しい建物だな」と言いましたが、主柱や梁の一部はやたらに古い感じがするので、再建の際に前の建物の古材を再利用しているかもしれんぞ、と返しておきました。

 

 高台寺の境内地に進みました。参拝順路は上図の庫裏の西側から回る形になります。

 

 参拝路の入口付近に立っていた案内説明板です。

 

 高台寺の境内地は高台に位置しますので、庫裏の西側の参拝順路をたどる途中で西から北西方向にかけての眺望が上図のように楽しめました。大雲寺の山門と本堂、左の祇園閣が見えました。

 U氏が祇園閣を指して、「あれに登ったことある?」と訊いてきたので「いや、無い。時々特別公開があるらしいけど、昭和の建築なんで、あんまり興味が無かった」と答えました。U氏は「そうか」と言って再び参拝路を進みました。

 

 まもなく上図の茶室「遺芳庵」の横を通りました。方丈の背後にある田舎屋風の茶室で、江戸初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものといいます。

 京都市上京区にあった灰屋紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもので、左側の壁一杯に開けられた丸窓が印象的ですが、現在の建物は、灰屋紹益が生きた時期まではさかのぼらず、後世に建てられたものと推定されているそうです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その7  ころぼっくるひゅって

2024年02月13日 | ゆるキャン△

 車山肩の人気スポットである「ころぼっくるひゅって」の店先には、すでに20人ほどの待機行列が出来ていました。営業時間は、4月から10月までの無休期間においては8時から16時までだそうですが、朝の開店前から行列が出来ると聞きます。そのまま昼までずっと行列が途切れないといいますから、いかに人気のお店であるかが分かります。

 この日は土曜日で、登山バスの運行シーズンでもあり、秋の行楽シーズンのピークを少し過ぎたタイミングでしたが、この日の待ち人数は少ないほうだったそうです。

 

 行列の最後尾についた途端に、前に並んでいた女性から「どうぞ」と上図のメニュー表を渡されました。なるほど、あらかじめメニューを決めてすぐに注文しておくシステムか、と思いましたが、お店の方が出てこられることは無かったので、メニューだけ決めておくわけか、と悟りました。

 今回は、志摩リンがいただいた「ボルシチ」を食べるために来たので、上図のメニューの表紙の「ボルシチ」の「パンとドリンクのセット」に決めました。メニューの写真ではドリンクは水になっていますが、この時期はコーヒーでした。

 

 劇中で志摩リンが見たメニューは、上図のようにシンプルです。店内のテーブル席に置いてあるメニューの冊子のページがこんな感じでした。一番上のボルシチ(ドリンクセット)が志摩リンの選んだ品です。実際にこのお店の人気メニューであるそうです。

 

 数分後に、3人の登山客グループが私の後ろに並びましたので、メニューを渡して、少しずつ行列に続いて進み、5分ぐらい後には先頭に達しました。お店の外観が眼前にきましたので写真を撮りました。劇中そのままの外観です。

 

 このシーンです。玄関口の左わきの車輪だけが、現在は敷地の入口のオブジェのほうに移されています。この劇中シーンでは、左端に石積みのようなものが見えますが、あれは何だろう、と思っていました。

 

 その石積みの実物です。お店が昭和31年(1956)に創業した際に造られたモニュメントで、銅製の銘板には店名が刻まれています。

 

 アナウンスで呼ばれましたので、玄関口から入りました。中に入ると、上図の志摩リンのように左右を見まわしましたが、店内の様子が劇中とはちょっと違っていました。

 

 入った途端に上図のゆるキャンポスターと原作コミック、グッズ類が並んでいました。聖地になって有名になって大勢のファンが訪れていますから、このディスプレイもとりあえず設置されている、といった雰囲気でした。それにともなって玄関付近のレイアウトも若干変更されているようでした。

 この「ころぼっくるひゅって」の小屋内は全てがイートインスペースではなくて、内部空間の半分以上は売店というか販売コーナーで占められています。カウンターと厨房が東側、テーブル席が南側に一ヶ所、北側の一室が食堂っぽい形になっていて、客の全員が順にその北側の一室か、建物を通り抜けて東の外にある展望テラス席に案内されていました。

 一般の観光客や登山客には、車山高原を見渡せる展望テラス席が大人気であるようで、この日も客の大多数は展望テラス席へ向かっていきました。展望テラス席へは、カウンターの前を通るので、いったんカウンターで注文を述べたのち、横の出入口から外に出て展望テラス席へ行ってみましたが、既に満席でした。

 

 ですが、私の目的は志摩リンが入った北側の一室でしたので、すぐに店内に戻ってカウンターの斜め向かい右側へ入って北側の一室に入りました。

 入ると正面に上図のストーブが置いてありましたが、これにすぐ違和感を覚えました。劇中のはこのような新型のペレットストーブではなく、昔ながらの薪ストーブだった筈です。

 

 劇中シーンの薪ストーブです。大きなヤカンが置いてあったのは、実際と同じでした。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その2

2024年02月12日 | ガルパン模型制作記

 ステップ5ではリヤパネルを取り付けます。追加工作は2か所、B20の左下の突起を削る、フックA65の外板を追加する、です。また牽引ホールドのA44、パイプ状のA62は劇中車にありませんので不要です。

 それ以外のガルパン仕様への改造は、今回のタミヤキットでは省きます。忠実に再現したい場合は、左右のギアボックスB20の方形モールドを削り、さらにリベットを2個、側面内側にもリベット8個を追加します。そしてB20のフィン内部の4か所にリベット2個付きのパッチを追加します。

 ステップ6ではフロントアーマーを取り付けます。牽引ホールドのA44と予備履帯ラックのC41は劇中車にありませんので不要です。B15だけを取り付けます。そしてB15のホールド基部の穴を開けます。

 ステップ5で組み立てるリヤパネルのパーツ類です。

 

 B20の左下に楕円状の突起がありますが、劇中車にはありませんのでカットします。

 

 楕円状の突起をカットしました。

 

 全てのパーツを組み付けて、キットには無い尾灯をランナーのカット材で追加しました。塗装後にウェーブのクリアパーツでレンズ部を取り付ける予定です。

 

 続いて、背面の牽引フックを、劇中車の形状に直しました。欠けている外板をプラ板で追加しました。

 

 ステップ5の工程が完了しました。

 

 ステップ6に進み、フロントアーマーのB15を取り付けました。

 

 B15のホールド基部には穴が開いていません。

 

 そこで、ピンバイスで開口しました。

 

 ステップ7ではアイドラーホイールつまり誘導輪と履帯を取り付けます。私の製作ではいずれも塗装後に組み付ける予定です。

 

 なので、誘導輪だけを組み立てました。

 

 組み上がった誘導輪と履帯は、塗装段階まで保管しました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その1 金谷駅からの近鉄16000系

2024年02月11日 | ゆるキャン△

 2023年11月21日、朝の8時50分にJR金谷駅に着きました。前夜に京都から掛川に移動していつもの宿に前泊し、掛川発8時37分の普通列車でやってまいりました。もう何度目になるかな、と思いつつ、上図の金谷駅の駅名標を記念に撮りました。

 事の発端は、五日前の11月16日にサークルの鉄道部会の友人川本氏が、大井川鐵道に行こうと列車とホテルを予約したものの、仕事が入って行けなくなり、「大井川鐡道のチケット引き継いで使ってくれんか?」と打診してきたことでした。当時のポスト(ツィート)はこちら

 聞けば、11月21日と22日に急行かわね路号に乗り、川根温泉ホテルに一泊する予定で予約した、ということでした。川本氏は、私が21日から23日まで休みなのを知っていたようで、「君のほうが休みが長い。ついでに、井川線にも乗ってきたらどうや」と言いました。

 話を聞いて、即座に承諾しました。大井川鐡道の急行かわね路号は一度乗りたいと思っていたし、超人気の川根温泉ホテルにも泊まってみたかったからです。
 川本氏は安堵した声で「なら、かわね路号の予約の切替は俺がやっておくんで、30分前に新金谷プラザロコの窓口へ行ってくれ、ホテルのほうも連絡して切り替えて貰うんで・・・」と言いました。

 

 かくして、大井川鐡道への楽しい旅が再び始まりました。念願のSL急行かわね路号に乗れるとあって、前夜からワクワク気分でした。ゆるキャンのアニメ3期のメイン聖地でもありますが、宿が川根温泉ホテルであるうえ、今回は川本氏の勧めで未見だった大代川側線にも行くことにしたので、全体としてはゆるキャンに登場しないエリアを中心に回る形となりました。

 それで、今回のレポートは、「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る、と題した次第です。

 

 今回の訪問時に見た金谷駅の時刻表です。以前は家山までだった普通列車の行き先が川根温泉笹間渡までになっていました。これが元通りに千頭になるのは、何年後のことでしょうか。

 見ていて、急行かわね路号への連絡列車の時刻が掲示されていないことに気づきました。急行かわね路号は全てが新金谷駅にて発着するので、それに繋ぐ連絡列車が金谷駅から運行されているのですが、御覧のように駅の時刻表には出ていないので、公式サイトの時刻表で確認するしかありませんでした。

 ですが、今回は予約しているSL急行かわね路号の発車時刻が11時52分なので、それまでに大代川側線を見物しておいたらどうや、との川本氏の勧めにしたがい、朝の9時台に新金谷へ移動して車両区と大代川側線を見にいくことにしたのでした。

 

 運賃表を見上げました。現時点の終点である川根温泉笹間渡駅まで乗って920円です。今回は新金谷駅から川根温泉笹間渡駅までのSL急行かわね路号の切符を予約してあるので、ここでは新金谷駅までの切符を150円で買いました。

 

 改札口からホームに進むと、既に次の普通列車がホームにゆるゆると入ってきて停まるところでした。各務原なでしこも乗った、われらの近鉄吉野特急16000系です。やっぱりこの車輛だな、こうでなくちゃ始まらねえ、と嬉しくなりました。

 

 やっぱり元奈良県民としては最高に親しみのある車輛です。既にNゲージの模型のほうでも、グリーンマックスの16000系の新旧の2製品を揃えて、大井川鐡道の第2編成、第3編成、として走らせて楽しんでおります。

 

 意外にシンプルな、16000系の運転席です。奈良に住んで時々近鉄吉野線を利用していた頃は、このように客室から窓越しに運転席が見えることはありませんでした。窓にブラインドが貼られていたからです。

 大井川鐡道に譲渡されて以降は、運転士が検札業務も兼ねるために通路ドアを開放するか、窓のブラインドを剥がしているので、上図のように運転席が見えるわけです。

 

 車番のプレートです。ク16100形のク16103でありますから、昭和41年(1966)生まれの吉野特急の第3編成の車輛だと分かります。これがそのまま大井川鐡道でも第3編成として扱われています。私と同い年ですから、とにかくこの近鉄16000系には愛着があります。

 

 車内も、昔のままです。子供の頃に家族と乗った時の、友達と吉野山へ行った時の、車内の内装が今も維持されているのは、みていてちょっと不思議な気分にもなります。50年余りも保たれているのに驚かされます。

 

 今回買った、新金谷駅までの切符。今どき珍しい硬券タイプの切符で、これをゲットしてコレクションするために大井川鐡道に乗りにやってくる鉄道ファンが少なくないと聞きます。

 そういえば、いまの多くの鉄道では改札が自動改札機になっていますから、切符も裏面が読み取り用になっている紙タイプです。改札口で切符にパチンと鋏を入れてもらう事も、滅多に経験する機会が無いという気がします。

 

 私が座っていた席を反対側から撮りました。アニメ3期では各務原なでしこも16000系に乗りますから、このアングルでの乗車シーンも劇中で見られることでしょう。  (続く)

 

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豊家の余香4 高台寺圓徳院にて

2024年02月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺の圓徳院は、もとは北政所の屋敷であったところです。現在は上図の本堂である方丈と、その北側にある北書院から成り立っていますが、最初は北書院の位置にあった北政所化粧御殿とその前庭のエリアのみが屋敷地でした。
 その北政所化粧御殿とその前庭は、慶長十年(1605)に伏見城の建物と庭園を移したものでした。現存していれば、伏見城の貴重な建築遺構として国宝か重要文化財に指定されているでしょう。

 ですが、寛政元年(1789)2月の高台寺の火災で小方丈や庫裏などが焼失したため、寛政七年(1795)に圓徳院の北政所化粧御殿を高台寺の小方丈にするべく解体、移築しました。その代わりとして新たに北書院が建立され、現在に至っています。なお前庭は、伏見城からの移築のままに現存し、国の名勝に指定されています。

 高台寺の小方丈となった北政所化粧御殿のほうは、文久三年(1863)7月に放火で焼失してしまいました。それ以後ずっと再建されないままでしたが、昭和63年の高台寺執事会にて再建が決定し、客殿建築検討委員会が設立され、北政所ねね様四百年遠忌記念事業の中核として建物の再建が進められています。

 今年2024年は北政所ねね様四百年遠忌にあたり、小方丈の建物は2025年秋の竣工を目指しています。この日も屋根銅板寄進の窓口が開かれていましたので、U氏が「折角のご縁だ、我々も寄進しよう」と言い出して、二人で揃って寄進台帳に記帳し、それぞれ10口ずつを寄進しました。

 

 上図の本堂は、慶長十年(1605)に木下利房により客殿として建てられたものを寛永九年(1632)の寺院化にともない方丈として現在に至っています。つまりは圓徳院創建時以来の建物ですが、文化財指定は受けていません。

 

 本堂の背面部分にあたる控室は、文化財展示室になっていて、仏像や襖絵などが並べてありました。U氏が熱心に見ていたのが上図の韋駄天立像でした。室町前期頃の作とされ、もとは木下家の念持仏であったのを、高台寺屋敷を創設したおりに移安したといいます。

 

 韋駄天立像の説明文です。普段は秘仏で非公開ですが、北政所ねね様四百年遠忌記念事業に関して修復され、特別に公開されている旨が書かれています。U氏が「滅多に見られない仏様を拝ませてもらってるわけか」と感心しつつ、韋駄天像と説明文とを交互に見ていました。

 

 韋駄天立像の隣には、桐紋を並べた唐紙に山水図を墨で描いた襖絵が展示されていました。U氏が「これだ、これだよ、長谷川等伯大先生の襖絵・・・」と言い出したのを抑えるように「あくまでも伝承や。長谷川等伯の筆と確認されたわけではない」と応じました。

「なんだ、違うのかね・・・」
「確証が無いだけや。長谷川等伯の筆というのはまず間違いないと思う。それに、これは精密な複製品やで。レプリカや」
「えっ、レプリカにしてはよく出来てるな。本物に見える」
「ここ十数年で文化財の複製技術が格段に進歩してるからね。AIを駆使しての精密な複製も最近は出とるよ」
「ふーん、すると本物は?どこかにしまってあるのか?」
「確か、京都国立博物館と石川県の七尾美術館に寄託されとる筈や」

 

 続いて本堂からの通廊の途中の蔵のような建物内の展示室で、上図の北政所の調度品などを見ました。いずれも高台寺蒔絵と呼ばれる高度な技法による美しい蒔絵を施されており、豊臣家の財力と美的思想がリアルに偲ばれます。

 

 高台寺蒔絵についての説明文です。本やネットにおける高台寺蒔絵の解説類は、書いた人が高台寺蒔絵の何たるかをよく分かっていないような、いまひとつの内容が殆どなのですが、こちらの説明文は有名な蒔絵師の方が書いているようで、しっかりした内容になっています。実際に制作している人でないと分からない表現や用語がみられますが、分かりやすく書かれていて、誰でも読めるようになっています。

 

 高台寺蒔絵についての説明文の続きです。横長なので一枚の写真には収まりませんでした。

 

 最後に北書院へ回り、その前庭を見ました。この庭園が、慶長十年(1605)に伏見城より北政所化粧御殿とともに移されてきた前庭にあたります。伏見城にあったときは池泉回遊式の庭園でしたが、現在地に移した際に敷地面積が縮小したため、枯池泉座視式の庭園に改めているそうです。つまりは池、水面部分が無くなったわけです。

 

 特徴としては、庭の東にある築山から枯滝を枯池に落とした2島を配置し、これらを3本の石橋で結ぶという形式が挙げられます。安土桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園のタイプで、全体に巨岩を多数配置する点は、大きなものを好んだ豊臣家の趣向をも示しています。

 

 拝観順路の最後は、上図の大黒天堂でした。 豊臣秀吉の念持仏であった三面大黒天像の写しが祀られています。堂自体は京都御所の鎮守大国殿を移築したものであるそうです。

 U氏が「像の写し、って要するにレプリカのことだろ?」というので、そうだ、と頷いておきました。「本物を祀ったらまずいのかね・・・」と首を傾げていたので、「防犯対策やろな。盗難を恐れたんやろ」と応じておきました。

 

 大黒天堂の脇にある案内板です。右側には北書院の庭園の説明文もあります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その6  車山高原肩へ

2024年02月09日 | ゆるキャン△

 10時29分に霧ヶ峰インターチェンジで再びバスに乗り、6分後の10時35分に上図の地点でバスを降りました。車山高原の西麓に位置する車山肩バス停でした。
 バスを降りた直後に、上図のアングルを確認して撮りました。劇中に出ているからです。

 

 このシーンです。前回の2019年4月に訪れた時は前日に予想外の大雪があって、一面が真っ白になっていたので、上図のなだらかな高原の起伏も全然見えなかったのでした。

 

 車山高原肩のバス停です。字がかすれていて近づかないと読めない程度になっていました。時刻表を見て、ここまで来られるバス便が毎年の運行期間にて一日に5便しかないことを確かめました。私が乗ってきた10時29分着のバスが第1便でした。

 

 バス停から南に視線を向けて、霧ヶ峰ビーナスラインのカーブを見ました。車山高原の西側の麓の稜線が斜めにくっきりと見えました。青空には、次第に雲が流れてきていましたので、これは天気予報通りに午後から崩れるな、と思いました。

 

 同じ地点で今度は北を見ました。車山高原肩の駐車場とレストハウス「チャプリン」の建物が見えました。バスはまだ停まっていましたが、私が撮影した直後に終点の車山高原へ向けて発車していきました。

 

 2019年4月に初めて訪れた時は、一面が雪に覆われて真っ白だったエリアです。奥へ上る道が、「ころぼっくるひゅって」への道ですが、前回は大雪のために閉鎖されていました。

 

 今回は、前回行けなかった「ころぼっくるひゅって」にて昼食をいただく予定でした。時計を見るとまだ10時半過ぎで、ちょっと早いので、30分ほど辺りを散歩しました。

 

 上図の奥の高地が車山高原肩の微高地である「ビーナスの丘」です。そこまで往復して、周囲のニッコウキスゲの群生地などを眺めたりしました。周囲をぐるりと見まわしても同じような景色でした。

 

 「ビーナスの丘」からの園路を西に折れて進むと谷間に向かい、上図の木々が並ぶエリアに近づきました。

 

 そうして、「ころぼっくるひゅって」の店先に近づきました。上図の看板と車輪のオブジェが迎えてくれました。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その1

2024年02月08日 | ガルパン模型制作記

 御存知、聖グロリアーナ女学院チームの巡航戦車クルセイダーMk.Ⅲです。上図は最終章に登場した3輌の小隊で、劇場版以来の活躍を展開しています。第4話で初めてローズヒップ以外の車長3人の名前が明らかになりましたが、戦車自体は劇場版仕様のままのようです。

 この戦車のキットが3種類手元にありましたので、比較検証を兼ねて連続で製作しました。まず劇中車に最も近いボーダーモデルのキットは、なるべく劇中車に合わせて作りました。続くタミヤのキットは、目立つ部分のガルパン仕様のみを再現することとしました。そして最も古くて形状が異なるイタレリの品については、ストレート組みとして形状の異なる部分だけをパーツ差し替えで修正すること、としました。

 

 ボーダーモデルのキットの組み立てが終わりましたので、続いて今回は上図のタミヤのキットを作ります。目立つ部分のガルパン仕様のみを再現する方針なので、製作の作業量はボーダーモデルの約半分ぐらいと見込まれました。

 

 中身はイタレリ製品のままです。厳密には元のイタレリ製品の、形状のおかしいフェンダー前部などを修正した改訂版です。要するにOEMであり、これにタミヤ製の搭乗員フィギュアを付けてパッケージされています。

 

 組み立てガイドは、完全なタミヤ製品です。元のイタレリ製品の組み立てガイドの図は大まかで細部がいまひとつ分かりにくい所が少なくなかったため、タミヤで販売するにあたってガイドを刷新したもののようです。

 

 ステップ1です。右側サスペンションの取り付けを行ないます。次のステップ2とまとめて行ないます。

 

 ステップ2では左側サスペンションの取り付けを行ないます。ステップ3ではベルト式履帯パーツを組みます。

 

 ステップ1とステップ2の工程をまとめて行いました。

 

 組み上がりました。上図には写っていませんが、履帯パーツも別に保管しました。

 

 ステップ4では、車輪類の組み立てと取り付けを行ないます。私の製作ではいつものように車輪類の取り付けは塗装後に行います。今回のクルセイダーの場合は、車輪類のみがカラーが異なるので、塗り分ける必要があります。

 

 車輪類のパーツです。中央がドライブスプロケットつまり起動輪、左右がロードホイールつまり転輪のパーツです。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

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最終章第4話の登場車輌の製作に関して

2024年02月07日 | ガールズ&パンツァー

 1月の模型サークルの定期会合は新年会をともないましたので、AFV部会のメンバーも大半が集まりました。ガルパン同好会の5人も揃いましたので、自然にその5人が同じテーブルについて食べ、飲み、ガルパンの話題で盛り上がりました。それで、隣のテーブルに居たサークル交流仲間のモケジョさんも3人が移動してきて、最近に作ったガルパンプラモデルの話をしました。

 その8人全員が、すでに最終章第4話の視聴を済ませていて、その新規登場の戦車をプラモデルで作ったか、または作っている最中てしたので、それに関しての情報交換がメインとなりました。最も早いペースで作っていたのがタダ氏で、第4話に登場した新たな車輛10種類をほぼ作り終えていました。

 その10種とは、継続高校チームの4種(T34/76の迷彩および単色、KV-1E、Ⅲ号突撃砲G型)、黒森峰女学園チームの4種(ティーガーⅠ、Ⅳ号戦車G型、Ⅲ号戦車J型エリカ車、Ⅱ号戦車F型)、戦車道連盟の2種(ベルゲティーガー、ウィーゼル)でした。タダ氏はこれらを、作り易いタミヤキット等を選んで昨年中に仕上げていました。

 タダ氏に次いで製作ペースが早かったのが私で、以前に嫁さんが買ってきてくれた上図の6個のキットも10月から作り始め、12月にはほぼ作り終えていました。現時点で作っていないのは、黒森峰女学園チームのⅢ号戦車J型エリカ車、戦車道連盟のベルゲティーガーの2輌です。

 それで、タダ氏と私が作った分について、どのキットをどのように仕上げたか、の報告を兼ねる形で話題が進みました。タダ氏と私は、最終章第4話の視聴後に新たな車輛に関して頻繁にメールでやり取りしていましたから、使用キットも製作の段取りも大部分は共通していました。異なっていたのは、継続高校チームのⅢ号突撃砲G型、黒森峰女学園チームのⅢ号戦車J型エリカ車、の2輌だけでした。

 この2輌に関しては、タダ氏は両方ともタミヤの製品、ミリタリーミニチュアのNo.215、No.310を使用したそうですが、私はグンゼ産業とライフィールドモデルの製品を使用するので、組み立ても追加工作も全て異なっていました。ライフィールドモデルの製品のほうはフルインテリアキットなので、まだ作っていません。

 あとの8種の車輛について、どのキットをどのように仕上げたか、の報告はほとんどタダ氏が披露していました。時々私に要点や詳細を確認してくるのみでした。その内容を大まかに記すと、次のようになります。

 継続高校チームの4種
  1 T34/76の迷彩  タミヤの製品でほぼストレート組み、迷彩はモデルグラフィックスの特集記事を参照
  2 T34/76の単色  タミヤの製品でほぼストレート組み、車体色はグレー風味のあるホワイト
  3 KV-1E  トランペッターの製品で組んでフェンダー端部などを劇中車に合わせて改造
  4 Ⅲ号突撃砲G型  タミヤの製品でほぼストレート組み、細部などを劇中車に合わせて改造(私のはグンゼ産業の製品でほぼストレート組み、細部などをタミヤのパーツで劇中車に合わせて改造)

 黒森峰女学園チームの4種
  1 ティーガーⅠ  タミヤの製品でほぼストレート組み、西住まほ車には無い左右のワイヤーを追加。
  2 Ⅳ号戦車G型  プラッツのあんこうチームF2型の公式キットをストレート組み 
  3 Ⅱ号戦車F型  アカデミーの製品をストレート組み
  4 Ⅲ号戦車J型エリカ車  タミヤの製品をストレート組み(私のはライフィールドモデルの製品でストレート組みの予定)

 戦車道連盟の2種
  1 ベルゲティーガー  ドラゴンの製品でほぼストレート組み、細部などを劇中車に合わせて改造(私のはライフィールドモデルの製品でほぼストレート組み、細部などをタミヤのパーツで劇中車に合わせて改造の予定)
  2 ウィーゼル  タコムの製品をほぼストレート組み、細部などを劇中車に合わせて改造

 全体的には、割と楽に作れるキットばかりでしたので、あまり時間もかからずに楽しめたと思います。大変だったのは、継続高校チームのKV-1E、戦車道連盟のウィーゼルの2輌でした。前者はフェンダー端部の改造、後者は足回りの組み立てが手間取りました。

 タダ氏の報告が終わった後は、第5話で新たな車輛が出るかどうか、の話題になりました。周知のように試合は大洗女子学園と聖グロリアーナ女学院の決勝戦しかありませんので、新車輛は聖グロリアーナ女学院チームのほうに出てくる可能性が高いだろう、となりました。
 大洗女子学園から出てくるのであれば、10番目のチームの車輛しかあり得ない、という話にもなりましたが、果たして出てくるのか、出たとしても1試合しか出ないので、可能性は低いだろう、との意見でだいたい一致しました。

 ですが、本当の結果は第5話を見ないと分かりませんね・・・。期待せずにゆるくまったりと待ちましょう。

 

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豊家の余香3 高台寺圓徳院へ

2024年02月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺表門より、高台寺旧伽藍域の西側の道に左折しました。この道は元は高台寺道と呼ばれていましたが、近年に観光客対策として電線地中化工事を行い、道幅を広げて御影石を敷き詰めた石畳の道に整備され、それを機に「ねねの道」の愛称が付けられて今に至っています。

 U氏が上図右手の高台を指さして、「いまは公園とか霊山観音とかあるけど、このへんも全部高台寺の境内地だったんだろ」と言いました。大体はそれで合っていますが、南側の霊山観音の敷地のあたりは、高台寺が建てられる前に存在していた、「雲居の半仏東福」と呼ばれた雲居寺(うんごじ)の跡地だ、と付け加えておきました。

 

 雲居寺って、どんな寺だったのか、とU氏の問いかけに簡単に応じているうちに、次の目的地である高台寺圓徳院の門前に着きました。ここだ、と言うとU氏も「おお、もう着いたか」と左横の上図の門を見上げました。

 

 早速、門の左脇に立つ上図の案内説明板を読み始めるU氏でした。いつものように最低二度は読み返して内容をしっかりと理解しようとする彼のスタンスにはもう慣れっこになっていますので、私も同じように二度読み返しました。

 

 門をくぐってから振り返りました。U氏が「お寺の門には見えないな。確かに木下家の長屋門だな。一般的な武家屋敷の長屋門の形式だな」と言いました。

 圓徳院は、高台寺を創建した北政所が、慶長十年(1605)に高台寺の西側に自らの屋敷と甥の木下利房(備中国足守藩2代藩主)の屋敷を造営し、伏見城の北政所化粧御殿とその前庭をこの地に移築して高台院屋敷とした所です。
 そして寛永元年(1624)の北政所の没後、木下利房は高台寺の三江紹益を開山として屋敷を高台寺の塔頭圓徳院に改め、以降は木下家の菩提寺として現在に至っています。

 

 長屋門から真っすぐ進むと、上図の唐門が見えてきました。本堂である方丈の玄関口にあたりますが、現在の建物は江戸末期以降に建て直されたものといいます。位置や規模は創建以来変わっていないそうです。

 

 唐門に近づきつつ右手を見ると、上図の庫裏の建物が見えました。真新しく見えるので、近世以降に建て直しているようです。U氏は庫裏の手前に建つ十一重石塔を指さして、「あれは古そうだな。戦国期ぐらいかな」と推測していましたが、私も同意見でした。北政所が高台寺建設にあたってここに屋敷地を構えた際に、あの十一重石塔も設置したのだろう、と思いますが、詳しい事は不明です。

 ただ、北政所の屋敷つまり圓徳院の境内地には、もと岩栖院という寺があって、高台寺建設に際して南禅寺に移転しています。その岩栖院の遺品である可能性も否定出来ません。

 

 唐門の左手前には、上図の手水鉢が置かれていました。脇に立つ立て札に、U氏が近づいていきました。

 

 立て札の説明文です。U氏は「ほう・・・、今川家の親戚の西尾家・・・、この西尾氏っての、知ってる?」と言って私を振り返りました。とりあえず、乏しい知識を伝えました。
「詳しくは知らんが、西尾といえば今川家発祥の地の三河国幡豆郡今川荘のことや。現在も愛知県西尾市になってるから、今川氏の一族に西尾を名乗る家があってもおかしくないな・・・」
「なるほど・・・、そんならこの手水鉢は本物だろうね」
「西尾家から寄贈、とあるから西尾家でそれまで大切に守っていたんやろな。豊臣家一族の木下家の菩提寺に寄贈するあたり、まず本物とみて間違いないやろな」
「うん、そういうことだな」

 

 唐門をくぐって廊下を右に進み、上図の廊下口で本堂である方丈の縁側にあがりました。

 

 本堂の方丈です。慶長十年(1605)に北政所と木下利房がここに屋敷地を造営した際に客殿として建てられたものを、寛永九年(1632)に寺院とした際にそのまま方丈としています。

 

 方丈内部に進みつつ、U氏が「この内部の襖絵が長谷川等伯大先生の画・・・って、あれ、全然違うじゃないか」と言いました。現在、方丈内部にある長谷川等伯の襖絵は精密な模造品で、国重要文化財の本物は京都国立博物館と石川県七尾美術館に寄託されてるよ、と言うと「なんだ・・・」とガッカリしていました。

 ちなみに上図の金箔押しの襖絵と壁画は、平成6年に本堂を解体修理した際に日本画家の志村正さんが描かれた雪月花図です。志村さんは、平成の初め頃まで京都市の市民美術教室の講師を務めておられたので、御存知の方も多いでしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その5  志摩リンのライブカメラ

2024年02月05日 | ゆるキャン△

 霧ヶ峰高原の聖地スポットとして有名な、あのライブカメラに近づいて見上げました。

 

 志摩リンが手を振っているシーンです。その映像を各務原なでしこが「ほっとけや温泉」にてキャッチし、テレビと勘違いしたのは周知の通りです。

 

 志摩リンが立っていた、横断歩道の端です。私もその位置に立ってみました。

 

 その位置から、あらためてライブカメラを見上げました。志摩リンではないので手は振りませんでしたが。

 

 滞在時間が残り8分ほどになってきました。急いで次の行動に移り、2019年4月の訪問時にはあった道の駅の施設の跡地に近寄りました。

 

 前回の訪問時に、既に老朽化のために閉鎖されていたコンクリート造の大きな建物は、跡形も無くなっていました。奥に、上図の白い三角屋根の民家のような新しい建物が建っていました。

 

 そして前回は何も無かった、駐車場の西側のスペースに、上図の新しい道の駅の建物がありました。場所を変えてこちらにリニューアルオープンしたもののようです。内部は売店やレストランなどに分かれていました。

 

 ひととおり回って、またライブカメラの付近に戻りました。残り時間は2分でした。

 

 バス停に戻りました。向こうに見える青い経路案内標識を見ました。

 

 なるほど、霧ヶ峰ビーナスラインは県道40号線だけじゃないのか、この霧ヶ峰インターチェンジで左折してからの道路は県道194号線で、これが八島湿原や美ヶ原高原に通じるわけか、と知りました。そのうちに、県道194号線の方角からかすかにバスのエンジン音が響いてきました。

 まもなくやってきたバスに、10時29分きっかりに乗りました。車内は上諏訪駅から乗ってきた面々のままで、乗ってきた私を見て「あれ、さっきここで降りた人だ」というような視線を送ってきた方もいました。どうやらほぼ全員が終点の車山高原まで乗っていくようでした。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その10

2024年02月04日 | ガルパン模型制作記

 ステップ16に進みました。砲塔背後の雑具箱を組み立てます。

 

 とりあえず、組底ガイドの指示通りに汲んで、車外装備品のシャベルも組付けました。

 

 砲塔背面に取り付けました。ここからガルパン仕様への変更を行ないます。

 

 御覧のように劇中車は車外装備品のシャベルを付けていません。留め金具だけが付いている状態です。

 

 そこでシャベル本体を全て切り離して留め金具だけを残しました。

 

 今回のキットの組み立て工程はステップ16で終了し、ラストのステップ17では車体に砲塔をセットするだけになります。ですが、ガルパン仕様への追加工作が三ヶ所にありますので、引き続き作業を進めます。

 追加工作の一ヶ所目は上図の赤円内のハッチの金具の追加です。今回のキットには該当するパーツがありませんので、プラ板で作ります。

 

 プラ板でそれらしく拵えました。左右のハッチを合わせて固定する金具のように思えます。

 

 追加工作の二ヶ所目は、背面の牽引フックの形状の追加です。キットのパーツは形がやや異なりますので、プラ板で上図のように作り直しました。だいたいの形を合わせた程度です。

 

 参考にした劇中車の牽引フックです。同じようなパーツが他のイギリス戦車のキットにあるだろうかと探しましたところ、クロムウェルのそれが近いように思いました。

 

 ここでステップ17の工程を終わらせました。砲塔を車体にセットしました。劇中車と同様に砲塔下の段差や隙間を無くしていますので、砲塔が車体上にピッタリ合わさっている状態です。

 

 まあ、こんなもんでしょうか。続いて、追加工作の三ヶ所目に移ります。

 

 劇中車の右フェンダー前部には予備履帯の収納ラックがあり、御覧のように予備履帯が無いので、それを留めて固定する横棒が4本見えています。キットでは予備履帯をはめ込むため、横棒のパーツがありません。それで、プラ棒にて追加することにします。

 

 プラストラクトの0.5ミリ丸棒を、収納ラック内側の寸法に合わせてカットし、4本作って上図のように取り付けました。タミヤやイタレリのキットを作る場合でも、同じ追加工作で劇中車の仕様を再現出来ます。

 以上で、塗装前の組み立てとガルパン仕様への追加工作が全て完了しました。塗装は次のタミヤキットで同じ車輛を作ってからまとめて行なう予定です。  (続く)

 

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豊家の余香2 高台寺表門

2024年02月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 いま国の重要文化財に指定されているこの高台寺表門は、加藤清正の築造と伝わり、伏見城の城門であったのを高台寺の建設に際して表門とするべく移築した、とされています。

 これらの内容は、ほぼ史実を反映しているものと思われるので、これがもと伏見城の城門であった事も本当だろうと考えられます。その場合、検証すべき問題点が一つ浮かび上がります。

 

 上図のように、いまも本柱の根巻きの飾り金具の中央が豊臣家の五七桐紋になっていますが、これが伏見城の城門として築造された時からのままなのか、それとも高台寺の表門とするべく現在地に移築してからの追加の飾り金具であるのか、という問題点です。

 なぜそのような問題点があるのかというと、伏見城は豊臣期に指月に築かれたものが文禄五年(1596)の慶長伏見地震で倒壊し、位置を変更して木幡山に築かれ、それが慶長五年(1600)の伏見城合戦で焼亡し、これを徳川政権が慶長七年(1602)に再建、元和五年(1619)に廃城となった歴史があって、おおまかに指月、豊臣期木幡山、徳川期木幡山、の三つの時期に分けられ、それぞれの時期の城郭建築が存在した経緯が知られるからです。
 なので、伏見城からの移築の伝承がある、と言っても、どの時期の建物を移築しているのかまでは伝えられていないため、豊臣期なのか、徳川期なのかの区別さえもなかなかつかない、というのが実態です。

 いまの高台寺表門が、豊臣期の伏見城城門を移築したのであれば、本柱の根巻きの五七桐紋の飾りも築造当時からのものである可能性が高くなりますが、徳川期の伏見城城門を移築したならば、家紋の飾りは徳川葵になっているはずですから、五七桐紋の飾りも現在地に移されてから付け替えたもの、ということになるでしょう。

 それ以前に、表門自体が伏見城のどの時期の城門であったかが未だに分かっていません。そこで、今回私なりに関連史料をひも解いて調べ、時期の絞り込みを試みました。

 高台寺の建設は、寺史の「高臺寺誌稿」によれば慶長十一年(1606)となっていますが、高台寺を建てた北政所と親交があった参議・大納言の西洞院時慶(にしのとういん ときよし)の日記「時慶卿記(ときよしきょうき)」を読むと、寺の建設は慶長九年から十年にかけて行われた様子がみえますので、慶長十一年はおそらく竣工の時期を示しているものと解釈出来ます。

 そのことは、德川政権側の公的史料である「徳川実記」の慶長十一年十二月八日の項に「故豊臣太閤政所の沙汰として。京東山将軍塚の地を引て一寺を建立し高臺寺と號し。太閤夫婦香火院とせられんと経営せられければ。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守清正人夫を出す。寺領五百石寄らる。」とありますので、慶長十一年に高台寺が出来上がったことが分かります。

 したがって、いまの表門が伏見城から移築されたのであれば、慶長九年から十一年までの間になされた可能性が考えられます。
 当時の伏見城は、徳川政権が慶長七年(1602)から再建した建築群で構成されていましたが、家康が駿府城を改築して移るにあたって慶長十一年頃に作事(建設工事)がいったん停止され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれた経緯が知られます。城門を移す場合、作事が停止された時期ならば都合が良いので、そのときに高台寺へ移されたのではないかと推定出来ます。

 また、「徳川実記」の文中に「加藤肥後守清正人夫を出す。」とあるので、まさに加藤清正が高台寺の建設に関わっていたことが伺えます。高台寺表門を加藤清正の築造と伝えるのも、加藤清正が高台寺の建設に関わって伏見城から城門を移したことを暗示しているのではないか、と考えます。

 以上の事柄から、いまの高台寺表門が本当にもと伏見城城門であったならば、それは徳川政権が慶長七年より再建した伏見城の建物であって、つまりは徳川期の城門である、ということにまとまります。したがって、いま見られる五七桐紋の飾りも現在地に移されてから付けられたものと考えられます。

 

 高台寺表門が、現在地に移築されて後、ずっとその位置を保っていることは、門前の南側に建つ上図の寺領標によっても分かります。寺領標とは、寺院の境内地の境界線に建てられて境内地の範囲を明記する標柱です。「これより南東が高台寺領である」という意味ですので、この表門が境内地の南西隅の参道筋に建てられていることが分かります。

 

 慶長十一年に竣工した高台寺の伽藍規模については江戸期の色々な史料にほぼ同じ内容で述べられています。一番分かりやすいのが宝暦四年(1754)に作成されたガイドブックの一種である「山城名跡巡行志」の記載であり、上図の表門に関しては「惣門二所 正面西向 北面北向」とあって、もとは伽藍の北にも北向きの門があったことが知られ、そして「正面西向」とあるのが現在の表門にあたります。正面西向とは、は寺の正式な参道筋が西に向いていることを指します。

 

 したがって、この高台寺表門は、慶長九年から十一年までの間に、德川政権が再建した伏見城から城門を移築して、高台寺の本来の境内地の南西隅に正式な参道をしいてその出入口の門とされ、現在に至るまでその位置を動いていない、ということが分かります。

 竣工後の高台寺は、いまの霊山観音の境内地に仏殿や方丈などが並んでいて大きな伽藍を誇っていましたが、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈、小方丈、庫裏などを焼失してしまい、現在は北側の開山堂や霊屋などのエリアだけが創建時の面影をしのばせるのみです。仏殿などが並んでいた区域は、いまの霊山観音の境内地になっているので、表門だけがポツンと離れているように見えているのも、仕方のないところでしょう。

 

 U氏が「妻飾りとかを見よう」と言うので、いったん高台寺南門通に出て、改めて表門の横側に回りました。

 

 上図のように、妻梁(つまばり)の上に蟇股(かえるまた)が2個並んで見えます。これは西側、表側の蟇股です。

 

 その蟇股(かえるまた)に彫刻が施されています。デジカメのズームで引き寄せて撮りました。花鳥風月のデザインが各所に彫られています。

 

 その反対側、東側つまり内側の蟇股(かえるまた)には動物の彫刻が見えました。U氏は「犬かな?いや狐かな?尻尾が長いなあ」と視ていましたが、私にもよく分かりませんでした。徳川期の寺院建築の彫り物には、時々神獣と呼ばれる伝説上の動物が見られますが、その名称を不勉強のゆえにあまり知らないからです。

 

 裏側、つまり境内地側に回って見上げました。表からは見付などに見える彫刻意匠や飾り金具などが、裏側には一切ありません。大型の普通の門、といった雰囲気にとどまっていました。U氏が半ば呆れたような口調で、「飾っているのは表だけで、裏は武骨な戦国期の城門のままか・・・」と呟いていました。

 

 ですが、戦国期の城門にしては規模が大きく、屋根も高いので、軒も広がるように長く出ています。実際の大きさ以上に雄大に見えるのもそのためですが、一般的な門よりも規模が大きいのであれば、伏見城においては重要な位置を占めていた可能性が考えられます。

 いま伏見の御香宮神社に同じ徳川期の大手門が移築されていますが、それよりも建築的にはこちらのほうが立派なので、もとは本丸の主要な城門か、もしくは御殿区域の門であった可能性が考えられます。京都市内の各地に伏見城からの移築城門が残っていますが、この高台寺表門が抜きんでて立派で格式も高いからです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く37 その4  霧ヶ峰インター付近

2024年02月02日 | ゆるキャン△

 志摩リンが立ち寄った、霧ヶ峰インターチェンジの周囲の景色を見まわしました。上図はバス停から東、車山高原の方向を見たところですが、車山高原は丘陵の向こうに隠れていて見えませんでした。

 

 続いてバス停から南側を見ました。霧ヶ峰高原の最も高い部分にあたるそうですが、なだらかな平原の地形でした。昔は牧場が広がっていたと聞きます。

 

 バス停から南への園路を少し歩きました。その時に、バス停にしばらく停まっていたバスが発車し、交差点を左折して八島湿原の方向へ走り去っていきました。上図左端にそのバスの後部が写っていますが、そのバスが再びここに戻ってくるまでの18分間が、今回の霧ヶ峰インターチェンジでの滞在時間でした。

 

 今度は東に歩いて、バスが走り去った交差点の北側へと移動しました。上図右の看板は、アニメのシーンにも登場しています。

 

 このシーンですね。看板の右側に交差点があり、まっすぐ行けば車山高原、左折すれば八島湿原に行きます。

 

 アニメではこの交差点の景色を右側、南側へスライドさせていますので、このアングルの景色も出てきます。

 

 このシーンですね。劇中の季節と、今回訪れたタイミングがあまり違わないので、ススキがたなびく枯れ野の景色もほぼ同じでした。私の聖地巡礼は、作中および劇中とは季節を異にする場合が殆どなので、このように劇中そのままの景色に会えるのは稀です。

 

 今回の滞在時間が18分しかなかったのですが、もし一時間ぐらいあれば、風景を愛でながら付近を散歩していたと思います。秋景色が好きなので、こういう時期の高地の平原ののどかな景色というものも、見飽きません。

 

 霧ヶ峰高原インターチェンジの駐車場と売店を振り返りました。志摩リンが手を振っていたライブカメラも見えます。

 

 劇中の同じアングルのシーンです。中央の横断歩道の端で志摩リンがライブカメラに向かって手を振っています。2019年4月に初めて訪れた時は、このシーンと違わない景色でしたが、今回は右端の建物が無くなっていました。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その9

2024年02月01日 | ガルパン模型制作記

 ステップ14の続きです。砲塔上部のガルパン仕様への改造箇所がさらに3か所あります。
 御覧のように劇中車においては、砲塔上の右側ハッチの天面にリベットが全く無く、左側ハッチの天面のリベットは2個のみでハンドルは付きません。また、砲塔天面後端の三角天面にリベットが全くありません。
 これらの状態に合わせます。

 

 まずは砲塔左側ハッチのDa9の改造から始めました。リベットを中央の2個のみにして、ハンドルDa16は付けずにダボ穴を埋めます。

 

 改造後の状態です。

 

 右側ハッチDa10の天面にリベットが全く無いので、リベットは全てカットします。ハンドルのDa16は付けますが、位置が端に寄るので、ダボ穴を埋めて劇中車の位置に取り付けます。

 

 右側ハッチDa10の天面のリベットを全てカットしました。

 

 ハンドルのDa16の本来のダボ穴を埋めて、劇中車の位置に取り付けました。

 

 劇中車では砲塔天面後端の三角天面にリベットが全くありませんが、キットのパーツDa12にはリベットが並びます。これらを全てカットします。

 

 改造後の状態です。

 

 パーツごとの改造が完了したので、砲塔を組み立てました。左右のハッチはピットマルチにて開閉自在とするので、ここでは接着せずに保管しました。

 

 左右のハッチを仮組みした状態です。

 

 ステップ15では砲塔の各部品を組み付けます。ガルパン仕様への工作が3か所あります。
 ステップ16では砲塔背後の雑具箱を取り付けます。ラストのステップ17では砲塔と車体を組み合わせます。組み立てガイドは以上で終わりますが、ガルパン仕様への追加工作がまだまだあります。

 

 ステップ15で取り付けるパーツ類です。このうち、吊り下げフックのBa3の前2個は、ガルパン仕様に合わせて取り付け位置をやや上にあげます。後ろの2個は指示通りに取り付けます。

 

 御覧のように、劇中車の該当部品はやや上に付いています。これに合わせました。

 

 続いて砲塔右側面後方のライトの基部Y05の位置を1ミリほど後ろにずらします。Y05は上図で金色に見えるエッチングパーツですが、その後方を1ミリほどカットして、砲塔右側面後方にモールドされる方形板にピッタリ合わせて取り付けました。

 

 続いて砲塔右側面後端のアンテナの基部のエッチングパーツY2を、劇中車に合わせて上にずらしました。あとのパーツは指示通りに取り付けました。ベンチレーターは改造したパーツを劇中車の位置に合わせてセットしました。
 以上でステップ15の工程が完了しました。  (続く)

 

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