気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

妙心寺桂春院秋景色

2022年07月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 妙心寺桂春院の本堂方丈の南庭は「真如の庭(しんにょのにわ)」と呼ばれます。境内にある四つの庭園のうちで唯一、庭園内を散策出来ます。拝観順路のラストがこの「真如の庭」ですが、上図のように方丈南縁からは刈込みと生け垣の間に生まれた苔庭が見渡せます。

 

 唐門の玄関廊より下に降りる際にも、「真如の庭」を横から見ることが出来ます。本堂方丈との段差をなだらかな刈り込みで覆って、苔庭へのを繋がりを演出していることがわかります。

 

 同地点から本堂方丈を見上げた図です。「真如の庭」との高低差がかなりあることが分かります。もともと境内地が妙心寺域の北東の隅にあたって台地べりのような地形であり、東には川が流れています。一帯が傾斜地であり、その一番高い位置に本堂以下の建築群が置かれ、低地には庭園や墓地がおかれているわけです。

 

 散策の園路は生け垣の南側にあり、ずっと東まで行くと地蔵石像の前に至ります。そこまてで引き返して本堂へ戻る、という順路です。

 

 園路を一巡して玄関廊の下段に戻ってきました。再び「真如の庭」を西から見て、左手に本堂を見上げました。

 

 玄関廊の袖口の壁にも連子付きの花頭窓が配されて、傍らの手水石とともに静寂と寂薄の情感を半々に醸し出していました。その雰囲気が気に入ったのか、この範囲をアングルを変えつつ何度も撮影していたU氏でした。

 

 大徳寺の豊かな紅葉も良かったけれど、こちら妙心寺の桂春院の点々の紅葉の落ち着いた雰囲気も良かったです。秋景色を讃えるなら、個人的にはこちらの方がいいと思います。

 

 庫裏まで戻って退出する際に、なんとなく見上げた庫裏内部の高い天井。密閉されているように見えますが、右側に煙出しがあります。現在では庫裏の台所で煮炊きをしませんから、屋根の煙出しの扉も閉じられています。

 

 表門を出てから、横に上図の境内俯瞰図があるのに気付きました。U氏が「非公開のところは茶室と東の墓地、ってわけだな」と確認していました。

 

 なかなか良い禅寺塔頭だったな、ああ面白かったな、と言い合いつつ、バス停に戻りました。西に妙心寺北門の建物が望まれました。
 バスを待ちながら時計を見てしばらく思案していたU氏でしたが、思いついたように「これから京都駅へ行って新幹線で帰るわ」と言いました。今回の巡礼に満足したので、まだ時間があるけれど帰宅しよう、と決めたようです。

 それでバスで京都駅まで行って、八条口側の「パスタモーレ」で休憩を兼ねて軽食を楽しみ、新幹線のホームまでU氏を見送りに行きました。

「おい星野、来月(2021年12月)ぐらいには大洗へ行くんだろ?」
「そうなるかな、と思う。水戸城の復元櫓も見物したいしな」
「時間が合えば同道致そう」
「承知」
「で、こっちは次は春4月に行くからな」
「ああ、大徳寺の春の特別拝観やな・・・」
「それと、徳川家ゆかりの知恩院にも行きたいのだがな」
「そうか、なら両方回ろうかね、水戸中納言どの」
「それで決まりだ。宜しく頼む」
「承知した」

 握手を交わした後にU氏が乗り込んだのは、17時16分発の東京行きのぞみ号でした。  (了)

 

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妙心寺桂春院の方丈と唐門

2022年07月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 妙心寺塔頭の桂春院の続きです。書院および庭園の「侘の庭」を鑑賞したのち、上図の花頭窓のある通廊を経て本堂の方丈に向かいました。

 

 京都府指定有形文化財の方丈の東縁に進みました。江戸期の寛永八年(1631)に建立された単層入母屋造、桟瓦葺の建物です。東側は南側と同じく庭園に面して廊下の周囲に外縁が巡らされ、庭園の鑑賞空間ともなっています。

 

 方丈の東縁から北を見ると、先ほど鑑賞してきた書院庭園「侘の庭」の門にあたる「梅軒門」が見えました。その南から下ってゆく道の先の飛び石の範囲が、「思惟の庭」にあたります。地形的には窪地のような、低い所に「思惟の庭」があるようで、方丈東縁からは見るというより見下ろす形になります。逆に言うと、方丈が高台の上に建てられているわけです。

 

 方丈の南側つまり正面に進みました。

 

 正面戸口上に掛けられた寺号額です。江戸期に清より渡来した黄檗宗の中国人僧、独立性易(どくりゅう しょうえき)の筆になります。独立性易、は日本にて黄檗宗の祖である隠元隆琦(いんげん りゅうき)を師として得度した後の僧名で、それ以前は戴観胤または戴笠と名乗って医術を生業とした方です。もとは杭州の人、明朝に仕えた文官で優れた文化人であったようですが、清朝の圧政を逃れて日本に亡命し、長崎を本拠として活動しました。中国から篆刻を日本へ伝えたことでも知られますが、桂春院との関わりについては殆ど不明であるそうです。

 

 方丈内部の襖絵です。U氏はこれを見た途端に「おー、狩野派だねー」と言いました。流石です。芸大で共に学んでいた頃に氏が美術史学概論のレポートで綴っていたのが狩野派の絵画様式に関するテーマだったと記憶しています。

 

 御覧のとおり、狩野派の狩野山雪の筆になるもので、画題は「金碧松三日月」です。そのまんまです。

 

 襖絵をしばし眺めた後、南縁を西側へ移動しました。

 

 方丈の西側に連接する玄関廊まで行きました。御覧のとおり両側に唐破風を配した贅沢な構えの建物です。十数年前の拝観時にはこちらが受付になっていて、ここから方丈にあがったと記憶していますが、今回は庭園への通路として使用されていました。ここで下駄を履いて下の庭園へ降りて園路を歩くことになります。

 

 庭園に降りる前にいったん玄関口正面へ出て、外側の唐門の姿を見ました。U氏が「ここの唐門も綺麗だな。大徳寺塔頭群の唐門に決して劣らないな」と率直な感想を述べましたが、私も同感でした。

 

 江戸期の幕府政治が安定期に入った頃の建築で、経済や文化が発展期および円熟期に向かう直前の質素な寺社建築の様相をよく示しています。細部の装飾意匠はまだ控えめで造りも小さいですが、切り放ちの処理や削り仕上げの状態が非常に丁寧になされています。破風の刳り線もさりげなく優美に拵えてあり、練達の職人の手になったことをうかがわせます。長きにわたる戦国乱世が終息して平和な時代になったからこその、地味でありながら美しい気品を漂わせる造りです。  (続く)

 

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妙心寺桂春院へ

2022年07月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2021年11月20日、水戸の友人U氏に誘われての大徳寺塔頭特別公開見学の後、まだ時間があったのでどこか一ヶ所、他の禅寺の塔頭へ行きたいとのU氏の希望により、妙心寺桂春院へ向かいました。
 一般的には妙心寺へは南側の花園界隈から南総門を経て入りますが、桂春院は広い境内地の北東側に位置するため、北門から入ったほうが近いと判断しました。それで大徳寺前から市バス204系統に乗って北野白梅町まで行き、26系統に乗り換えて上図の妙心寺北門前のバス停で下車しました。

 

 バス停からは北門の反対側、つまり東側の路地へ入り、歩いて5分ほどで、上図の妙心寺桂春院の表門前に着きました。妙心寺の塔頭は山内、境外あわせて40数ヶ所が数えられますが、常時公開しているのは退蔵院、大心院とここ桂春院の3ヶ所だけです。特別公開の機会も大徳寺に比べると少ないので、妙心寺の塔頭というと非公開のイメージが強いです。

 そのためか、U氏は妙心寺へは初めての訪問でした。私も妙心寺へはまだ二度ぐらいしか寄っていませんので、中心伽藍はまだ全然見る機会を得ないままです。過去に訪れたのは、ここ桂春院と、養源院の特別公開だけです。

 

 門脇の案内板です。ここへは初参拝のU氏が早速読み始めましたが、「風化退色がかなりあるんで、ちょっと読みづらいな」とぼやいていました。それでも真剣に二度読みするところは流石でした。京都の芸大で共に学んでいた頃から、資料や説明文を二度または三度読みしてきちんと理解しようとするスタンスは変わっていません。

 

 京都市指定文化財の江戸期の表門をくぐって中に入りました。石畳の道が左右に分かれ、右手をみると上図のように方丈の玄関にあたる唐門と庭園の仕切り塀が見えました。今回は足止めの立札がありましたので、参拝路は左手の庫裏から入る形でした。

 

 左手に進むと京都市指定文化財の庫裏がありました。表門と同じ江戸期の建築を近年に修繕しています。今回の拝観受付はこの庫裏の玄関にあり、そこから庫裏内部を経て書院、方丈へと移動しました。それ以降は、初訪問のU氏に楽しんでもらおうと、常に彼を先にして、その後についていきました。

 

 庫裏から書院への廊下を進むと、右手に上図の「清浄の庭」と名付けられる庭園が見えてきました。それを跨ぐ通廊の壁に花頭窓(かとうまど)が設けられ、それが独特の雰囲気を石庭のうえに添えていました。「清浄の庭」の石庭のメインは白砂の清流で、それを花頭窓からも眺められるような構造の中庭となっています。

 

 U氏が「さっき見てきた大徳寺の大仙院のアレみたいだな」と気に入った様子でしばらく眺めていました。大徳寺大仙院にも通廊の壁に花頭窓(かとうまど)が設けられた有名な中庭があり、そちらは国宝になっています。室町期から著名な庭園として知られた大仙院の構えを、各地の禅寺にて模倣した動きがあったとされていますが、江戸期成立の桂春院においても同様であったのでしょう。

 U氏は「でもこっちのほうがいい感じだな。大仙院のは庭園の添え物みたいな壁と花頭窓だったけど、こっちのは方丈への通廊の壁に花頭窓がついてて、普通に移動しながら庭園を見るスタイルだから、それなりに実用的にしっかり設えてあるといった感じだな」と感心していました。

 上図の順路の廊下をまっすぐ奥へ進むと書院へ、右へ曲がって花頭窓の通廊をわたると本堂の方丈へと行きますが、U氏はまず奥の書院へと進みました。

 

 書院に入りました。桂春院を中興整備した戦国武将の石河貞政(いしこさだまさ)が寛永九年(1632)に父光政の50回忌の追善供養のために、弟で禅僧であった桂南守仙(けいなんしゅせん)を中興開山に請じて建物を寄進整備した際の建物です。その主室空間が公開されていて、上図のように奥に床の間がありました。

 

 書院主室の前縁より、歩いてきた庫裏からの廊下を見ました。左端に花頭窓付きの通廊への取り付きが見えます。この書院建築は、石河貞政が寛永八年(1631)に城主を務めていた長浜城から移築したもので、江戸期の城郭書院の遺構としても貴重です。共に移築された茶室は「既白庵(きはくあん)」と称し、茶道の庸軒流(ようけんりゅう)の構えの茶室とされますが、非公開です。書院の裏手に建つので、書院の見学路からは全く見えません。

 

 書院の庭は「侘の庭」と呼ばれます。桂春院にある、国指定名勝の四つの庭園のひとつで、地面は蒼苔で覆われて典型的な苔庭の様相を示しています。その外側に上図の簡素な露地門があって「梅軒門」と呼ばれます。それをくぐると「思惟の庭」へと行けますが、拝観順路ではないので、「梅軒門」も書院の廻縁より庭園の一部として鑑賞するのみになっています。その奥の「思惟の庭」も、今回は拝観順路外となって遠望するのみでした。  (続く)

 

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青師団高校 ベルデハⅡ軽戦車 作ります !!  その1

2022年07月13日 | ガルパン模型制作記

 2022年夏の時点で、いまだに1/35スケールの適応キットが国内外に存在しないガルパン車輌は幾つかあります。上掲の最終章第2話のワンシーンに登場した青師団高校チームのベルデハⅡ軽戦車もその一例とされます。スペインが開発した戦車の一種で、同車輌の前身にあたるベルデハⅠの1/35スケールのガレージキットはスペインのメーカーのFC MODELさんから出ていますが、ベルデハⅡのほうは出ていません。

 

 上掲のワンシーンの車輌の部分を拡大してみました。右奥にⅠ号戦車B型、左奥と左前にⅡ号戦車F型、右手前にCV35、そして左の中ほどにベルデハⅡが見えます。既に撃破されて擱座している姿で描かれます。
 このうち、Ⅱ号戦車F型とCV35はプラッツより公式キットが発売されています。Ⅰ号戦車B型は公式キットはまだ出ていませんが、イタレリやタコムなどから適応キットが出ています。

 

 なので、上図のベルデハⅡのみが、キットが存在しないことになります。母国スペインのメーカーのFC MODELさんですら、ガレージキットでも出していません。
 その主な理由としては、史実のベルデハⅡは1輌が試作されたのみで、第二次大戦中の1944年に完成したものの、それ以降は進展がなくて実戦投入もなされずに終わってしまった経緯が挙げられます。

 

 1944年頃に撮影されたベルデハⅡ試作車輌の写真です。ベルデハⅠとよく似た外観で、主体背面および前面が丸いのが特徴です。車体下部の状態や足回りはほぼ同じですが、砲塔の位置や車体上部の形状が異なります。

 

 1944年に試作された1輌のベルデハⅡは、上図のようにスペインはトレド、アルカサルの陸軍歩兵学校に保管されて現存しています。多少の補修がありますが、ほぼ1944年完成当時の状態を保っているそうです。ガルパンの青師団高校の車輌はこれと外観が違わないため、この唯一の現存車輌をモデルにしていることが伺えます。

 このベルデハⅡには、かなり以前から個人的になんとなく惹かれるものがあり、出来たら1/35スケールでの再現製作を試みたいなと考えていました。車体下部の状態や足回りがベルデハⅠとほぼ同じですから、FC MODELさんのベルデハⅠの1/35スケールのガレージキットを購入して改造するという手はどうか、と思いついて検討したこともありました。その商品紹介ページはこちら
 しかし、最近の円安進行により、キット価格はドル換算で約9300円に相当し、これに相当額の諸手数料や配送料などが加算されて総額は20000円を超えるため、FC MODELさんの品の購入は見送りました。

 そうなると、あとは自作するしかありませんが、ベルデハⅡの場合は車体形状が割合にシンプルで、砲塔もⅠ号戦車のそれに似ているため、プラ板の組み合わせでもいけるんじゃないか、との感触がもともとありました。既に適応キットが国内外に存在しないガルパン車輌のうち、ビゲン高校のStrv m40L軽戦車、聖グロリアーナ女学院のハリー・ホプキンス軽戦車を作ってきていますが、それらよりは楽そうなベルデハⅡの形状であったからです。

 

 そこで、まずは基本情報を集めることからとりかかりました。スペインの軍事博物館の代表格であるとされるエルゴロソ陸軍装甲車両博物館に英文で問い合わせメールを送り、設計図面に関して問い合わせましたが、3日後の返信にて丁重に断られました。代わりに現存実車の概要資料と実測数値資料、画像8枚などをいただきました。それによって、実車が試作された1輌のみで、いまもアルカサル陸軍歩兵学校に現存することを教えられたのでした。

 図面は断られましたが、実測値データと実車画像があれば、1/35スケールの図面は立ち上げることが可能です。上図のようにノートに数値と図面をまとめ、プラ板等でどうやって構築し再現するかの原案を作りました。この準備作業に約一週間を要しました。

 

 ところが、1/35スケールでの図面の描き起こし段階で問題点に突き当たりました。スペインからの実測値データと、ガルパン公式資料での数値が合わないのでした。例えばベルデハⅡの全長ですが、実測値は4.498メートルとなっています。ガルパン公式資料つまり最終章公式サイトのメカニックページでは、5.12メートルと記されます。63センチの差があるわけで、1/35スケールに直すと約1.8センチの差になります。
 試しに双方の数値でそれぞれ1/35スケール図面を描いてみました。それが上図の上下の側面図で、上が全長4.49メートルでの描図、下が5.12メートルでの描図ですが、同縮尺の図面でかなりの差があることが分かりました。約1.8センチの差は、1/35スケールサイズにおいては相当の差であるのだ、と理解出来ました。おまけに全高や全幅の数値も異なりますから、図面に落としこむと全然違って見えます。

 さらに問題だったのは、最終章第2話のワンシーンにてベルデハⅡとⅡ号戦車F型とがあまり違わない大きさに見える点でした。見方によっては遠近の関係によってⅡ号戦車F型のほうが大きいように思われたりします。そのⅡ号戦車F型の全長が4.81メートルですから、それと同程度かやや小さく見えるベルデハⅡが5.12メートルというのには違和感を禁じ得ません。ガルパン公式資料には時々誤りがみられるのが常識になっている点を考え合わせれば、スペインからの実測値データの4.498メートルのほうが信頼に足る数字として受け止められます。

 

 そこで、スペインからの実測値データに基づく全長4.498メートル、全高1.572メートル(最終章公式サイトのメカニックページでの全高は1.74メートル)にて描き起こした上図の図面で製作してみることにして、この図面を原図として三面図を作成し、プラ板へのトレース図もあわせて準備しました。上図の全長が12.8とあるのは、全長4.49メートルつまり449センチの1/35が12.8センチであることを示します。

 この図面が、アニメの劇中車の外観ともほぼ合っているように思いました。最終章公式サイトのメカニックページでの数値に合わせると全長も長過ぎるし、全高も高過ぎて色々と違和感を覚えるのでした。
 なお上図は、上部転輪を4つ描いていますが、これは間違いでした。原図から三面図に描き直す際に現存実車に合わせて3つに修正しました。

 

 トレース図からプラ板に車体側面部分を写したときの状態です。この作業の前に紙に試験的にトレースしてチェックしましたが、特に問題が認められなかったので、プラ板への本番作業となりました。

 

 カットした状態です。横に引かれた二重線は、フェンダーの位置を示します。このプラ板カットパーツを二枚作って左右の側面板としました。

 

 三面図からトレースしてカットした、車体各部のパーツを全て揃えて準備しました。これでベルデハⅡの車体がほぼ構築出来ます。

 

 仮組みしてみました。左右のフェンダーのパーツはまだ付けていませんが、車体の輪郭の雰囲気はだいたい現存実車に似ています。現存車輌の画像があると色々と細部の様子が分かり、全体の輪郭も明瞭に抑えられますので、スペインから送っていただいた画像8枚というのは本当に重要で最高の資料でした。

 

 フェンダーの片方、左側のみを試しに仮組みした状態です。この時点で、だいたいベルデハⅡの形にはなったかな、と思いました。同時に、問題は砲塔だな、と感じました。Ⅰ号戦車の砲塔に似ていると前に書きましたが、似ているのは輪郭だけでサイズは異なります。前部のみ角張っていて、あとは丸くて低めの砲塔ですが、これをプラ板でどうやって作るか、武装、特に主砲はどうするのか、といった問題が次第に不安を伴って頭を占めつつあるのでした。  (続く)

 

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伯爵高校 35(t)戦車(9号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その1

2022年07月12日 | ガルパン模型制作記

 ガルパンコミック「樅の木と鉄の羽の魔女」に登場する伯爵高校チームの車輌は幾つかありますが、前回のⅢ号突撃砲G型に続いて、今度は9号車の35(t)戦車を作ってみることにしました。

 

 35(t)戦車は、チームにおいては10輌のうちの1輌となります。サンダース大付属高校チームとの試合においては待ち伏せの別働隊に属しているようで、作戦のフェイズ2より登場しています。

 

 各シーンに登場する作中車は、御覧のように車外装備品があまり見られません。ガイドの塗装マーキング図に示される3種類の事例のうちのA、すなわちポーランド戦線の1939年9月の第1軽師団の所属車にほぼ一致し、右側フェンダー後端にある予備履帯1枚が無いのが唯一の相違点になります。

 

 パッと見た限りでは同じチェコ製の38(t)戦車とよく似ていますが、上図のように砲塔キューボラの形状などが異なります。

 

 さらに38(t)戦車では砲塔左右側面に配される校章マークが、35(t)戦車では砲塔背面にも見られます。伯爵高校チームの車輌で砲塔背面に校章マークが付くのは35(t)戦車のみであり、おそらくはチーム内での識別用に付けられているものと推測されます。

 

 手元に長く積んであった、タミヤの製品です。中身はチェコのメーカーCMKの製品で、つまりはOEMキットであります。ちなみにCMKは、Czech Masters Kit(チェコマスターズキット)の略です。
 35(t)戦車のキットに関しては、以前にガルパンコミック「フェイズエリカ」に登場する黒森峰女学園チームの所属車をアカデミーの製品で製作したことがありますので、作業のおおよその流れや組み立ての段取りなどは、大体イメージ出来ていました。

 

 中身はこんな感じです。上図は全てCMKの製品です。

 

 これにタミヤが兵士フィギュアと車外装備品のパーツを追加して販売しているのが、今回のキットです。

 

 組み立てガイドと概説文です。

 

 ステップ1で車体を組み立てます。東欧系メーカーのキットでは一般的な箱組スタイルです。

 

 私が購入した個体には、パーツの各所に反りや歪みが散見されました。そのままでは組み立てられませんので、テープを用意しました。

 

 上図のように反りや歪みがある箇所にテープを張り付けて形を整え、少しずつ流し込み接着剤を入れて貼り付けてゆきました。

 

 接着剤が乾いて固着したら、次のパーツを仮組みしてチェックするのですが、反りのあるパーツが出てくると、再びテープを張り付けての接着作業を行ないました。このテープでの仮留め接着は、幸いなことにステップ1のみで終わりました。以後のステップで組んだパーツに反りや歪みが無かったからです。  (続く)

 

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九四式六輪自動貨車 完成です!!

2022年07月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ20で荷台を車体に組み付けます。ラストのステップ21で車輪を組み立てて取り付けます。全てガイドの指示通りに進めます。荷台は塗装後にセットしますので、車輪の組み立てを行ないます。

 

 ステップ21で組み立てる車輪のパーツです。上図左が前輪、右が後輪です。

 

 組み上がりました。

 

 車軸に取り付けました。

 

 日本では、六輪のトラックは今でも普通に多くが見られますが、戦前戦中でも本車のほかに「ちよだ」や「スミダ」の六輪自動貨車が走っていたそうです。「ちよだ」や「スミダ」の1/35スケールキットがあったら作ってみたいところです。

 

 塗装にとりかかりました。車体色はミスターカラー527番の陸軍カーキが指定されていますので、それで吹き付け塗装を行ないました。

 

 タイヤゴム部分はポスカの黒で塗りました。

 

 各部のパーツの塗り分けに進みました。運転席の天幕部分は45番のセールカラー、シャベルと鶴嘴の金属部分は28番の黒鉄色、木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。

 

 シートは42番のマガホニーで塗りました。

 

 シートを組み付けて運転台を組み立てました。計器類のデカールを貼り、ハンドルはポスカの黒で塗りました。

 

 天幕部分まで組み立てて運転台が仕上がりました。

 

 ワイパー、フロントガラス、ヘッドライトなどのパーツを組み付けました。ラジエター前の帝国陸軍五芒星は付けるかどうか迷いましたが、付けないことにしました。

 

 荷台下にシャベルと鶴嘴を組み付けました。

 

 荷台を取り付けました。

 

 車輪を取り付けて、塗装後の組み立てが完了しました。

 

 以上で、九四式六輪自動貨車が完成しました。製作日数は、2022年2月1日から2日までと3月8日の計3日でした。組み立てに2日、塗装および塗装後の組み立てに1日かかりました。

 今回はファインモールドのキットを使用しました。劇中車の場面は、上空からみた小さな姿のシーンが唯一であり、所属元は不明であるものの、キャンパストップタイプであること、予備タイヤを未装備であること、の2点が外見上の特徴として把握出来たのみで細部までは分かりませんでしたから、ほぼストレート組みで作りました。この種の軍用トラックのキットとしては作り易いので、初心者クラスでも気軽に楽しめるでしょう。

 

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苫小牧メイプル学園 Mk.Ⅵ軽戦車 完成です!!

2022年07月10日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業を行ないました。車体色は「リボンの武者」にカラーページが無くて不明ですので、実車のカラーであるダークグリーンにしました。ミスターカラーの17番のRLM71ダークグリーンを選んで吹き付け塗装しました。履帯は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 転輪のタイヤゴム部分をポスカの黒で塗りました。原則として転輪は回るように作りますので、ポスカのペン先をあてて固定したまま、転輪を回します。一回転させると大体塗れますし、うまくいけばその一回転でピッタリ塗り終わるので、筆塗りより大変に楽です。

 

 履帯をはめて爪楊枝やテープなどで仮留めしながら接着しました。

 

 履帯が組み上がりました。連結式履帯は苦手で何度やってもなかなか慣れませんが、毎回なんとかうまく仕上げています。不思議なことに、組み立て途中で失敗したり、履帯が外れたり壊れたりした経験がまだありません。おっかなびっくりで慎重に少しずつ組み立てて、丁寧に組んでいるせいでしょうか。

 

 排気管と車外装備品を塗りました。車外装備品は、ジャッキ、クランクロッド、消火器の3点だけです。砲塔のライトの内側を8番のシルバーで塗りました。ライトのレンズのパーツはウェーブのクリアパーツに交換して取り付けました。

 

 車外装備品をセットしました。ジャッキとクランクロッドは28番の黒鉄色、消火器は327番のレッドFS11136で塗りました。

 

 排気管を取り付けました。42番のマガホニーで塗りました。

 

 バックランプを47番のクリアーレッドと49番のクリアーオレンジで塗りました。以上で細部の塗り分けは完了しました。

 

 校章マークはモデルカステンのガルパンデカールセットVol.3より、上図中央の2枚を使用しました。

 

 作中車は砲塔左右側面に校章マークを付けていますので、それに合わせました。

 

 デカールの貼り位置は、左右対称となりました。

 

 最後につや消しクリアを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 以上で苫小牧メイプル学園チームのMk.Ⅵ軽戦車がリボンの武者仕様にて完成しました。製作期間は2022年1月22日から31日までと3月8日の計11日でした。組み立てに8日、塗装と塗装後の組み立てに1日を要しました。

 今回は香港のバルカンスケールモデルの製品を利用しました。作中車再現に最も適した北アフリカ仕様のキット(品番56011)が入手出来ず、通常仕様の同型車のキット(品番56008)にて製作にチャレンジしました。作中車の細部の描写が大まかであり、省略も行なわれていたりしたので、ガルパン仕様への改造は比較的少な目となり、細かいパーツが多かったわりにはあまり苦労しませんでした。細部のパーツにはエッチングパーツとプラパーツの2種類があって選択出来るのですが、今まで作ってきたガルパン車輌がエッチングパーツをあまり使っていないため、外見上の統一感を保つ目的でプラパーツを選びました。
 苫小牧メイプル学園チームのMk.Ⅵ軽戦車は、作中ではB型とC型の2種が描かれており、今回は試合に参加したB型を作りましたが、機会があれば、C型も作ってみたいと思います。

 「リボンの武者」登場車輌の再現製作は、まだまだ続きます。

 

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チーム「鬼」九四式軽装甲車2輌(リボンの武者版) 完成です!!

2022年07月09日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業に入りました。車体色はガイドの指定するミスターカラー328番のブルーFS15050とし、2両とも同じように吹き付け塗装しました。

 

 車外装備品を塗りました。これらもガイドの指定に従って塗り分けました。木製部分は43番のウッドブラウン、金属部分は527番の陸軍カーキで塗りました。ほかに33番のつや消しブラックや9番のゴールドで塗る指示箇所もありました。殆どのパーツはランナーに付けたまま保管していたので、上図のようにランナーに付けたまま塗りました。

 

 転輪のタイヤゴム部分はポスカの黒、排気管は61番の焼鉄色で塗りました。

 

 転輪を組み付けました。

 

 履帯は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 履帯を車輪に回して組み付けてゆきました。上図のように爪楊枝などを用いて接着固定しました。小型車輌で履帯も細くて細かいのですが、組み立ては思ったよりも楽に進みました。

 

 履帯が仕上がりました。

 

 車外装備品類を取り付けました。

 

 ヘッドライトのA18は8番のシルバーで塗りました。レンズパーツは元々付いていませんが、そのままですとライトらしく見えないので、ウェーブのクリアパーツを追加しました。9番のゴールドで塗った、帝国陸軍の五芒星パーツも取り付けました。

 

 砲塔をセットして、九四式軽装甲車スーパー改が仕上がりました。

 

 続いて、九四式軽装甲車無人砲塔仕様も仕上がりました。

 

 ともにデカールはありませんので、つや消しクリアを薄く吹き付けました。

 

 

 以上で、チーム「鬼」九四式軽装甲車2輌(リボンの武者版)が完成しました。製作期間は2022年1月10日から19日までと、3月17日の計11日でした。武装以外は全く同じ車体の軽装甲車でパーツ数も多くはありませんので、2輌を同時並行で作っても手間はかかりませんでした。

 今回のキットはガルパンコミック「リボンの武者」シリーズの車輌の公式キット化第2弾で、元製品も同じファインモールド製です。第1弾はムカデさんチームの九七式軽装甲車テケでこれもファインモールドに元製品があります。その流れで元製品の九五式軽戦車を利用しての「リボンの武者」シリーズ第3弾公式キット、鹿児島竪琴高校チーム九五式軽戦車、を出していただけないかな、と思う次第です。

 

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西住家 Ⅱ号戦車F型 完成です!!

2022年07月08日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業を行ないました。まずサーフェイサーを吹いて下地をこしらえておき、ついでミスターカラー119番のRLMサンドイエローを吹き付けました。インテリアは既に塗装済みですので、マスキングしておきました。

 

 塗装後、マスキングテープを剥がしました。なんとか綺麗に塗り分けることが出来ました。

 

 転輪のタイヤゴムをポスカの黒で塗りました。車外装備品の金属部分は28番の黒鉄色、木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。砲塔内の砲手席のシートは42番のマガホニー、消火器は327番のレッドFS11136で塗りました。

 

 転輪を組み付けていきました。

 

 車外装備品をそれぞれの位置に取り付けました。

 

 今回の西住家車輌の製作では、車外装備品のパーツの大半を劇中車に合わせて交換していますが、取り付け位置はガイドの指示のままでした。全体的にみて車体形状や輪郭などがほぼ一致するので、おそらく西住家車輌の元モデルは今回のドラゴンの製品ではないかと思います。このキットは公式キット化されています。

 

 ヘッドライトのレンズ部はウェーブの同サイズのクリアパーツに交換して、劇中車のような透明感を出しました。

 

 車体前面の予備履帯をセットし、プラ板で自作した留め具も取り付けました。

 

 砲塔内の砲手席を取り付けました。

 

 砲塔基部を車体に据えました。砲塔本体は取り外し自在としてインテリアを見られるようにしました。

 

 上部車体も同じように取り外し自在としてインテリアを見られるようにしました。エンジンルーム内も完全に再現したフルインテリア仕上げですので、接着密閉して大部分が見えなくなってしまうと、折角の制作の意味がなくなってしまうからです。

 

 28番の黒鉄色で塗装した連結履帯を繋いで取り付けました。連結式履帯のはめ込みは個人的には苦手ですが、ドラゴンの製品のそれは組み易く繋ぎやすいので、なんとか助かっています。

 しかし、今回は間違えて左右の履帯の向きを逆に組んでしまいました。組み立て塗装後に気付いたので、直しようがなくて、そのまま組み付けました。
 以前にも黒森峰女学園選抜シュバルツバルト戦闘団のⅡ号戦車をタミヤ製品で作った際にも左右の履帯を逆に付けてしまったことがあり、さらに青師団高校のⅡ号戦車を作った時も履帯を左右逆に取り付けてしまった記憶があります。いずれもベルト式パーツでしたので、組み直しがききましたが、今回のは連結式の組み立てですからどうにもなりませんでした。
 どうもⅡ号戦車の製作に関しては履帯の向きを左右で逆に付けてしまう変な癖が私にはあるようです。なんとかならないものでしょうか。

 

 全てのパーツを合わせて外観がまとまりました。西住家車輌には一切のマーキングがありませんので、デカールは必要ありません。

 

 以上で、西住家のⅡ号戦車F型が完成しました。製作期間は、2021年10月23日から2022年1月4日までと、3月6日および7日の計76日でした。組み立てに73日、塗装および塗装後の組み立てに2日かかりました。

 今回は公式キットの元製品であるドラゴンの品を使用しました。これはインテリアキットの一種ですが、エンジンルーム内だけは省かれています。折角なのでエンジンルーム内も全て再現しようと思いついて「フルインテリア化」をテーマとし、Ⅱ号戦車の資料図版などを参考にしてエンジンルーム関連の各部品をプラ材などで自作し、エンジンのマイバッハHL62はサークルの知人の教示によって同エンジンをもつSd.Kfz.7のドラゴン製品より調達、Ⅱ号戦車用のスタイルに造り替えました。このエンジンルーム関連のパーツの製作だけで約1ヵ月を要し、さらにインテリアも塗装しながらの組み立てであったため、2021年中には完成せず、年をまたぎました。塗装は春になってから行ないました。

 ガルパンのⅡ号戦車の再現製作においては、タミヤの有名なミリタリーミニチュアNo.9の製品がよく利用されていますが、劇場版の西住家車輌とは色々と形状が異なります。公式キットにもなっている今回のドラゴンの製品がほぼ劇中車に近い姿に仕上がりますが、簡単に組み立てられるキットではないので、初心者クラスにはちょっとキツイかもしれません。あえてタミヤの製品を選択して再現してみるのも一つの手だろうと思います。

 

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伯爵高校 Ⅲ号突撃砲G型(4号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 完成です!!

2022年07月07日 | ガルパン模型制作記

 組み立てが完了したので塗装作業に移りました。サーフェイサーを薄く吹き付けた後、ミスターカラー37番のRLM75グレーバイオレットで履帯以外全てを吹き付け塗装しました。履帯は28番の黒鉄色で塗りました。

 

 続いて転輪のゴムタイヤ部分をポスカの黒で塗りました。

 

 車輪類を車体に組み付けました。

 

 ベルト式履帯パーツをはめ込みました。

 

 車外装備品や予備転輪を塗りました。金属部分やワイヤーは28番の黒鉄色、木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。

 

 予備転輪を後部にセットし、D16のシャベル、B2のワイヤーカッター、B34のパール、B14の消火器を左側フェンダー上の指示位置にセットしました。作中車はワイヤーを除いてタミヤキットの姿に準拠しているようで、ワイヤー以外の装備品は、ガイドの指示通りに組み付けました。

 

 戦闘室の背後に、D1とD3を組み合わせたクリーニングロッドを取り付け、その留め具D4を取り付けました。

 

 右側フェンダー上にはB20のジャッキ台、D2のハンマー、D13のクランクロッド、D12の斧、A3のシャックル、そしてジャッキを取り付けました。

 

 ワイヤーは作中車のセット状況に合わせて取り付けました。

 

 左右ともワイヤーの位置はガイドの指示よりも前後に伸びる形になっています。留め具は普通は有る筈ですが、作中車にも見えませんので、不要としました。

 

 これで塗装後の組み立てが完了しました。

 

 校章マークはモデルカステンのガルパンデカールセットから適当な大きさのものを選びました。上図のようにシュルツェンに貼りました。車体のほうには作中車の各シーンを見てもマークが認められなかったので、このⅢ号突撃砲G型においてはシュルツェンにのみ校章マークがあるものと見なしました。

 

 最後につや消しクリアーを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 以上で、伯爵高校チームのⅢ号突撃砲G型(4号車)がコミック「樅の木と鉄の羽の魔女」の仕様にて完成しました。製作日数は、2022年2月16日から2月20日までの5日でした。組み立てに4日、塗装および塗装後の組み立てに1日かかりました。
 今回はタミヤのキットをほぼストレート組みで作りました。作中車に合わせて二、三のパーツを不要としたほか、左右フェンダー上のワイヤーのセット位置を変更するだけで済みました。気楽に組み立てることが出来ましたので、おそらく伯爵高校チームの所属車輌の中では一番作り易いのだろう、と思います。

 Ⅲ号突撃砲G型に関しては、継続高校チームのスナイパー、ヨウコの搭乗車も同型であろうと推測されますが、外観がフィンランド軍仕様になっているかどうかの確定は、最終章第4話の公開を待たねばなりません。仮にフィンランド軍仕様になっていれば、タミヤの同仕様のキット(商品コード35310)が適応キットの一つになるでしょうが、そうでない場合は、おそらく今回と同じキットが候補にあがってくると予想されます。

 

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紫野大徳寺11 黄梅院秋景色

2022年07月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺塔頭の黄梅院は、庭園の美しさに定評があって人気の高いスポットです。しかし、常時拝観可能ではなくて不定期の特別公開期間にしか拝観出来ないため、公開期間には大勢の観光客が訪れます。実際に今回回った塔頭のなかで最も拝観客が多く、入場制限をかけている時間帯もあったようです。

 それでU氏が混雑する時間帯を避けて昼前にタイミングを設定していたので、それに合わせて入りましたが、入場制限は解除されていたものの、受付より先は写真撮影禁止となっていました。
 したがって、撮影出来たのは、表門から受付までの間の、紅葉庭の一画のみでした。一応、庫裏と玄関は見えるので、これらは撮影可能でしたが、U氏は黄梅院を一番楽しみにしていただけに、とても残念がっていました。

 

 紅葉庭から見える、本堂(方丈)の玄関の唐門です。唐門への参道は立ち入り禁止区域になっていて近くまで行けないので、デジカメの望遠モードで撮りました。本堂とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 庫裏です。表門や鐘楼、客殿と同じく天正十七年(1589)に小早川隆景によって改築された建物で、国の重要文化財に指定されています。他の塔頭では拝観順路が表門からまっすぐに庫裏に進んで本堂へと繋がりますが、ここ黄梅院では南側の広く美しい庭園をメインにして順路を南に大きく迂回させているため、受付も南側にあってぐるりと回って本堂へ繋がります。それで、庫裏や唐門玄関へのルートは特別公開時においても閉鎖されて立ち入り禁止区域になっています。

 

 それで、いちおう拝観はしましたが、撮影禁止範囲の本堂、玄関、庫裏の内部詳細については記述を省きます。本堂内部中央間の襖絵が雲谷等顔(うんこくとうがん)の作で国の重要文化財であるのを、U氏が撮影禁止処置への不満からか「雲谷斎」などと茶化していましたが、私自身は裏の間の小田海僊(おだかいせん)の襖絵のほうが江戸期特有の風雅に満ちて印象に残りました。

 

 南の庭園も撮影禁止区域になっているようですが、観光客の中には堂々と撮影している輩も少なくなく、女性が多かったので、U氏が何度も眉をひそめていました。二度ほど「水戸中納言の威光をもって成敗してくれようか」などと呟いていました。私が「それよりは信長鉄砲隊三千挺の斉射のほうが」というと「それはナイスだ」と笑顔になっていました。

 

 本堂、玄関、庫裏はいずれも天正年間の建築ですので、戦国期特有の豪壮さがあり、換言すれば室町期までの優美さや繊細な意匠感覚というものが薄れていました。さきに興臨院や瑞峯院の見事な建築群を見てきた眼からすると、禅寺の方丈のあるべき姿には届いていない感じがあって、なにかがちょっと違って物足りない気がしました。
 同じような感想をU氏も抱いていたようで、一番楽しみにしていた塔頭であったのに、見学後は一切の感想を語らずじまいでした。撮影禁止処置への不満と批判ばかりを繰り返していました。

 

 今回の大徳寺塔頭見学において、大仙院と黄梅院の二ヶ所が撮影禁止となっていましたが、他の塔頭は撮影もOKでしたから、大仙院と黄梅院の撮影禁止の理由というか根拠がよく分かりませんでした。黄梅院の受付でU氏が撮影禁止の理由を訊ねたところ、「庭園の保護のため」というよく分からない答えが返ってきました。文化財保護法への正しい理解もなく、科学的根拠もないまま習慣的に撮影禁止にしている社寺が未だに少なくありませんが、黄梅院もその一例であるようです。

 

 なので、今回の黄梅院の記憶としては、見事な紅葉の景色だけが鮮やかなものとして残っています。

 

 表門だけは撮影可能でしたので、見学しながらあちこち撮りました。細部もかなり簡素化が進んでいて、室町期から戦国期への変化が顕著に見て取れました。例えば、垂木の数が最低限になっています。

 

 軸部の蟇股や虹梁、組物も小振りになっています。必要最低限の材料でいかに小奇麗に整えて造るか、という技巧的な意識ばかりがやたらに目立ちます。装飾も最低限におさえますが、こうした傾向への反動が、次の江戸期の豪華絢爛な建築意匠に繋がるのでしょう。

 

 紅葉庭の秋景色をしばらく堪能した後、表門を出て黄梅院を後にしました。

 

 そのまま南の中門をくぐって出て、その前でU氏が立ち止まって時計を見ました。まだ13時過ぎでした。大徳寺の他の塔頭は、来年の春季に特別公開があるようなので、その時にまた来よう、とりあえず昼飯をどこかで食べるか、と言いました。
 そのあとはどうするんだ、と訊くと、「折角京都に来てるんだから、どこかもう一ヶ所、禅寺の塔頭みたいなの行きたいねえ」と答えてきました。この時期に公開やってる所といえば、妙心寺のほうぐらいかな、と話したら、それいいな、との返事が返ってきました。

 したがって、紫野大徳寺の見学レポートは、次の春季の特別公開見学までしばらく中断させていただきます。 (了)

 

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(車輌目次表紙)サンダース大学付属高校 GMC2.5トントラック

2022年07月05日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  イタレリ (商品コード205)

  制作期間   2018年8月2日~8月14日、9月27日~9月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 完成です!!

  総評・備考
 サンダース大学付属高校が保有してテレビシリーズ第5話に登場した軍用トラックは、第二次大戦中にアメリカが開発、運用した積載量2.5tクラスの6輪駆動構造を持つ軍用トラック、GMC CCKWがモデルである。ガルパンではGMC2.5トントラックと称されるが、これは戦後に自衛隊が供与を受けて使用した際の呼称を採ったものらしい。戦中戦後に約5万6千台が生産されて多数のバリエーションが知られるが、劇中車は164インチ(4.24m)のロングホイールベースのGMC CCKW 353に該当する。外見上においては、銃座が無く、キャブが戦後型のハードトップタイプであるのが特徴である。適応キットは古くから出ており、最初はマックスから販売され、金型がトミー(現タカラトミー)に移されてトミーより販売、次いでイタレリに引き取られてイタレリ版が販売された経緯が知られる。キット自体はいずれも同じである。
 公式キットは出ていないが、適応キットはイタレリ製品を主として市場在庫があり、以前の古い製品もたまに中古品市場で見かけるというが、私が製作した時期には見当たらず、購入出来なかった。次善の策として、イタレリの同型車のソフトトップタイプのキット(下のキット一覧の2)を使用してこれに同じイタレリのタンクローリータイプのキット(品番201)のハードトップタイプキャブをあわせてニコイチで製作再現した。製作過程は製作記事を参照されたい。

  公式および適応キット一覧(2022年4月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く38 その6 「大洗模型展示会です!!」

2022年07月04日 | 大洗巡礼記

 6月5日の午前10時過ぎに、宿の「さかなや隠居」を出て上図の「肴屋本店」前の道を進みました。その向かいの駐車スペースで、秋山優花里誕(6月6日)および武部沙織誕(6月22日)の記念クリアファイルを特別に販売すると聞きましたので、Tさんが早速買いに行きました。

 

 Tさんが買ってきた秋山優花里誕(6月6日)および武部沙織誕(6月22日)の記念クリアファイルを見せてもらいました。ポストカードも特典として付いていたようです。
 私自身は、この種のグッズ類は卒業して自身のコレクションも「断捨離」して久しいので、見るだけで充分でした。Tさんはまだ大洗行きも3回目ですから、記念品やグッズ類は色々と欲しい筈で、他でも幾つかの品を購入していたようです。

 

 この日のメインは二年ぶりに開催された、大洗模型展示会の見学でした。会場の大洗中央公民館は、現在は「トヨペットスマイルホール大洗」と称していますが、その大会議室で10時から開かれるということで、それに合わせて行ったわけでした。入口は役場の向かいの中央階段をあがって左手にあり、その出入口脇のガラス戸に展示会の案内チラシが貼ってあって会場位置を示していました。

 そのチラシを、さっそくタブレットにて撮影するTさん。私も同じように撮ろうとしたのですが、ガラスの反射光で画面が白っぽくなってうまくいきませんでした。Tさんはうまく撮れたのでしょうか。

 

 入口を入ると、正面に上図のガルパン寝そべりぬいぐるみが置いてありました。カチューシャとアンチョビと島田愛里寿の3体を重ねてあり、その横に消毒用アルコール剤の台が設けられてありました。これが無人受付のようでした。

 

 ガラス戸に貼ってあったのと同じ案内チラシです。御覧の通り、6月5日のみの開催でした。大洗模型展示会は、大洗に移住した有志を中心に複数が集まって主催役を共同で務めていたようですが、統括責任者が誰なのかは直前まで分からず、さらに案内サイトは無く、ツイップラに概要と募集要項が示されるのみ、という簡易かつ必要最低限のアナウンスがなされていたのみでした。
 今回でまだ第二回目なので、まだ色々と課題を抱えたままの未熟な内輪のイベント、という状態であるようでした。見学は無料で、サービスはありませんでした。出品者はツイップラのリストによれば49人であったそうで、出品数は約300点と聞きましたが実見した限りではもっとあったように思います。

 奇しくも同じ6月に関西地区のモケジョさんたちの合同内覧展示会があって、その主催が交流仲間のモケジョさんたちのサークルであった関係で、そのメンバーでもある嫁さんにも頼まれて、ガルパンのリボンの武者の軽戦車20輌を特別出品しました。
 その内覧展示会は女性限定の内輪の催しであるにもかかわらず、半年前から案内サイトを立ち上げて告知を行ない、参加する24のサークルと33人の個人出品者は事前の説明会と交流会、展示会に向けての協議会を行うと言った念の入れようでした。会場も有名結婚式場の多目的ホールを利用して軽食飲み物ケーキ類のサービス付き、したがって見学は有料となっていました。平成16年より隔年開催され、今回で第10回目、会期も約1ヵ月、出品数は1500点を超えたそうです。色々な意味で大洗模型展示会とは対照的であって、比較考察の対象としても興味深いものがありました。

 

 会場内はこのように長いテーブルを大会議室の周縁に回し、真ん中に二列に並べて展示スペースを設けてあり、それを出品者ごとに割り振ってそれぞれのディスプレイを自在に任せている、といったスタイルでした。公民館などの公共施設を借りて行われる一般的な模型展示会のそれでした。

 

 展示品はこのようにテーブル上に自由に配置され、大部分が保護カバー類もなくてむき出しのままでした。触ろうと思えば触れる、カメラをギリギリまで近づけて撮影出来る、顔を近づけてじっくりと見られる、といった状態でした。ホコリも舞って作品に付くだろうのに、大丈夫なのか、と思いました。一部の壊れやすそうな展示品のみが保護ケースに入れられてありました。

 

 展示状況は出品者ごとに自在に設定出来るそうで、このように大きな雛壇を設けて、展示品を立ち見の視線の高さに置いて見やすく、楽しめるように配慮したところもありました。

 上図の雛壇は黒がベースの背景色なので、展示品が浮き出て見え、より鑑賞しやすくなっていました。博物館などの基本展示方法とほぼ同じで、縦長の展示品には有効な方法ですから、フィギュアの展示陳列法としては最適でした。この出品者はよく分かっていらっしゃるな、と思いました。作品紹介メモも、読みやすいように雛壇の前面に縦に貼ってあるのが良かったです。机の上に横に置いてあるのは、場所によっては読みにくいからです。

 

 さきの黒ベースの雛壇展示と対照的だったのが、こちらのテーブル上のアクリル台座上のフィギュア展示でした。御覧のように会場の照明がアクリル台座上に反射して、角度によっては目が眩みます。撮影時にもカメラ画面が白っぽくなるアングルを避けないといけなくなります。カメラによっては明るい反射光に反応してしまい、肝心の展示品そのものは暗く写ってしまいがちです。しかも蛍光灯に背を向けている状態でしたから、もともと暗くなりがちでした。

 博物館展示で最もやってはいけないのが、このような、台座を透明な素材や鏡のように光を反射しやすい材で造ることです。しかし、あえてこの形でやるとすれば、上からの乱反射をシャットする下からのスポットライト照射が必須となります。博物館にて人形や彫刻や仏像を展示する場合は最低でも下の二ヶ所からライトを照らすのが原則ですが、上図のフィギュア作品でも同様に下からミニライト等で照らしたほうが、作品つまり園みどり子、近藤妙子の出来と魅力がより鮮やかに感じられた筈です。

 

 アクリル台座上に立つ園みどり子、近藤妙子とは異なって、こちらの武部沙織は下に反射素材が無かったため、上からの蛍光灯の光によって明るく見えました。デジカメでの撮影時にも画面が白っぽくならず、ナチュラルな採光状況でピントが自然に合いましたので、上図のように自然体で撮れました。斜め前からのスポットライトがあれば、さらに武部沙織のチャームポイントが引き立ったことでしょう。

 モケジョさんたちの内覧展示会では、殆どの作品にスポットライトが付けられていたそうですが、それは結婚式場の多目的ホールを利用したために電源およびライトが豊富に確保出来たから、という面もあったと思います。
 こちらの大洗での展示会においては、公民館施設であるためにふんだんに電源を利用して多数の照明を設けるということが、費用のうえからも難しかったのかもしれませんが、より良く観て楽しめる展示会を目指すのであれば、照明の確保は課題の一つになることでしょう。  (続く)

 

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伯爵高校 Ⅲ号突撃砲G型(4号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その5

2022年07月03日 | ガルパン模型制作記

 ステップ16およびステップ17では、装備品やシュルツェン架などを取り付けます。作中車に合わせてガイド指示のうちの二ヶ所を変更します。

 

 変更の一ヶ所めは、車載機銃と機銃シールドが未装備であるのに合わせる、です。機銃のパーツC1、シールドのパーツC4が不要となります。

 

 変更の二ヶ所めは、上図のように予備転輪の固定ピンが無いのに合わせる、です。パーツA18は不要となります。

 

 ステップ16で組み付けるパーツ類です。大半が車外装備品で、これらは塗装後に取り付けます。

 

 なので、ここでは仮組みだけして、位置と装備状況を確かめました。

 

 ステップ17で取り付けるシュルツェン架のパーツを準備しました。

 

 組み上がりました。

 

 ラストのステップ18です。シュルツェンや予備履帯を取り付けます。予備履帯は作中車では未装備ですので、A26、A27は不要です。

 

 作中車がシュルツェンを付けていることは、上掲シーンの他、各シーンで確認出来ます。

 

 左右のシュルツェンが組み上がりました。

 

 シュルツェンは接着せずに、装着および取り外し自在としました。これで塗装前の組み立てが完了しました。  (続く)

 

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紫野大徳寺10 黄梅院へ

2022年07月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 瑞峯院の表門を出て次へ行こうとした途端、U氏が「待て」と言って立ち止まり、門外に建つ上図の石柱を指しました。近づいてみると山内の道標のようで、「左 瑞峯院庭園」と刻まれていました。
「道標だな」
「うん、道標なんだけどな、これ、何かの転用石材なのかね?」

 

 言われてよく見ると、確かに何らかの石材を転用しているようでした。一見して橋脚のように見えました。似たような石材を京都国立博物館の庭園内の屋外展示で見た事があります。この半分削った部分に継いではめ込む方式で何かの構造物を支える、礎石の一種かと思われます。古い木造鳥居の基礎などがこういう形になっているのも見たことがあります。

 

 山内を移動中にU氏が見つけた「平康頼之塔」です。平康頼は、後白河法皇の近習として北面に仕えた武士で、平判官入道の通称で知られます。安元三年(1177)六月の鹿ケ谷の陰謀に参加したかどで捕縛され、俊寛や藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された人ですが、墓は東山の雙林寺にありますので、こちらは供養塔でしょうか。

 

 「平康頼之塔」の前から勅使門の方向へ進みました。U氏が「あの総門もついでに見て行こう」と上図右奥の門を差しました。

 

 それで総門をくぐっていったん外に出て、振り返って総門を見ました。大徳寺一山の総玄関口にあたりますが、建物自体は古くないようで、文化財指定の標識も見当たりませんでした。外にはバスやタクシーの駐車場があり、大徳寺への観光客の大部分はここから出入りします。

 

 再び境内に進んで、今度は上図の黄梅院へ行きました。今回の大徳寺塔頭特別拝観見学の五ヶ所目、ラストでした。

 

 表門脇の説明板。

 

 黄梅院の表門です。黄梅院は、永禄五年(1562)に織田信長が父信秀の追善のために建立した小庵にはじまり、天正十六年(1588)に毛利輝元、小早川隆景らが春林宗俶(しゅうりんそうしゅく 大徳寺第九十八世住持)を勧請開祖として庵を院に昇格せしめて黄梅院と号して成立しました。

 

 表門の細部を見ました。この表門は庫裏とともに天正十六年(1588)に小早川隆景が改修したもので、戦国末期の大名家寄進による門建築の標準的な遺構として、国の重要文化財に指定されています。

 

 表門をくぐると一面の紅葉があかあかと輝いて上から覆いかぶさってきました。大徳寺の紅葉の代表格として知られる黄梅院の紅葉庭です。

 

 既に大勢の観光客が表門の内外に立ち止まって紅葉を愛でていました。U氏と私もその列の右端に控えめに加わって、しばらく頭上の紅葉を見上げていました。  (続く)

 

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