気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

黒森峰女学園選抜シュバルツバルト戦闘団のⅡ号戦車を2輌追加製作しました

2022年10月16日 | ガルパン模型制作記

 サークルの知人に3月と5月の二度にわたってタミヤのⅡ号戦車F型のキットを頂きました。それでしばらくの間2個のⅡ号戦車F型のキットが手元にありましたが、放置するわけにもいかないので、思い切ってガルパンの車輌に仕上げることにしました。
 このタミヤキットは、コミック「リボンの武者」に登場する黒森峰女学園選抜チームのシュバルツバルト戦闘団の車輌のモデルとして知られます。私も既に2輌を製作していますが、黒森峰女学園推しとしては、さらに2輌を追加してもいいんじゃないか、という考えに自然と落ち着いてしまいました。
 で、上図のごとく、シュバルツバルト戦闘団の3輌目、4輌目に仕上げました。

 

 かくして4輌が揃ったシュバルツバルト戦闘団でした。この並びのさまが、黒森峰女学園推しとしてはグッとくるわけです。ということは、さらに追加すれば、ググッと強くくることでしょう。

 ですが、「リボンの武者」のシュバルツバルト戦闘団は、全部で12輌あるんですよ・・・。

 

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プラウダ高校 T34/85(四輌目)を作りました

2022年10月15日 | ガルパン模型制作記

 以前に製作したイタレリのT34/76と同じく、フォロワーさんに譲渡していただいた数個のキットのなかに、タミヤのT34/85がありましたので、気晴らしに作りました。このキットは以前に製作したことがありますので、製作記事も既に完了しています。

 

 私の製作したプラウダ高校チームのT34/85は、これで4輌目となりました。内訳は、プラッツ/ドラゴン1輌、AFVクラブ1輌、タミヤ2輌です。他にズベズダ、ICM、アカデミー、ミニアート、ライフィールドモデルからもキットが出ていますので、機会があればいずれかを作ってみたいです。

 

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知恩院の黒門と青蓮院しだれ桜

2022年10月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 知恩院北門からの「黒門坂」と呼ばれる参道を降りていって、境内地の境界線にあたる神宮通りまで進むと、上図の門が見えてまいります。知恩院では黒門と呼んでいる北側の山門で、「黒門坂」の名もこれに由来します。

 

 門裏の出入口の扉です。U氏が近寄って「これはなかなか堅牢な・・・、実戦的な造りだな」と言いつつ柱や扉をなでました。門口の左右の室内に出入りする扉板ですが、内側から開ける形式で扉板そのものが間口の内側に少し引っ込んだ位置に取り付けられています。外から引っ張って開けにくい扉であり、防御用に堅く閉じられるように造られています。

 

 門の左右の潜り戸も同じ構造になっています。上図は内側から見たものですが、御覧のように閂と蝶番が内側に仕込まれていて、外側から簡単に破られないように造られています。いかにも戦国期の様式をおもわせる実戦的な設えです。しかも覗き窓が一切ありませんから、外からも内からも反対側が見えません。

 

 門口の様子です。外側に徳川葵の幔幕が懸けられていますが、中世戦国期の城郭の門もこのように門や櫓の出入口に幕を懸けたり垂らしたりして視界を狭め、外から内側が見えないようにしていた事例が多かったと聞きます。

 そのことはU氏も知っていて、「完全に戦国期の城門だね、窓も無いから門扉を閉じれば視界は完全に遮断されるわけだな・・・。するとこの門は、単独では成立しにくいな、門の横に櫓とかを高く設けて指揮所にしたうえで櫓と門のセットで守りを固める構えだったんだろうな」と腕組みしながら言いました。

 

 U氏の推測には私も同感でした。視界がまったく効かない門なので、確かに単独では防御効果が限定的になります。門の左右に塀だけでなく、物見が可能な高い櫓を繋げて初めて防御戦闘が可能となります。門自体の左右の室内空間は狭くて倉庫程度にしかならないため、守備兵が詰める施設が近くに必要となります。番所もあったかもしれませんが、外に視界を確保して外敵の動向を視察するための施設、すなわち櫓が必須となります。

 

 なので、この黒門がもとは伏見城の新宮門であって、これを豊臣秀吉および徳川家康に仕えた武将の山岡景友が慶長年間(1596~1615)に移築、知恩院に寄進したものと伝えるのは、本当かもしれません。
 御覧のように、寺院の山門には似つかわしい戦闘用の門建築であるうえ、現在の単独の状態では防御施設としての機能を果たさないため、もともとは櫓かそれに準じた建物とセットで城郭の出入口を固めた門であることが推定されます。

 もと伏見城の門なのであれば、山岡景友が戦功にて徳川家康より伏見城の新宮門と邸宅を与えられたのが慶長五年(1600)十月のことなので、徳川家康が藤堂高虎を普請奉行に任じて伏見城の再建にとりかかる慶長七年(1602)六月より前に存在した門建築であったことになります。すなわち、豊臣秀吉が築いた木幡山伏見城の残存建築のひとつであった可能性が高くなります。

 秀吉の木幡山伏見城は豊臣秀頼が慶長四年(1599)に大坂城へ移ってからは荒廃したとされ、翌慶長五年六月の伏見城の戦いにて、西軍の小早川秀秋、島津義弘の連合軍に攻められて炎上、落城しています。石田三成が西軍諸将への書状にて「城内悉火をかけやけうちにいたし候」と報告していますので、秀吉期の主要建築は全て焼かれて失われたようです。

 

 すると、この門は、奇跡的に焼け残った城門であったことになります。もとは「新宮門」と呼ばれた点から、木幡山伏見城の主要部に位置していたのではなく、西側の城下町の西外れにあって現在も御香宮神社の北に合祀されて鎮座している春日新宮社(現在の北合祀社新宮社)の近くにあったものと推定されます。位置的には、伏見城下町の外郭線の西端にあたりますから、城郭主要部の門ではなく、城下町の西側の門であった可能性が考えられます。

 なので、上図のように棟木の左右端がカットされているような感じにみえるのも、もとは左右に建物が繋がっていて、門の左右に長櫓のような施設が付属していた可能性を思わせます。城下町の出入口を固める門であったのならば、その施設は番所的な簡易な建築であったかもしれません。

 

 ともあれ、秀吉期の木幡山伏見城の建築遺構は殆ど残っていないとされている現在においては、貴重な建物であることは確かです。
 U氏が「そういえば、京都には伏見城の建物を移築したと伝える門とか建物が幾つかあると聞いてるけど、確かなのは半数以下らしいな」と話していましたが、その通りで、確かな建築遺構の大多数は徳川期のものです。

 伏見城は、徳川家光の代の元和九年(1623)に廃城となって全ての建物が解体され、天守は二条城に、また多くの建物は福山城や淀城をはじめ各地に移築されています。京都市内にも大手門や書院の一部などが移築されています。城門に限って言えば、私の見てきた限りでは御香宮神社の表門(旧大手門)、二尊院の総門(旧薬医門)や天龍寺の勅使門や上御霊神社の南門が挙げられます。一般的によく知られる豊国神社の唐門も伏見城からの移築と伝えますが、秀吉期のものであるのか、それとも徳川期のものであるのかは確定していません。

 そういった事柄を話したところ、U氏は「そういう伏見城移築の建物を回って記事にしたらどうかな、単なる伝承の建物は外して、確かな建物だけをリストアップして順に紹介したら面白いんじゃないかな」と言いました。

 なるほど、そういう試みもあるな、と感心しました。伏見城からの移築伝承をもつの建物は京都市内だけでも三十ヶ所近くにのぼりますが、由来や様式からみて確かな建築遺構だけに絞ると半数以下の十四、五ヶ所になります。非公開の建物も少なくないので、いつでも見学出来るのは十ヶ所前後となります。全部が京都市内にありますから、それらを回って連載で紹介するのもいいな、と考えました。
 ては前向きに検討しよう、と答えるとU氏は「よし、いいぞ」と笑顔で頷きました。

 

 黒門の前を通る神宮通りは、通称を桜通りと呼ばれます。知恩院から北の平安神宮に至る通りですが、途中の青蓮院門跡が隠れた桜の名所として知られます。それで、その青蓮院門跡の北にある園地に行きました。園地というより放置状態の空き地のような場所ですが、いちおう「粟田口あおくすの庭」という優雅な名称が付けられています。
 その中央に、上図の遅咲きのしだれ桜が咲いていました。

 

 満開であったこの桜は、俗に青蓮院裏の桜などと呼ばれているようですが、観光客の行き交う神宮通りに面していて目立つので、観光客の半数は園地内に進んで桜に近寄り、撮影したりしていました。

 桜が好きなU氏と私も園地に入って、ベンチに座って眺めました。そうしてお茶を飲みつつ30分ほどまったりしていましたが、そのうちにU氏が腕時計を見、「そろそろ帰るわ、総見院も知恩院も満喫出来たし、京都御苑にも行けたからもう今日は大満足だ」と立ち上がりました。

 既に時刻は15時を回っていました。昼食もとらずに動き回っていたので、二人ともかなりの空腹でした。それで相談して、京都駅まで移動してどこかで遅い昼食をゆっくりとって、解散しよう、と決まりました。そうして最寄りの地下鉄の東山駅へと向かいました。  (了)

 

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海洋堂「ゆるキャン」プラモケイを作る13  4人と1台

2022年10月13日 | ゆるキャン△

 海洋堂ゆるキャンプラモケイの製作、ラストの今回は志摩リンのキャンプギアと4人分の薪を作ります。上図がそれらのパーツ類です。デカールも貼ります。

 

 いつものように、パーツを完全に切り離さずにランナーに付けたままにして、塗装時の持ち手を確保します。ゆるキャンプラモケイは小さなパーツが多く、指先でやっとつまめるぐらいのサイズも少なくないので、塗装の際にどうしても指が汚れやすくなります。それで、ランナーに付けたままにして作業を進めます。

 

 今回もポスカが活躍します。こういったペンタイプの塗料マーカーは扱いやすく塗りやすいので重宝しています。この種のマーカーは色々なメーカーから豊富な種類の商品が販売されていますが、上図の三菱ポスカは特に知名度が高くて昔から学校教材や画材としてよく利用されるため、スーパーや文房具屋ならどこでも売っていて入手しやすいのが特徴です。どこでも買える、というのは非常に大きなポイントです。

 なので、ガンプラ愛好者の間でも、模型店でしか入手出来ないガンダムマーカーよりもポスカを使っている方が少なくないと聞きます。私自身も数年前に交流サークル仲間のモケジョさん、つまり現在の嫁さんにポスカを教えて貰い、それ以来ずっとガルパン戦車プラモデルの転輪部分や細部の塗装などに常用しています。

 

 今回は志摩リンのチェア以外はカラーが揃っていましたので、ドンドン塗りました。チェアは公式設定資料やアニメのキャプチャー画でみるとアイボリー系のカラーに見えますが、手持ちのポスカにその色はありませんでしたので、近いカラーの灰色で塗りました。

 

 塗装が完了して、組み立ても終わった状態です。アルミテーブルとホットサンドメーカーの2点は私も実物を持っていますから、塗り分けに迷いはありませんでした。

 

 デカールの準備をしました。ゆるキャンプラモケイの4人のなかでは、志摩リンが最もデカール貼りの作業量が多いです。チェア、ボトル、カレーめん2個に貼ります。

 

 デカールを全て貼り終わりました。

 

 続いて、4人分の薪の組み立て、塗装を行ないました。割った薪と、それを束ねた状態との2種類のパーツがあります。塗り分けは、初心者レベルでざっくりと行ない、細かい塗り分けやディティールアップには踏み込まないでおきました。

 

 適当に2つのカラーで塗ったためか、巻が巻き寿司みたいに見えてしまいます。室内で撮影するとどうしても暗い画像になり、ダークブラウンが黒っぽく見えます。

 

 とりあえず、薪が仕上がりました。「なんか間違ってる恵方巻き」と嫁さんに酷評されました。

 

 以上で、志摩リンのキャンプギアと4人分の薪が完成しました。説明書通りに作ればチェアには志摩リンがおさまりますので、デカール模様は見えなくなって無意味になりますが、私の製作では志摩リンを立ち姿に改造しましたので、チェアもキャンプギア類の一個として存在感を示しています。

 

 これで海洋堂ゆるキャンプラモケイの第一弾のカプセルシリーズ4体とタミヤのキャンパスフレンズセットⅡのヤマハビーノ1台が揃いました。上図のようにダイソーの300円ケースに全て並べることが出来ます。

 地面にもダイソーやセリアで売っている100円の模型工作用の芝生シートを張ると、よりリアルなジオラマ風に仕上げることが出来ると思います。それで芝生シートを買いに行きましたが、どこも売り切れで買えませんでした。100円の芝生シートはプラモデルや鉄道模型などの情景制作の定番アイテムの一つになっていますから、すぐに売り切れてしまってなかなか手に入りません。他にレンガ壁や道路の石畳のシートも100円で売っていて、これらもよく売り切れになっています。

 

 とりあえず、ケースに入れて上図のように埃から守ります。棚に置いていつでも眺められるようにしました。

 以上、海洋堂ゆるキャンプラモケイの第一弾のカプセルシリーズ4体とタミヤのキャンパスフレンズセットⅡのヤマハビーノ1台のレポートでした。

 ちなみに、この12月から発売予定の第二弾の「ARTPLA ゆるキャン△ キャンプセット」に関しては、現時点では購入および制作の予定はありません。上図のダイソーのケースにはおさまらないスケールと量であるので、スペースに余裕が無い私の環境ではちょっと難しいからです。
 第三弾の「志摩リンとバイクセット」についても、既にPLUMさんの同じようなフィギュアが手元にありますし、アルターさんの「志摩リンwithスクーター 1/10フィギュア」もありますので、対象外とします。第四弾以降については分かりませんが、今回製作した4人以外のキャラクター、例えば各務原桜、鳥羽美波、土岐綾乃がプラモ化されるのでありば、前向きに検討したいと思います。

 以上で、私の海洋堂ゆるキャンプラモケイの製作レポートを終わります。  (了)

 

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知恩院伽藍を抜けて

2022年10月12日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 知恩院三門より男坂の階段を登って広い伽藍域に出ました。左に御影堂(寛永十六年(1639)建立、国重要文化財)、右奥に経蔵(元和七年(1621)建立、国重要文化財)が見えました。いずれもコロナ対策の為非公開となっていたため、外から建物を見るにとどめました。が、U氏は「ここに来られただけでもう充分だな。徳川家の京都永代菩提所かくなりや、と実感出来たのは成果だ」と上機嫌でした。

 

 続いて左脇の阿弥陀堂(明治四十三年(1910)再建)を見ました。この日は何かの仏事または催事があったものか、三門、経蔵、そしてこの阿弥陀堂に徳川家の三つ葉葵紋の幔幕がかけられてありました。U氏は気に入った様子で「徳川葵って、やっぱりカッコいいよなあ・・・」と何度もつぶやいていました。

 

 阿弥陀堂の脇を通って北へ抜けようとする途中で、U氏が「右京大夫よ、あれ五輪塔だよな」と法務棟の通廊わきにある立派な上図の五輪塔を指しました。見た途端に、あっ、これは古い遺品だ、と分かりました。水輪が逆さになっている気がしましたが、まぎれも無く鎌倉期の優品でした。笠の四隅の反りの形式からみて鎌倉後期かな、と見てとりましたが、U氏は私以上に興奮していて、「おい、これが知恩院にあるという、徳川四天王の一人、酒井忠次の墓塔なんだろうか」と聞いてきました。

「え、酒井忠次の墓がここにあるんかね・・・」
「そう書いてあったぞ、確か千姫の墓もここにあるってさ」
「ふーん、初めて聞いたな・・・。でもこの五輪塔はもっと古い鎌倉期のものやから、酒井忠次の墓とは違うと思う」
「あれっ、違うのか・・・・」
 そこでU氏はスマホで検索して調べていましたが、やがて顔を上げて「うん、違ったよ。忠次の墓はこの裏手の墓地にあるらしい」と言いました。
「でさ、こっちのは、知恩院が徳川家によって慶長年間(1596~1614)に拡張整備された際、ここにあった速成就院という寺の遺物らしい」
「速成就院?・・・どこかで聞いた名だな・・・、あっ、五条河原町の白毫寺のことか」
「うん、太子堂白毫寺って書いてあるよ・・・」

 差し出されたスマホ画面を見て、やっぱり河原院の白毫寺か、あの寺は知恩院のここが旧地だったのか、と理解しました。由緒は不明ですが、聖徳太子を祀りますので、古代からの歴史があったはずですが、現存する最も古い遺品はこの五輪塔であることになります。京都の鎌倉期の五輪塔としては優れた作域を示しており、白毫寺では忍性の墓と伝えていたそうですが、それも鎌倉後期の年代観とは矛盾しないのが興味深いです。

 

 五輪塔を見物した後、北へ進んで右手に集会堂(寛永十二年(1635)建立、国重要文化財)を見ました。これも非公開でしたが、外観の立派さを見て取るだけで充分でした。

 

 そのまま北へ進んで、小ぢんまりとした北門をくぐりました。土塀の外に出て西側の視界が開け、市街地の広がりが望まれました。伽藍域が高所にあることが改めて実感出来ました。

 

 北門からは、寺の裏参道の石段が曲がりくねりながら下へ続いていました。その石段にそって石垣が高さを増していき、これも一種の防御施設として機能しそうな雰囲気をみせていました。城郭の構えとあんまり変わらんな、とU氏が言いましたが、同感でした。

 

 北門を振り返りました。横の白壁の土塀は寺務所のそれですが、城郭の土塀のような雰囲気がありました。この感じ、なんかええなあ、と話したら、U氏も頷いていました。

 

 少し降りると、失われた土塀の石垣も見えてきて、本来は北門そのものが外から見えなかったのだろう、と思わせられました。石段の通路をクランクさせる点も、斜めに積まれる石垣の塁線が角のところで突きだして空間を意図的に狭めている点も、有事の際の防御線としての役割を持たせる目的によるものだろう、と思いました。U氏もそのことが分かるようで、「城郭の搦手口の構えだな」と興奮していました。

 

 裏参道を下まで降りてゆくと、伽藍域の外郭の石垣が高く積まれているのが見えました。上図は裏参道の下まで行ってから振り返ったところですが、奥に高い石垣が見えます。確かに徳川家は知恩院を城塞化しているわけです。いわゆる寺院城郭の典型例でしょう。

 

こうしてみると、城郭への入り口のような雰囲気でありました。石畳道、階段、高い石垣とくれば、土塀や櫓が次に現れてきそうで、ここが知恩院という浄土宗の寺院の境内地であることを忘れそうになりました。  (続く)

 

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プラウダ高校 T34/76(三輌目) 完成です!!

2022年10月11日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業に進みました。白いサーフェイサーを吹き付けた後、クレオスのミスターカラーの69番グランプリホワイトを使用しました。履帯は28番の黒鉄色で吹き付け塗装し、転輪のタイヤゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 転輪と履帯を組み付けました。今回のズベズダのキットは足回り全体がやや後ろにずれているので、一番前の誘導輪の位置がひっこんだ感じになっているのが分かります。このあたりは下部車体の取り付け位置を前にずらすことで調整出来そうに見えますが、下部車体の車軸部分全てに修正を施す必要がありますので、かなり難しい改造を強いられると思います。それで修正改造はやめておきました。

 

 砲塔をあらためてセットしました。

 

 車体後部上面のエンジン吸気口グリルを、28番の黒鉄色で塗りました。この部分はドラゴンのパーツとメッシュに交換してリアルに仕上げるという手もありましたが、実物そっくりに仕上げるのが目的ではないので、この種のディティールアップは、ガルパン劇中車の再現工作においてはあまり採りません。

 

 車体前部の機銃も28番の黒鉄色で塗りました。

 

 車体左側面の前照灯の内側を8番のシルバーで塗り、レンズ部分はウェーブのクリアパーツに交換しました。

 

 以上で塗装が完了しました。プラウダ高校チームの戦車は車外装備品が全くないので、細かい塗り分けも不要で楽です。ガルパン車輌のなかでは塗装が簡単に楽しめる部類に属します。

 

 砲塔左右に校章マークのデカールを貼り、つや消しクリアを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 以上で、プラウダ高校チームのT34/76の三輌目が完成しました。製作日数は、2022年3月4日から5日までの2日間で、塗装まで含めて一気に仕上げました。メーカー毎の違いは殆どない戦車のキットなので、三度目ともなれば、手順も改造箇所も分かっていて、スラスラと作業が進みました。

 今回はイタレリの販売キットでしたが、中身はズベズダ製品でしたので、T34/76の母国のメーカー品を組み立てたことになります。が、タミヤやドラゴンやAFVクラブの製品に比べると細部が甘く、サイズも微妙に大きいので、並べて見比べると、色々と相違点を見て取ることが出来ました。キット毎の比較製作検証のよい機会でもあったと思います。

 

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知恩院総門から三門へ

2022年10月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺総見院を辞して、大徳寺前バス停より市バス206系統に乗り、北大路、東大路を経て知恩院前バス停で降りました。今回の京都散策におけるU氏のリクエストの二番目が知恩院でした。今まで行った事が無いので一度は行きたい、というのが理由でした。私も知恩院には行った事がなかったので、良い機会でした。

 

 バス停から南へ少し行くと、上図の総門の前に出ました。東大路に面して建つ知恩院一山の表門にあたり、別名を「新門」といいます。U氏が「要するに、新しい門であるわけかな?」と聞いてきたので、「新たに追加した門、という意味かもしれん」と答えておきましたが、U氏は「なるほど」と納得した様子でした。

 

 総門から三門までのゆるやかな登り坂の参道筋に桜が咲いていました。U氏は桜が好きなのでテンションも上がりっぱなしで、何度も写真を撮っていました。

 

 三門の前まできました。徳川秀忠が寄進して元和七年(1621)に建立されたもので、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門、三解脱門(さんげだつもん)を意味する三門です。入母屋造、本瓦葺き、五間三戸の二重門で、高さは24メートル、現存する日本の寺院の三門(山門)の中で最大の二階二重門です。

 私はこの三門の前は何度も行き来していますが、門をくぐるのは今回が初めてでした。知恩院は周知のように現在の伽藍や文化財が江戸期に徳川家の永代菩提所となって以降に形成されているため、藤原期仏教美術史専攻だった身からすれば全く縁が無かったのでした。そのことはU氏も知っていますから、「君は一に平等院、二に浄瑠璃寺、三に法界寺、だったもんなあ、知恩院に行く契機とか無かったもんなあ」と言いました。

 

 三門からは上図の「男坂」と呼ばれる階段が上の伽藍へと続きます。「うええ・・あれを登るのか」と思わず口に出したところ、U氏は「仮にも徳川家の流れに連なる水戸家28万4千石の誇りにかけても、桜を散らして登るのじゃ」と意気揚々と答えてきました。

 

 くぐったばかりの三門を振り返って仰ぎ見ました。「でかい門やなあ・・・」「そらそうだよ、東大寺南大門よりも大きいんだぜ」「それは知ってるけどな・・・」「この日本最大の三門の規模こそが徳川家の心意気と威信であるぞ」「そういうことやな」などと話しました。

 

 「男坂」の階段を登り始めましたが、段差が大きいうえに急なので、半分も行かないうちに息が荒くなってきました。左右の石垣も高くそそり立ち、城郭の構えや階段とほとんど変わりませんでした。
 それもそのはず、徳川家が知恩院を永代菩提所と定めたのは表向きの理由で、伽藍の整備は城郭のそれに準じて防御性も持たせて軍事的拠点として機能するように寺域を整備したといいます。伽藍そのものも高所に築いて周囲に石垣を巡らせています。そうして二条城とともに京都における徳川家の拠点となし、その威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制する狙いがあったとされています。
 知恩院が選ばれたのは、徳川家が浄土宗徒であるため、というのもひとつの理由ですが、それ以上に知恩院第二十五世の超誉存牛(ちょうよそんぎゅう) が松平氏第四代松平親忠の子であり、徳川家康の先祖にあたるのが大きかったとされています。

 

 男坂の途中で、一休みして三門を振り返りました。U氏が「いざとなれば徳川の兵が知恩院に立て籠もって三門を物見櫓となして扉を閉じて防塁となす、というのがよく分かるな」と感心しつつ言いました。最大規模の三門であるのは、有事の際に最大規模の防御施設として機能させるためであったからでしょう。
 例えば、門の扉口前と二階の高欄とに弓鉄砲を並べてつるべ撃ちにすれば、いかなる敵も三門に辿りつけずに撃退されるに違いありません。

 

 男坂を登り切ったところで、再度三門を振り返りました。まだ屋根のてっぺんの方がこちらよりも高い位置にあるように思えました。この三門が、伽藍域への表通路である男坂を外から見えなくしているのだな、と気付いて、いわゆる城郭内の目隠し櫓のような機能も併せ持った門なのだな、と理解出来ました。

 そのことをU氏に言うと、「流石は徳川家、ってなるだろ、260年の泰平の世をしいた史上最強の武家政権なんだぜ、こういう門だけでも京都を圧倒しておるわけだ。わははは」と自分が将軍であるかのように胸を反らして威張って言うのでした。  (続く)  

 

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プラウダ高校 T34/76(三輌目) 作ります!! その4

2022年10月09日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7です。前のステップ6にて既に組み付けたパーツがあるので、残るは右側面の手摺と雑具箱、背面部の排気管などのパーツでした。12Aは劇中車にありませんので不要です。

 

 手摺のパーツ24Dと雑具箱のパーツ11Aです。

 

 組み上がりました。アンテナ基部の12Aは劇中車にありませんので不要となりましたが、その基礎部分の張り出しはカットせずにそのままにしました。私の製作するプラウダ高校チームのT34/76はこれで3輌目ですので、他の2輌との識別のために、わざと張り出し部分を残しました。

 

 続いて、背面部においてガルパン仕様への改造工作を行ないます。

 

 上図のように、劇中車に合わせて予備燃料タンク用パイプをプラ棒で追加しました。

 

 排気管のパーツ12B、排気管カバーのパーツ13Bです。また今回のキットには背面部の丸ハッチのハンドルのパーツが付いていませんので、ジャンクから適当なパーツを調達しました。上図の排気管パーツの上に見える白いパーツがそれです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ8では各所の部品や装備品を取り付けますが、ここでは大半が劇中車に見えませんので不要となります。取り付けるのは砲塔背面のハンドルとピストルポートの2つです。

 

 砲塔背面のハンドルのパーツ17Dは形状が異なるので、AFVクラブのパーツに換えました。ピストルポートのパーツ12Dはそのまま取り付けます。

 組み上がりました。

 

 組み上がった第一印象は、前作のタミヤやAFVクラブのキットに比べるとやや大振りかな、という感じでした。

 

 特に砲塔が大きい感じがありました。比較してみたところ、砲塔の横幅と高さが他メーカーのキットのそれよりも1ミリ前後大きいことが分かりました。たった1ミリでも見た目には大きいと分かりますから侮れません。

 

 ガルパン仕様の追加工作のラストは、前部左右のワイヤーフックの上の留めピンの左右のL字形金具の追加でした。上図のようにプラ板でカットして取り付けて再現しました。劇中車には付いているこの金具は、タミヤやドラゴンやAFVクラブのキットにも付いていませんから、劇中車独特の仕様であるのかもしれません。

 

 ともあれ、塗装前の組み立てとガルパン仕様への追加工作が全て完了しました。  (続く)

 

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紫野大徳寺14 総見院墓所と鐘楼

2022年10月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺の塔頭総見院は、明治期の廃仏毀釈によって荒廃して絶えた後、大正期に再興されています。そのために本堂以下の主要建築は昭和に入ってからの再建であり、天正十一年(1583)創建以来の遺構としては前述の表門と土塀、そして上図の織田家墓所、秀吉ゆかりの侘助椿、が挙げられます。遺品としては、秀吉による「大徳寺の葬儀」に際して造立された二体の織田信長像のうちの一体(国重要文化財)が挙げられます。

 今回の特別公開は、これらの伝世文化財を見られる唯一の機会であったので、信長に関心の高いU氏が昨年よりリクエストしていたものでした。上図の織田家墓所も、厳密には供養塔の並びに過ぎませんが、信長以下一族の墓塔がまとまっているのはここしかありませんから、U氏にとっては「聖地」の一つであるのに違いありません。

 

 さらにU氏は、上図の濃姫の供養塔を感慨深げに拝し、「斎藤道三の愛娘か・・・」と呟きました。それから私を振り返って聞いてきました。

「右京大夫、この濃姫っての、後世になってからの呼称なんだろね。生前は何と呼ばれてたのかねえ」
「戦国期の習慣に即して言うなら、信長に嫁いだ時点での実家の名前で呼ばれるのが普通やな。当時の斎藤道三は子の義龍に家督を譲って稲葉山城から鷺山城に移っていたから、その鷺山城からの嫁ということで鷺山殿、というのが普通やろうな。もしくは正室の一般的呼称である「北の方」だったかもしれん」
「なるほどな。濃姫とか於濃とかは後世の小説とかの呼び名だもんな。北の方、が普通か。あとは安土城に移ってから安土殿と呼ばれた説もあったっけな。信長以外に安土城の名を冠して呼ばれる女性なんて正室だけだろ」
「そうやろうな」

 この供養塔には「養華」と刻まれているので、大徳寺においては「養華院供養塔」と伝えています。安土の摠見寺の「泰巌相公縁会名簿」に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記されていることが近年に判明し、この「養華院供養塔」が「信長公御台」つまり通称濃姫の供養塔である可能性が高くなりました。これによれば、濃姫は慶長十七年(1612)まで生存していたことになりますが、信長より一つ年下であった説に従えば、78歳で没したことになります。
 「養華」が鷺山殿こと濃姫であれば、彼女は夫の信長よりも、そして秀吉よりも長く生きて、戦国乱世の流転と終焉を見届けたことになります。なんとドラマチックな生涯であったことでしょうか。

 

 「養華院供養塔」の隣には、信長の側室で七男信高、八男信吉を生んだ興雲院、通称お鍋の方の墓石があります。自然石をそのまま墓石となしているため、これは供養所ではなくて実際に埋葬されているものとみられます。興雲院は京都で晩年を過ごし、慶長十七年(1612)に没しています。おそらく大徳寺総見院とも織田家墓所への関わりにおいて縁があったのでしょう。そして側室であった自身に相応しい墓として自然石を選んだのかもしれません。

 

 以上、信長の正室養華院、側室興雲院の墓石でした。ともに慶長十七年(1612)まで生存していたのであれば、何らかの交流があったかもしれず、織田家墓所への埋葬もその延長上にあったかもしれません。

 信長の側室は十人ほど知られていますが、序列では生駒氏、坂氏についで三番目であった興雲院だけが正室と共に菩提寺総見院に葬られている点は、没年が同じである事とあわせて、なんらかの関連事情があったことを思わせます。U氏も「たぶんこの二人がともに京都で晩年を過ごしたのと違うかな」と話していました。

 

 織田家墓所から本堂へとまわる途中で、上図の案内板を見ました。

 

 これが秀吉が植えたという侘助椿ですか・・・。すると樹齢は430年ちょっとであるわけですが、そんなに古い木であるようには思えませんでした。

 

 こちらの井戸は、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰った石を彫り抜いて井筒にしたという伝承があります。一個の大きな石を彫り抜くのは相当な技術が必要です。いわゆる一石井筒ですが、日本では鎌倉期からの遺品が知られます。こちらの彫り抜きには高度な技術が示されているので、加藤清正云々というより、朝鮮渡来の新たな石工技法が伝わった一つの事例とみるのが妥当でしょうか。

 

 その後、本堂にて本尊の織田信長坐像を拝しました。秀吉が天正十年に「大徳寺の葬儀」を執り行った際に、香木の「沈香」で信長の像を二体作らせて、葬儀の際に一体を棺に納めて信長の代わりに火葬しています。残る一体が現存する坐像にあたります。立体的彫像なので、生前の信長の面影を肖像画類よりもリアルにとどめているものと思われます。信長とは、こういう相貌であったのか、と興味深く拝見しました。

 なお本堂内外は撮影禁止であるため、本堂からの景色を撮るにとどめました。上図は本堂南縁より土塀外の鐘楼をみたものです。

 

 その鐘楼の下まで行きました。

 

 この鐘楼も、天正十一年(1583)の総見院建立時からの遺構です。信長の家臣の堀秀政が寄進したもので、楼内に懸けられる梵鐘も同時期の遺品です。ともに国重要文化財に指定されています。

 U氏が「明治の廃仏毀釈で荒廃して廃絶したというわりには、門とか鐘楼とか、よく残ったねえ」と感心していました。おそらくは大徳寺境内にあるから管理が続けられて残されたのだろうな、と考えました。これがもし街中にあれば、廃絶の際に建物も取り壊されて宅地に転じていただろう、と思います。  (続く)

 

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プラウダ高校 T34/76(三輌目) 作ります!! その3

2022年10月07日 | ガルパン模型制作記

 ステップ6からは車体の組み立てになります。作業内容が次のステップ7とセットになっているため、ステップ7の一部のパーツも一緒に組み付けて作業の効率化を図ります。さらにガルパン仕様への改造工作を三つ追加します。
 また、予備履帯の16Bおよび17B、鋸の14Aは劇中車にありませんので不要です。

 

 上図のように上部車体パーツC1は背面部が別パーツになっていて、それをステップ7で組み付ける形になっていますが、ここでまとめて組み立てて、車体の基本輪郭を完成させておくことにしました。そこで、ステップ7で取り付ける2C、5A、20Bの3点のパーツを上図のように準備して組み立てました。

 

 ガルパン仕様への改造工作の一つ目は、上図の左右フェンダー前部のリブを削り取ることです。劇中車にこのリブはありません。

 

 左右フェンダー前部のリブを削り取りました。

 

 組み立て中の背面部です。パーツにやや歪みがあったため、瞬間接着剤で強引にくっつけて固まるまでテープで留めておきました。

 

 ガルパン仕様への改造工作の二つ目は、上図の右フェンダー上の懸け金具を全て削り取ることです。劇中車にこの懸け金具はありません。

 

 懸け金具を全て削り取った後、流し込み接着剤を塗り延ばして削り跡の無数の細かいキズを溶かして均しました。

 

 ここで下部車体のパーツA1を貼り合わせました。これも僅かに反りがみられたため、前後をテープで留めて瞬間接着剤でくっつけました。

 

 とくに背面部は隙間だらけになるので、テープを貼りまくって強引にくっつけるしかありませんでした。

 

 ステップ6でつけるパーツ群です。3Cのパーツは失われていたため、手持ちのジャンクパーツからドラゴンの同じパーツを調達しました。上図の白いパーツがそれです。

 

 全て組み付けました。砲塔も仮組みして全体の仕上がり状況をチェックしました。操縦手ハッチ上のバイザーの右のパーツ9Aを誤って折ってしまったので、手持ちのジャンクパーツからドラゴンの同じパーツを調達しました。上図の白いパーツがそれです。現時点で手持ちのジャンクパーツにはT34系列のパーツが3輌分ぐらいありますので、パーツの紛失や破損があっても補填がききます。

 

  ガルパン仕様への改造工作の三つ目は、劇中車にならって車体前端の左右に履帯張調整器を追加することでした。上図の車体前端の左右に白く見える小さなプラ板のパーツがそれです。

 

 手摺のパーツ24Dと雑具箱のパーツ10Aです。

 

 取り付けました。ついでにステップ7で付けるエンジンフード上のハンドル18Dもいったん付けましたが、劇中車のより長いので、劇中車のハンドルと長さがほぼ同じであるタミヤのパーツに換えて取り付けました。  (続く)

 

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紫野大徳寺13 総見院表門と織田家墓所

2022年10月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺塔頭の総見院に着いて、まずは上図の唐門形式の表門を見上げました。天正十一年(1583)に羽柴秀吉によって創建された総見院の、創建当初から残る建築です。

 

 この表門は、織豊期の門建築としては大型に属します。門扉の設えも丁寧になされて、織田政権の覇権争いに勝った秀吉が掌握した権力と財力のさまを端的に示します。江戸期以降の繊細な造りの門とは異なって細部にも実用的機能に即した豪壮な気分が満ち溢れ、戦国期の建築の質実剛健さの実態がしのばれます。

 

 屋根の木組みや疎垂木の造りにもまったく無駄がありません。室町期までの優雅な趣や繊細な美的感覚は全てそぎ落とされ、戦国乱世の世相が表裏を問わず反映されて、装飾的要素も最低限に抑えられています。
 この武骨ともいえる造りが、U氏は気に入ったようで、「こういうのが戦国なんだな、建材にしても必要最低限だろうのに、ちゃんと機能的な建物を建てて、それでいて手抜きでは無くてきちんと堅牢に造ってある。まさに戦国だな」と言いました。

 

 確かに、この門が建てられた天正十一年(1583)、羽柴秀吉は織田信長の継承者の位置についたばかりで、畿内にすら数々の敵対勢力をかかえ、特に徳川家康の存在が懸念材料の最たるものとして世間をも騒がせていたのでした。織田信長がようやく築きつつあった天下泰平への機運は本能寺の炎のうえに一時の停滞を余儀なくされ、各地の戦国大名勢力の蠢動が再び始まるかに思われた時期でした。

 

 だから、羽柴秀吉が、織田信長の自害の100日後の天正十年(1582)10月10日に大徳寺において「大徳寺の葬儀」を盛大に行ったのも、諸勢力への牽制の意味があった筈です。室町幕府全盛期の足利将軍の七仏事の作法にならって、仏事を七日間にわたって執り行ったのも、室町幕府より政権を継いだ信長とその継承者たる秀吉の位置を正当化し権威づける狙いがあったことと推されます。

 

 その「大徳寺の葬儀」の翌年、信長の一周忌に合わせて追善菩提のため大徳寺117世の古渓宗陳を開山として建立したのが総見院です。その時の表門および土塀、通用口が明治期の廃仏毀釈による総見院の廃絶をも乗り越えて、大正期の再興まで維持され今に伝わっているのは、奇跡的です。明治の廃絶後に大徳寺の修禅専門道場及び管長の住居として転用されたことが大きかったようです。

 

 表門の左右の土塀も、天正十一年(1583)創建以来の遺構です。塀の内側にもう一つ塀が設けられる、いわゆる「親子塀」の形式ですが、これは対鉄砲弾の防御性に優れた実用的な土塀の一種であるので、戦国期に各地の城塞などで築かれた土塀の技法が反映されているものと見るべきでしょうか。

 

 表門から、まっすぐ境内地の左奥に進んで、墓地の北に位置する織田家墓所に行きました。この日のU氏の一番の目当てがここでした。私もここへは初めて参りましたので、お互いの感動や感慨は似たような内容であったと思います。

 

 織田家墓所の案内板です。誰の供養塔であるかが、これによって分かります。上図の案内板には九人分が書かれていますが、信長の長女の徳姫、九男の信貞、信貞長男の高重の供養塔も同じ墓所にありますので、全部で十二人の墓塔が存在します。ただ、徳姫以下三人の墓塔は脇のほうにあるので、案内板の範囲には含まれていないわけです。

 

 織田信長の供養塔。戒名は総見院殿贈大相国一品泰巌大居士。
 U氏は「・・・どいろくてんの、まうを・・・」と信長本人が武田信玄にあてた書状の自著名で低く呟きました。現代表記でいう「第六天魔王」のことでした。  (続く)

 

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プラウダ高校 T34/76(三輌目) 作ります!! その2

2022年10月05日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では、右側の車輪を組み付けます。次のステップ3で左側の車輪を組み付けますので、ここは左右同時に車輪を組み立てることにしました。

 

 車輪のパーツ類です。今回のキットを譲って下さったフォロワーさんは、このT34/76に関して車輪類をガルパン仕様に作る積りで必要なパーツも集めていたようで、上図のようにタミヤの同型車のキットのゴムタイヤ付き二段ディスクタイプの車輪パーツが同封されていました。これによってプラウダ高校チームの劇中車をそのまま再現製作出来る状態になっていました。有り難いことでした。

 

 組み立てて、左側から組み付けてゆきました。タミヤの車輪パーツは軸穴が小さいので、削り拡げて調整してから取り付けました。

 

 ステップ3は、前述の通りステップ2とまとめて行ないました。

 

 車輪類の組み付けが完了しました。ソ連のT34系列は足回りの組み立てが楽なので、アメリカやドイツやイタリアや日本の戦車に比べると時間もストレスもかかりません。そのためか、私が大洗で会って交流を続けているガルパン模型仲間の多くがT34系列を複数作って楽しんでいるようです。多いのになると10輌以上揃えてテレビシリーズ版と劇場版との二つのカラーで並べている方が居られます。

 

 ステップ4ではベルト式履帯を取り付けますが、私の製作では塗装後に組み付けます。パーツの15bは劇中車にありませんので不要です。

 

 したがって、ここで取り付けるパーツは11bのみでした。

 

 組み付けました。同時に車体底面後端の隙間もプラ板で埋めました。

 

 ステップ5からは砲塔の組み立てになります。砲身から組み立ててゆき、それを砲塔にセットします。パーツ11Dは劇中車にありませんので不要です。また3個のパーツ16Dのうちの後方の2個は位置が異なるので劇中車にあわせて前にずらします。砲塔においては下端左右の角を落として段差を無くし、周縁部のエッジも落としてやや丸みを持たせます。

 

 砲身部分はガイドの指示通りに組み立てました。

 

 砲塔の組み立て途中の姿です。

 

 組み上がりました。上画像では陰になっていて目立ちませんが、下端左右の角をヤスリがけで落として段差を無くし、周縁部のエッジも落として丸くしました。天板上の3個のパーツ16Dのうちの後方の2個は前に移して向きも劇中車に合わせました。  (続く)

 

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紫野大徳寺12 総見院へ

2022年10月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京都御苑の拾翠亭を辞して、地下鉄の丸太町駅から北大路駅に行き、北大路駅に隣接するバスターミナルから市バス206系統に乗って大徳寺前で降りました。それからU氏を先頭に大徳寺境内地の南側へ歩き、上図の中門への参道に至りました。昨年の11月20日に二人で特別公開塔頭巡りをした時と同じルートでした。

 

 この日の大徳寺境内は人影もなく静まり返っていました。特別公開は伽藍域の北の総見院のみでしたから、南側の塔頭群のエリアには見学客が回ってこないようでした。
 U氏が上機嫌で「春爛漫 龍も静まる 大徳寺」と呟いたので、「それは俳句なのかね」と聞くと、「ただの呟きだよ」と苦笑していました。

 

 前回の訪問時に見学した塔頭のひとつ、黄梅院の門前にさしかかりました。天正十六年(1588)に小早川隆景が改修したとされる、国重要文化財の表門をちょいと見上げたU氏が「ちょっとのぞいていこう」と言いました。

 

 で、表門から中をのぞいてみました。御覧の通り、昨年11月に見た見事な紅葉の範囲は長い冬を抜けて木々の若葉もまだ付き初めの頃でした。紅葉の時期には隠れて見えなかったところが殆ど見渡せて、なにか新鮮な感じがしました。

 

 表門から拝観受付に至る土塀の通用口までの範囲は見学自由でしたので、そのまま中に進んで西側に並ぶ国重要文化財の建築群を眺めました。上図の石畳道の奥には本堂(方丈)の玄関の唐門が見えました。

 

 唐門の右には、表門や鐘楼、客殿と同じく天正十七年(1589)に小早川隆景によって改築された建物である庫裏が見えました。昨年11月の拝観時には庫裏の内部も見ましたので、U氏もその記憶にひたっていたようで、しばらくじっと眺めた後にカメラを出して写真を撮っていました。

 

 黄梅院を出て後は、広い境内地の中心伽藍の西を通り、上図の山門「金毛閣」を眺めたりしました。ですが、樹木がかなり茂っているので建物の全容がなかなか見えませんでした。

 

 中心伽藍の北西に位置する総見院の門前に着きました。特別公開の案内板がありました。「おお、織田信長・・」とU氏が感動のつぶやきをもらしました。天正十一年(1583)に羽柴秀吉が建立した織田信長の菩提寺で、寺号も信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」に因みます。

 

 総見院の表門である唐門です。その右手前に「信長公廟所」の標柱が立ちますが、U氏はそれを見て「織田信長・・」と再びつぶやきました。彼のなかでは、興味ある歴史人物ベスト5の5位であるそうですので、感慨深いものがあったのでしょう。  (続く)

 

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プラウダ高校 T34/76(三輌目) 作ります!! その1

2022年10月03日 | ガルパン模型制作記

 私のガルパン車輌の第127作目は、上図のイタレリのT34/76となりました。フォロワーさんに譲渡していただいた数個のキットのひとつで、プラウダ高校チームのT34/76の三輌目として作ることにしました。一輌目はタミヤ、二輌目はAFVクラブのキットで製作していますので、メーカー毎の作り比べと検証を楽しんでみようと思い立ったものです。

 

 ガイドの説明文は英語以下9ヶ言語で書かれています。アジア圏の言語は日本語も中国語も見当たりませんので、もともとは欧米での販売を念頭に出されたキットであったもののようです。

 

 中身はこんな感じでした。既に開封されていましたが、未製作のまま譲渡に至ったということでした。ですが、パーツの1、2個が欠けていました。手元のジャンクパーツを探すと、欠けたものと同じパーツが見つかりましたので、事なきを得ました。

 

 車体パーツの裏面に刻字がありました。あれ、ロシア製・・・。するとイタレリの製品によくみられるズベズダ製品からのOEMですか・・・。

 

 思った通り、ズベズダのキットでした。つまりはズベズダのT34/76であるわけですが、それも初めて経験するキットでしたので、まあいいか、と割り切りました。

 

 パーツを点検したところ、車体パーツの一部が折れて外れていました。これは接着すれば元に戻りますから問題ありませんでした。

 

 ステップ1では、下部車体を組み立てます。海外メーカー品にはよくある箱組みスタイルです。

 

 ランナーから切り出して準備しました。古い製品であるためか、ランナーに付いている時点で経年による反りや歪みが生じていました。切り出した後にお湯に沈めて反りを直したりしましたが、完全には戻りませんでした。

 

 反りや歪みが完全には無くならないので、組み立てにおいてマスキングテープであちこちを留めて接着固定しました。

 

 車体の前部も反っていたため、テープで強引に押さえつけて接着しました。

 

 車体後端においては、上図のように0.5ミリほどの隙間が生じました。これは後でプラ板を差し込んで埋めることにしました。  (続く)

 

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拾翠亭の東屋にて

2022年10月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 拾翠亭の北にある東屋の「四阿」へ行きました。この種の小建築が好きなU氏が「あれに絶対入ろう」と三度ぐらい話していたからです。庭園の休憩所にあたる施設ですが、実際に見学者も休憩利用出来ます。

 

 「四阿」の内部はこんな感じです。三方に壁を作り、二方に座板を張ってあります。座板のある壁には引き違いの障子窓があり、座した時の視線の高さに設けられています。

 

 「四阿」の西側のみ壁が無くて出入口になっており、その軒先からは南に拾翠亭が見えます。

 

 「四阿」の南壁には丸い明り取り窓が設けられて石垣貼りの障子紙が貼られています。この窓は固定式で開いたりしませんので、少なくとも拾翠亭からは「四阿」の内部は見えません。邸内で話したくないような密談をするための空間だろう、とU氏が言いましたが、そうかもしれません。

 

 U氏がとにかく気に入って「ここなら幕府打倒の密謀も心置きなく披露出来るだろうな」と言い、「悪代官に正義の鉄槌を下す水戸御老公の破邪の裁断もここなら密かに下せるな」と言うので、どっちなんだ、と問い返すと、「決まってるだろう、水戸藩28万4千石の心意気にかけて、尊皇攘夷の道を切り拓くのみだ」と、U氏ならばでの妄想にひたっているのでした。

 

「さて右京大夫殿、座を立って次に参るとするかの」
「待たれよ」
「何かな」
「暫し茶を一服したい」
「おおそれは、それがしも一服とゆこう」
 そうしてペットボトルのお茶を飲む二人でした。

 

 庭園の散策路をぐるりと一巡して、拾翠亭の南側に回りました。

 

 九條池の南西隅の石橋も散策路に含まれるので、渡りました。U氏が「こういう庭園の石橋って、普通は安全対策のために立ち入り禁止にするところが多いけど、ここでは渡れるのな」と感動していました。
 ですが、散策路のロープが一時的に外されていた形跡がありました。おそらく、私たちが訪れた時期はシーズンオフであったからかもしれません。観光シーズンの見学者が多い時期には、たぶん石橋も立ち入り禁止になって渡れないだろう、と思います。

 

 九條池を眺めました。向かいの右手に厳島神社の鳥居が見えました。U氏が「珍しい形の鳥居があるってブログで書いてた神社はあれかね」と指さして聞いたので、左様、と重々しく答えておきました。ここは管領細川右京大夫殿になりきっておいたほうが、楽しく過ごせます。

 

 U氏はここが大変気に入ったようで「この建物ウチにも欲しいなあ」と二度言いました。私も金と土地があれば、こういう粋な別邸を建てて住んでみたいものだ、と思います。

 

 かくして拾翠亭には、予定の30分を大幅に超えて一時間半ほど滞在していました。水戸からはるばるやってきたU氏のペースに合わせましたので、彼が心行くまで観て楽しんでいるのであれば、それで充分でした。  (続く)

 

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