気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

知波単学園 九五式小型乗用車(福田車) 作ります!! その6

2021年11月15日 | ガルパン模型制作記

 塗装後の組み立てにとりかかりました。まずシャーシーに排気管A11を取り付けました。

 

 次に座席のB13およびB14、A2とA3の組み合わせを取り付けました。

 

 前後の車軸およびエンジンを組み付けました。各所で排気管と繋ぎ、車軸からのシャフトの組み合わせもズレないように合わせました。

 

 運転席のシフトレバー類A7、A8、A20を取り付けました。わざと目立つシルバーで塗っておいたので、車内の薄暗い中でもよく見えそうです。

 

 車輪をはめ込みました。キツキツなので力を込めて押し込むようにはめました。接着剤は不要でした。

 

 車体をかぶせました。

 

 幌を取り付けました。これは接着せずにはめ込んだだけですので、取り外しも可能です。

 

 幌の形状を合わせたのが、かなり効果的であったようです。劇中車の雰囲気がバッチリ感じられました。

 

 前部ラジエターの円板に知波単学園の校章を適当なサイズのデカールで入れました。

 

 残るは、窓ガラスと前照灯レンズのクリアパーツですが、これらはつや消しクリアを吹き付けてから取り付ける予定です。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その34

2021年11月14日 | ガルパン模型制作記

 AFVクラブのアメリカ陸軍作業テーブルとツールセットのキットが完成したので、ガルパン戦車工場B棟へ納入する、ということで大いに張り切る元気なおケイさん。

 

 工場内に配置されたアメリカ陸軍作業テーブルとツールセット。偶然にも建物の柱間のスペースにピッタリおさまりました。

 

 引き出しと棚が付いて収納性にすぐれた米陸軍仕様の作業テーブルは、他のメンバーにも好評でした。

 

 カチューシャも感心していました。この追加の机がいたく気に入ったようです。それを見てケイも得意気です。

 

 西住まほ、西絹代の両人はどうやら金属製のテーブルを初めて見たようです。両人のチームで使用している作業用机は木製のみのようです。枢軸国陣営に関して、ある面では貧弱な所があったと言われますが、本当かもしれません。

 

 作業机が追加されて十分な作業スペースが確保出来たことに満足したカチューシャ、さっそく次の問題点に目を向けてゆきました。ドラム缶や雑具箱や弾薬箱のほうをしばらく見つめるのでした。

 

 どうやら、装備品や備品類に重たいものが多いので、それらを運べる運搬具が必要だと思い至ったようです。

 

 何らかの運搬具が欲しい、と切り出したカチューシャ。即座に引き受けるケイ。ケイの背後で西住まほが再びサンダースの物量の豊富さに驚いているようです・・・。  (続く)

 

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龍と仁と天と8 仁和寺奥院より二王門へ

2021年11月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 仁和寺金堂の西側に建つ鐘楼は、応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍にも存在したようであるが、「本寺堂院記」の記載によれば二階の建物で、元永二年(1119)四月に焼失している。二階とは現在のような袴腰造(はかまごしづくり)であったかは疑問であり、九世紀代創建の古代寺院たる仁和寺の鐘楼ならば、法隆寺鐘楼のような二層の形式に近かった可能性が考えられる。

 

 現在の鐘楼は寛永・正保期の再興造営中の寛永二十一年(1644)の再建で、中近世の鐘楼の一般的な形式である袴腰造(はかまごしづくり)で建てられる。気になるのは経蔵とともに金堂の左右に配置される点で、古代寺院の一般的な伽藍配置では講堂の左右に配置されることが多い。しかし、創建時の仁和寺伽藍には講堂が存在していなかったようなので、金堂が講堂を兼ねていたのかもしれない。

 

 鐘楼の北西には御影堂を中心とする一画がある。真言宗寺院には必ず設けられる宗祖弘法大師を祀る堂であるが、仁和寺においては開基宇多法皇、仁和寺第二世性信入道親王もあわせて祀られる。

 

 上図は御影堂の中門である。このように土塀で囲まれて中門が設けられること自体が寺内での御影堂の重要性を示すが、位置がもとからのままであるかは疑問である。

 というのは、創建当時の仁和寺伽藍は平安京の条坊制の地割に基づき、配下の院家群も含めて寺地の南北の中心軸が東に3度傾いていたからである。いまの二王門の前を通る市道183号線がやや斜めに通るのがその名残であるし、また中門からの二段目の段差面の南端線も同様である。

 その3度の傾きを、寛永・正保期の再興の敷地造成によって是正し、寺地の南北の中心軸をきっかり南北線に合わせたので、現在の堂塔すべてが正しく南を向く。さらに敷地を四段に造成し直して、堂塔の配置をそれらに合わせ直してあるので、四段目に金堂や鐘楼や経蔵とともに並ぶ御影堂が、もとの位置を保っているとは考えにくい。
 いまの境内地は三分の一に減じて北側の敷地を失っているが、本来ならば奥ノ院と位置付けられて伽藍の北におかれる御影堂は、かつてはもっと北に位置していたと思われる。

 

 現在の御影堂は、慶長十八年(1613)建立の京都御所の清涼殿の用材を用いて建てられており、金堂と同じく寝殿造建築の要素を色濃く残す。屋根こそ宝形造(ほうぎょうづくり)に代わっているが、檜皮葺である点は、蔀戸(しとみど)の金具とともに、旧清涼殿の意匠を受け継いでいるように感じられる。

 

 この御影堂は、応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍にも存在したことが、「本寺堂院記」の記載によって知られるが、実は旧仁和寺伽藍に存在したにもかかわらず、寛永・正保期の再興造営にて再建されなかった堂宇も少なくない。

 「本寺堂院記」の記載によれば、三面僧坊、食堂、新堂、薬師堂、不動堂、角堂、北斗堂などがある。これらの大半が伽藍の北側に配置される建物であるので、いまは失われた北側の寺地にこれらの施設が並んでいたものと思われる。御影堂もそのなかに含まれていた可能性が高いが、宗祖および開基をまつる根本の堂宇なので再建しないわけにはゆかず、金堂院の西側、境内地の北西隅が斜めに張り出す区域になんとか収めて再建したのであろう。

 

 最後に観音堂を見た。敷地の三段目に五重塔と相対して建つが、正面は南を向く。応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍においては院家に列して観音院と称し、廻廊に囲まれた観音堂がその中心であったらしい。
 その原位置はいまでは不明になっているが、観音院には「御塔」も付属してこれが現在の五重塔に引き継がれており、ともに金堂の前段左右に並ぶ現在の状況は、もとは院家であった観音院の重要さゆえに、寛永・正保期の再興造営にて伽藍の中に取りこんで再編成し、七堂伽藍の序列に組み入れて体裁を整えた結果ではなかったかと思われる。

 

 観音院の重要さは、仁和寺創建以来の真言密教儀式のひとつ「伝法灌頂」が代々観音院にて執行されていた歴史に示される。そのために院家でありながらも観音堂に廻廊と御塔をそえて一個の伽藍を整備していたものと推されるが、その歴史的役割を寛永・正保期の再興造営にて発展的に継承させるために伽藍の一部に組み入れた結果が、現在の観音堂の位置なのであろう。
 その本質的な意図は、本来ならば秘せられる仁和寺の最重要の儀式である「伝法灌頂」の場の、一種の「可視化」であったのだ、と思う。すなわち仁和寺の根本精神、中心的儀式とは何かを、寛永・正保期の再興造営にて観音堂を建てることで明確に示そうとした、と考えるのである。

 

 したがって、五重塔がかつての観音院御塔の系譜を受け継ぐ存在であるのならば、塔婆が応仁の乱で焼失した旧仁和寺伽藍にあったかどうかの記載が「本寺堂院記」でははっきりしないのも納得がゆく。もとは伽藍にあったのではなく、院家の付属建築として存在したからであろう。

 

 かくして、久しぶりの仁和寺にて色々と謎解きを楽しみ、さらに残る不詳の事々に頭を傾げつつ、中門を退出して伽藍を後にした。寛永・正保期の再興造営にてかつての3度の傾きを是正されてきっちり南北線に合わせた広い参道を、二王門までのんびりと歩いた。

 

 二王門も、寛永・正保期の再興造営による再建である。再建というより新造であるかもしれない。「本寺堂院記」に記載される旧仁和寺伽藍の諸施設名には、仁王門つまり現在の二王門に該当する名称が見られないからである。

 つまり、かつての仁和寺には仁王門が存在しなかったかもしれないのである。が、寛永・正保期の再興造営が寺地を完全に整理して敷地も四段に造成し、中心軸の3度のズレも直した大がかりなものであった以上、「衣笠みち」とも呼ばれた中世以来の大道に面する南の出入り口に門を設けないわけにはゆかず、ほぼ同時期に相次いで建てられた南禅寺三門、知恩院三門を参考にし、それに劣らぬ規模で建てることになったのであろう。

 

 それで現在、仁和寺の二王門は京都三大門の一つに数えられることになったわけである。先行建築の南禅寺三門、知恩院三門に対抗して、仁和寺の由緒を誇示するかのように贅沢に作った、との古老の言い伝えは、案外真実を示しているのかもしれない。  (続く)

 

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知波単学園 九五式小型乗用車(福田車) 作ります!! その5

2021年11月12日 | ガルパン模型制作記

 組み立てが完了したので塗装に移りました。今回は上図のガンダムマーカーを初めて実験的に使用してみました。エンジンを塗ってみようと思い立ちました。

 

 先週の定期会合にて、交流サークル仲間のモケジョさん達に「星野さんガンダムマーカーって知ってます?いつも転輪塗るのにポスカ使ってはりますけど、ガンダムマーカーも同じように使えるんですよ、ガンダム専用のマーカーなんですけど、色によっては戦車にも使える筈なので、一度試してみて下さい」と、上図の4色をいただきました。エンジンなどに使えそうな色でした。

 

 で、4色のガンダムマーカーでエンジンを塗ってみた結果、上図のようになりました。

 

 意外といけますねえ・・・、塗るのもラクですし・・・。

 

 なかなかいい雰囲気に仕上がりました。ガンメタリック系は戦車の車外装備品の金属部分にも使えそうですね。
 ガンダムマーカー、けっこう使えるな、と感心しました。今後はガルパン車輌に合いそうな色のマーカーがあれば、購入して利用してみようと思います。

 

 ですが、車体はさすがにガンダムマーカーで塗る訳にはいきませんでした。劇中車は土草色のカラーをまとっていますが、土草色はガンダムマーカーには無いからです。

 

 そこで、いつものようにエアブラシで吹き付け塗装しました。車体はミスターカラーの132番土草色、シャーシー以下は28番の黒鉄色、幌は45番のセールカラーで塗装しました。

 

 座席は42番のマガホニー、車輪のタイヤ部分はポスカの黒で塗りました。

 

 さらに排気管を61番の焼鉄色で塗りました。

 

 シフトレバー類は、ちょっと趣向を凝らして目立つ8番のシルバーで塗り、グリップ部分をポスカの黒で塗りました。

 

 前照灯の内部も8番のシルバーで塗りました。方向指示器は、試しにガンダムマーカーの「ガンダムグレー」で塗ってみましたが、それらしい色に落ち着きました。  (続く)

 

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戦車工場、作ります!! その33

2021年11月11日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン戦車工場B棟に追加で入れることになった作業机は、上図のAFVクラブの「アメリカ陸軍作業テーブルとツールセット」のキットを調達しました。米軍のアイテムとあってケイもノリノリです。

 

 ケイが「オシャレ」と形容していますが、いかにも現代風のオシャレな作業机です。それもそのはず、説明文によれば現在の米陸軍で使われているものだそうです。サイドロッカーも付いています。

 

 組み立てやすい、とケイが言っていますが、パーツが細かくて壊れそうな細いものもありましたから、組み立てそのものも楽では無かったです。パーツを破損しないように結構気を使いましたね・・・。

 

 組み立てガイドの見やすさと、米軍の作業机うんぬんは、あまり関係ない気がしますが・・・。おケイさん。

 

 このキットには現在の米陸軍が標準装備している銃火器のパーツも豊富にありましたが、ガルパン世界では不要となります。

 

 ポスターやグラビア類の印刷物の再現シートも入っていましたが、これも不要でした。

 

 とりあえず、4日で組み立てて塗装して完成させました。サンダースならばでの米軍アイテムですから、ケイがやたらに誉めまくるのも無理はありません。  (続く)

 

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龍と仁と天と7 仁和寺伽藍

2021年11月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 御殿の見学を終えて退出、広い参道を伽藍へと向かった。霊宝館はシーズン外なので閉まっていた。
 仁和寺の現在の寺域は、創建時の約三分の一になっていると聞くが、それでも広々としている。九世紀代の建立になる古代寺院だけあって、中世や近世の寺院のせせこましさ、雑然さとは一線を画する。同時期に成立した京都の古代寺院に醍醐寺が挙げられるが、そちらも広い境内地と伽藍を残す点で仁和寺と共通するのは興味深い。

 しかし、醍醐寺が創建以来の五重塔や上醍醐薬師堂など平安期の建築を幾つか伝えるのとは対照的に、仁和寺は応仁の乱で全山が灰燼に帰してしまい、現在の寺観堂塔は全て江戸期の寛永・正保期つまり寛永十八年(1641)から正保二年(1645)にかけての再興になる。

 

 なので、古代寺院の山門ふうに見える中門も、江戸期の寛永・正保期の再建である。伽藍域の正門としての位置にあるが、現状のように段差上に聳える状態になったのは江戸期からである。

 

 九世紀代までの古代寺院であれば、七世紀以来の伽藍堂宇を揃えるのが常で、中門も主要建築に含まれる。その南側の山門が寺域の境界線上に配置されて南門とか南大門とか呼ばれる。仁和寺の場合は二王門が山門にあたるが、中門までの距離がいささか開き過ぎる。いまの状況は、おそらく創建当時の配置とは異なるのであろう。

 

 中門から石畳みの参道を進むと、右手に五重塔が見えてくる。が、五重塔は応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍内に存在したかは疑問である。それよりも重要なのが、上図のように五重塔の手前までに段差があって階段が設けられている点である。仁和寺の境内地は、全体として四段の平坦面から成り、他の寺にはあまり見られない段差を連ねた地形になっているが、このことは余り注目されていない。

 上図の段差下の平坦面は、二王門から中門までの平坦面を一段目と数えると二段目にあたり、さらに五重塔が建つ平坦面が三段目、金堂や経蔵、鐘楼、御影堂が並ぶ四段目がある。これらの四段の平坦面は、すべて江戸期の寛永・正保期の再建時に敷地を造成した結果であり、応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍の地形ではない。

 

 したがって、いま四段に連なる敷地に建ついまの堂塔も、全てが応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍のそれを踏襲しているかは疑問である。とくに上図の五重塔は、応仁の乱焼失前の伽藍と院家および関連堂舎の由来を調査した史料である「本寺堂院記」および「本要記」に詳述が無い。不思議なことではある。

 応仁の乱焼失前の旧伽藍における塔婆は、史料上においては「観音院御塔」のみであるが、現在の五重塔の安置仏像および内部意匠は「観音院御塔」のそれに一致する。「観音院御塔」がどのような塔建築だったのかは不明だが、五重塔であったとしても違和感は無い。九世紀代創建の仁和寺ならば、塔婆は伝統的に五重塔であった可能性が高い。

 

 なので、位置はともかく、応仁の乱焼失前の旧仁和寺伽藍においては同時期寺院の醍醐寺と同じように、五重塔が空に聳えていたのであろう、と個人的には解釈したい。

 

 五重塔の北東には上図の九所明神が鎮座する。当初は境内の南にあったが、建暦二年(1212)に現在地に移された。のち応仁の乱で焼失、現在の建物は江戸期の寛永・正保期の再建である。

 

 祭神は御覧の通り。本殿、左殿、右殿の三棟の社殿に計九神が祀られるので、九所明神と呼ばれるわけである。いずれも平安前期の京都の主要地域神であるのが興味深い。端的に言えば、仁和寺創建の仁和二年(886)の時点で既に京都の古社として崇められていた神社はこの九神で全てであったものらしい。

 

 九所明神の横から北に段差を経て、上図の経蔵が建つ。古代寺院の経蔵によく見られた宝形造でありながらも、細部には板唐戸(いたからど)や花頭窓(かとうまど)等が見られる。禅宗様であるが、禅寺ではない真言系寺院の仁和寺にこの種の建築があるのは珍しい。江戸期の寛永・正保期の再建の基調が禅宗様であったのだろうか。

 

 金堂の前庭に移動した。 周知のように、慶長十八年(1613)建立の京都御所の正殿・紫宸殿の遺構であり、寛永年間(1624~1644)に現地に移築していまに至る。いまの京都御所の立派な紫宸殿が再興される以前は、この建物が内裏の中心建築であった。現存最古の紫宸殿であり、近世の寝殿造遺構としても貴重である。仏堂への変更に伴い、屋根を檜皮葺から瓦葺に変えているが、他は往時の姿をよくとどめる。

 

 この国宝の金堂も見応え充分であるが、個人的にいつも不思議に思うのは、「本要記」に応仁の乱焼失の旧金堂の土台に関して「南北廿八間、東西三十八間」と記される点である。現在の金堂の平面規模が「南北五間、東西七間」であるので、旧金堂の土台は単純計算でその約5倍以上の規模になるが、その上に建っていた旧金堂はどのような建物であったのだろうか。

 しかも「廻廊、東西各十間、金堂左右也、同南北廿間」とあって、いわゆる三面廻廊が付属していたから、これら金堂院の規模は相当なものになる。「本要記」によれば「上古ノ金堂土臺」の東南隅は現在の五重塔の位置にあたっていたというから、応仁の乱焼失の旧仁和寺伽藍が金堂ひとつをとっても現在とは全く異なった姿であったことが理解出来る。

 その応仁の乱焼失の旧金堂の土台は、その後もしばらく残されていたようであるが、これを含めて江戸期の寛永・正保期の再興造営時に全て整地し直して四段の平坦面に造り替えてしまったわけである。
 もしかすると、四段もの段差の造成は、かつての旧伽藍の巨大な旧金堂の土台の高さに起因するものであったのかもしれない。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)大洗女子学園 カバさんチーム Ⅲ号突撃砲F型

2021年11月09日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  プラッツ/ドラゴン 公式キット (商品コードGP-3)

  制作期間   2014年1月5日~1月18日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 完成です!!

  総評・備考
 Ⅲ号突撃砲F型は、プラッツからは新旧2種の公式キットが発売されているが、今回製作したキットは旧シリーズ(下のキット一覧の1)のほうである。だが現行シリーズのキット(下のキット一覧の2)と中身は同じであるため、元キットのドラゴン製品(下のキット一覧の7)とも変わらない。パーツ数は適度におさえられて組み立て易いが、ガルパン仕様に仕上げるならば、幾つかの改造や修正が必要となる。
 劇中車は厳密にはF8型に相当し、次のG型の特徴も備えるが、キットはF型を利用したほうが良い。適応キットも好みで選べば良く、ガルパン仕様に仕上げる場合の改造や修正のいずれも簡単な作業で済む。初心者クラスにもおすすめ出来るガルパン劇中車制作の入門編としても適した車輌である。

  公式および適応キット一覧(2021年10月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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戦車工場、作ります!! その32

2021年11月08日 | ガルパン模型制作記

 タミヤイタレリの野戦整備チーム装備品セットが5日で完成したので、戦車工場B棟に納入することになりました。

 

 戦車工場B棟に納入された装備品の数々です。西住まほが自チームの整備用装備品と同じであることに気付いています。

 

 なので、黒森峰女学園チームはこの戦車工場でも今回の装備品を普通に扱えるわけです。

 

 とりあえず、最低限必要な機材、備品が入りました。最低限ですから、他にも何か必要なものが色々と出てくることでしょう。

 

 カチューシャは、作業用机が1つだけであるのに納得がいかないようです。西住まほも、机が1つだけでは足りない、と指摘しました。待ってました、とばかりに追加の机の納品を確約するケイでした。

 

 あっさりと追加の机が入ることになったのに驚いたカチューシャが再確認しましたが、ケイは「オフコース」と答えて追加の机の納品を約束しました。さすがの西住まほも、サンダース大付属高校の豊富な物量に驚かざるを得ませんでした。  (続く)

 

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龍と仁と天と6 仁和寺御殿

2021年11月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 仁和寺御殿のうち、黒書院はじっくり見学した。御殿は前述のごとく明治二十年(1887)に焼失し、明治末期から大正初期に再建されているが、黒書院だけは再建にあたって花園にあった安井門跡(やすいもんぜき)の宸殿を移築して改造した江戸期の建物なので、文化財的価値も高い。

 安井門跡(やすいもんぜき)は、正式名称を蓮華光院(れんげこういん)といい、鎌倉期の正治二年(1200)に後白河天皇の第一皇女・亮子内親王(りょうしないしんのう)が弟・以仁王(もちひとおう)の第二王子・道尊(どうそん)を開基として太秦安井の御所・安井殿に創建した門跡寺院である。その七年後の承元元年(1207)に道尊は仁和寺別当に就任、安井門跡蓮華光院は仁和寺の院家に列した。のち東山に移転し、明治期に廃絶したが、旧鎮守の安井金比羅宮が現存して観光の名所の一つになっている。

 その安井門跡の宸殿が花園にあったのは、安井門跡蓮華光院が戦国期の天文三年(1534)から大覚寺に属したからである。いま大覚寺に移築されて安井堂(御霊殿)となっている旧御影堂も同じく安井門跡蓮華光院の遺構であるが、ほぼ同じ江戸期の建築で、造作や設えも似通っている。

 ともあれ、かつて仁和寺の院家に列した安井門跡蓮華光院の数少ない建築遺構が、いまの仁和寺御殿の黒書院である。一般的には堂本印象(どうもといんしょう)の障壁画があることで知られるが、建物自体も旧門跡系の御殿建築なので、見応えがある。

 

 黒書院から通廊を経て宸殿の南側に回った。白砂の石庭が勅使門と二王門を借景として広がるが、龍安寺の石庭とは対照的に明るくて広くて謎めいた雰囲気は微塵も無い。庭石も全く置かれない。正式名称は「南庭」で国の名勝に指定されている。

 

 宸殿の南縁にて腰を下ろして一休みした。拝観客も疎らな時期であったから、広い御殿内に我ひとり、という感じであった。コロナ流行前であったならば観光客で賑わっていたであろう。

 

 宸殿の東側へ回ると、江戸期の池泉鑑賞式庭園である「北庭」が見えてきた。こちらも国の名勝であるが、いかにもそれらしいのびやかな作庭状況をとどめて見応えがある。

 

 「北庭」は、伽藍の五重塔を借景にしていることもあり、仁和寺御殿の中心的な庭として位置づけられている。宸殿の前庭ともなっており、仁和寺御殿見学順路のハイライトである。

 

 宸殿より「北庭」の西側ごしの高台に霊明殿が見えた。明治四十四年(1911)の建立で仁和寺歴代門跡の位牌を祀るが、本尊はかつて仁和寺の院家のひとつであった喜多(北)院の本尊・薬師如来坐像(秘仏)である。

 私は仏教彫刻史専攻だったので、この薬師如来坐像も三度ほど拝する機会があったが、いまでも鮮やかに記憶に残っている名像の一つである。大学生だった頃の昭和六十一年に、京都国立博物館の調査で初めて見出されたので、当時の新聞紙上でも秘仏発見の速報を見た記憶がある。
 この像は、像高11センチ、光背と台座を含めても24センチほどの白檀材の小像であるが、光背には七仏薬師像と日光菩薩・月光菩薩、台座には前後左右各面に三体ずつの十二神将を表す入念な作である。藤原期の康和五年(1103)に白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師の円勢と長円が造像したもので、平成二年に国宝に指定された。画像はこちら

 

 宸殿の北広縁。宸殿自体は大正三年(1914)の再建である。

 

 宸殿の東側の釣殿。「北庭」の鑑賞スペースとして設けられたものか。

 

 北側の通廊をへて黒書院の北側に回ったところで東を振り返った図。宸殿の全容が望まれた。

 

 宸殿前の「北庭」の西側へ通廊を上がっていった。

 

 霊明殿は非公開なので、見学順路はここまてで折り返した。一礼して秘仏薬師如来坐像の鮮やかな記憶にしばし浸った。

 

 霊明殿の西下、黒書院の北側の庭は、苔の庭であった。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)大洗女子学園 あんこうチーム Ⅳ号戦車D型

2021年11月06日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.96 (商品コード35096)

  制作期間   2013年10月16日~11月4日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その14 完成です!!

  総評・備考
 タミヤのⅣ号戦車のキットとしては古くから販売され、最もよく知られている製品である。モーターライズキットとして開発されたため、内部に電池やモーターなどの取り付け指示などが残り、寸法も僅かに大きい。出来は非常に良いため、40年余り経った現在でも販売されている。車外装備品などの細部パーツはモールドが甘く、ディティールアップ用のパーツセット「ドイツIV号戦車 車外装備品セット 品番35185」がタミヤから発売されているので交換して使用する場合が多い。パーツ数は適度におさえられて組み立て易く、初心者クラスでも楽に作れるキットの一つであり、ガルパン劇中車の適応キットとしてもよく知られる。

  公式および適応キット一覧(2021年10月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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戦車工場、作ります!! その31

2021年11月05日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン戦車工場B棟に入れる機材、備品の調達はサンダース大付属高校のケイが一手に引き受けました。学校に在庫が大量にあるそうで、長崎からC-5ギャラクシー輸送機で運ぶのだそうです。
 その最初の機材、備品は、上図のタミヤイタレリ発の野戦整備チーム装備品セットでした。ジオラマ製作によく利用されているポピュラーなセットだそうですが、ドイツ軍版とアメリカ軍版とがあり、なぜか中身は両者共通であるらしいのです。

 

 今回ケイが用意したのはドイツ軍版でした。中身はイタレリとタミヤのキットが入っています。上図はイタレリのキットで、整備チーム装備品の大半が含まれています。

 

 そして、イタレリのキットに無い一部の装備品にドラム缶、ガソリン缶を加えたキットをタミヤが追加しています。

 

 なので、イタレリとタミヤのキットを併せて作ることになります。

 

 組み立て開始から塗装完了まで5日を要しました。上図は4日目の状態で、クレーンだけが未塗装のままでしたが、5日目に塗装して仕上げました。  (続く)

 

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龍と仁と天と5 仁和寺へ

2021年11月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 龍安寺を辞して、市道183号線「きぬかけ路」を西へ下り、上図の仁和寺東門をくぐった。仁和寺へは、平成10年の秋季寺宝展に行って本尊薬師三尊像以下を拝観して以来、24年ぶりの訪問であったが、寺のたたずまいは余り変わっていない気がした。

 

 今回は、まだ入ったことの無い本坊御殿エリアも見る予定であったので、まっすぐに本坊表門を目指し、途中で上図の勅使門の前を通った。古そうに見えるが、大正二年(1913)の建築である。

 

 本坊の表門に着いた。 慶長年間(1596~1615)の建立にて、国重要文化財に指定されている。もとは京都御所の女御御里御殿(にょうごおさとごでん)の西御台所門(みだいどころもん)であったもので、徳川家康の孫娘の徳川和子(とくがわまさこ)つまり東福門院の入内に際しての元和四年(1618)からの御殿新規造営により、旧の門が仁和寺に移されたとされる。

 

 本坊に入る前に一度表門のほうを振り返ったところ、二王門がその後ろに大きく見えた。なかなかの迫力であったので、つられて写真を撮った。

 

 本坊の御殿の東に白砂利を敷き詰めた石庭が広がるが、その北側の景色は伽藍の五重塔を借景として採り入れており、御殿の建築群とあわせて一枚の絵になるような景観が実現されている。

 

 ほぼ同じ位置から東側を見ると、左手前に勅使門、右奥に二王門が望まれる。

 

 本坊御殿は、宸殿、霊明殿、黒書院、白書院から成る建築群である。これらはもと寛永年間(1624~1645)の御所(現京都御所)建て替えに伴って旧の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され移築されたものであるが、明治二十年(1887)に焼失し、明治末期から大正初期に再建されている。

 

 なので、再建とはいえ、現在の京都御所が造営される前の御所の建築群の様相を目の当たりに出来るわけである。5日前に京都御所の一般参観に行って安政二年(1855)の再興造営になる復古建築群を見てきたばかりなので、それ以前の御所の景観がある程度うかがえるというのは、興味深いことであった。

 

 白書院から北へ延びて左右に分かれる通廊。時代劇や映画のロケによく使われていたとかで、既視感があった。昔は時代劇ものが本当に好きで、「大岡越前」や「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」をよく観ていたので、ここでの場面と思われるシーンも幾つか思い浮かぶのであった。

 

 通廊を左へ曲がると黒書院。いまにも徳田新之助が現れそう・・・。

 

 通廊を右へ曲がると宸殿であるが、個人的にはどうしても昔に観た時代劇ドラマのあの場面、とかを思い出してしまい、一人で笑ってしまった。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)大洗女子学園 アリクイさんチーム 三式中戦車チヌ

2021年11月03日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ファインモールド 公式キット (商品コード41102)

  制作期間   2013年10月16日~11月4日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その14 その15 完成です!!

  総評・備考
 ファインモールドは多くの日本軍戦車および車輌をキット化しているが、そのうちの三式中戦車チヌのキットを公式キットにしたのが今回製作した品である。元キット(下のキット一覧の3)にガルパンのデカールを付けた内容であり、パーツ数も適度におさえられる。国産製品の常で組み立て易く、ガルパン仕様に仕上げる場合の改造、修正も楽なものばかりである。初心者クラスでも楽に作れるキットの一つであり、ガルパン劇中車の再現工作の入門キットとしてもおすすめである。

  公式および適応キット一覧(2021年10月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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知波単学園 九五式小型乗用車(福田車) 作ります!! その4

2021年11月02日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11およびステップ12では幌や予備タイヤを取り付けます。幌のC45は展開状態と格納状態の2つのパーツのいずれかを選びます。ここでは劇中車に合わせて幌を展開状態にしますので、ステップ11の作業を選びます。ここでのガルパン仕様への追加工作は1つ、幌の形状の修正、です。また背面の予備タイヤは劇中車にありませんので不要です。

 

 劇中車のシーンを改めて確認しましょう。幌の形状がキットパーツのそれとは異なっているのが分かります。側面上端が水平になり、側面窓が方形になっています。そして予備タイヤは未装備であるので見えません。

 

 ステップ11で組み合わせるパーツ類です。いずれも塗装後に取り付けますので、ここでは幌のパーツC45をガルパン仕様に改造します。

 

 幌のパーツC45の改造前の状態です。側面窓が角の丸い三角形になっているほか、側面上端が斜めになっています。これらを手直しして劇中車に合わせます。

 

 側面上端が斜めになっているのを水平に削って直しました。

 

 側面窓の形状を、上辺が水平になる方形に削って改造します。反対側の側面窓は改造を終わっています。四辺を少しずつ削り拡げていき、上図のように下辺が斜めに落ちる方形に変えました。

 

 改造を終えて車体に仮組みした幌の様子です。側面の形状が劇中車のそれになりました。幌の窓は背面にもありますが、劇中車のそれは一部が見えるだけで大きさが分からないため、そのままにしておきました。

 その後、ステップ1で迷ったガルパン仕様への追加工作1つを実施することに決めました。前照灯のレンズ部分のパーツA21を仮組みしてあったのを、取り外しました。

 

 その理由は、御覧のように劇中車の前照灯のレンズ部分がパーツA21よりも大きく見えるからです。パーツA21はこのようにライトのA14およびA15の周縁部までは及んでいないので、レンズ部分が小さく見えます。その違和感がどうしても拭えませんでしたので、追加工作にふみきりました。

 

 パーツA21の代わりに、ウェーブのアイズのクリアパーツセットからライトのA14およびA15の直径に合うクリアパーツを調達しました。上図の丸い透明なパーツ2個です。これらを塗装後に取り付ける予定です。  (続く)

 

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龍と仁と天と4 龍安寺の弁天島にて

2021年11月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 龍安寺の方丈および石庭の拝観を終え、庫裏の玄関より退出して参道石段を引き返し、境内地の東側へ寄った。そうして上図の塔頭大珠院(非公開)を外から拝した。龍安寺の境内地内に所在するが、現在は妙心寺の塔頭となっている寺である。

 

 大珠院は、室町期の明応二年(1493)に洛中にて大珠寺として創建されたが、戦国期の天文年間(1523~1555)に龍安寺境内に移って大珠院となり、その後に一度廃絶している。
 その廃寺に、慶長五年(1600)の関ヶ原戦で石田三成に従って敗れ没落した、豊臣氏家臣の石川貞清が身を寄せて寺を再興した。石川貞清は妻の龍光院、子の藤右衛門重正、藤右衛門重正の妻おかね、縁者の竹林院と共に大珠院に住んだという。龍光院は大谷吉継の妹、おかねは真田信繁(別名幸村)の娘、竹林院は大谷吉継の娘とされるので、当時の大珠院は関ヶ原戦西軍諸将の遺族たちの集まりであったわけである。

 

 大珠院から西へ回って鏡容池のほとりを南へ進みつつ、大珠院の堂宇を池越しに望んだ。大珠院の隣の西源院は前述のとおり方丈の建立に織田信包が関わっているから、これも関ヶ原戦西軍の敗将同士であったわけで興味深いものがある。

 ただ、織田信包は西軍に属しながらも徳川家康に罪を問われず、所領を安堵された後、大坂城にあって姪孫である豊臣秀頼を補佐した。その関係で慶長十一年(1606)の西源院方丈建立に関わったわけであるが、八年後の慶長十九年(1614)の大坂冬ノ陣直前に大坂城内で急逝している。

 こうしてみると、龍安寺には豊臣家ゆかりの人々が多数関係していた歴史が理解される。大珠院においても、おかねが両親真田信繁夫妻の墓と五輪塔を建てさせて供養したほか、関ヶ原戦西軍の英霊をまつったと言い伝えられる。

 

 おかねが祀った真田信繁夫妻の墓は、大珠院の境内地となっている上図の鏡容池内の小島にあるというが、龍安寺の寺史「大雲山誌稿」によれば同じ島に関ヶ原戦西軍大将石田三成の首も葬られたという。
 大珠院を再興した石川貞清は、石田三成の義兄弟であった石川頼明の弟であり、その石川貞清の子の藤右衛門重正が石田三成の首を鏡容池内の小島に埋葬した、と「大雲山誌稿」は伝える。

 

 史実とすれば、大変に興味深いが、現在の通説では、石田三成の墓は大徳寺三玄院にあるとされる。そこに埋葬されているのは首以外の胴体、ということになるのであろうか。謎は尽きない。

 

 そうなると、鏡容池のなかにある他の島にも、誰かの墓があるのではないか、という気がしてくるが、寺務所に尋ねても「ありませんよ」の一点ばりであった。第一、上図の伏虎島には舟が無いと渡れないので、墓の有無を確かめたくても出来ないのであった。

 

 だが、上図の辨天島には渡れるのである。鏡容池にある三つの島のうちの真ん中の島で、弁天社が祀られているので、その参詣者向けに橋が架けられている。

 

 早速、その弁天島に向かった。上図の石橋を渡れば島に行けるのであり、石橋の奥に弁天社の朱鳥居も望まれた。

 

 辨天島の弁天社はこじんまりとした祠で、覆屋がかけてあった。島の中央ではなく、やや南寄りに鎮座しているのには何らかの事情が介在しているように感じられた。

 

 弁天社に向かって右脇には墓碑や石仏が並ぶ。やはり弁天社だけでなく墓地もあるので、ここも関ヶ原戦西軍関連の墓碑もしくは供養碑なのだろうか、と感じた。寺務所に尋ねた際に「墓なんてありませんよ」と一蹴されたが、上図の二つのいわくありげな石造物は、どう見ても墓碑の類にしか見えない。墓碑でなければ供養碑であろうし、それ以外の何ものであるかは考え付かなかった。

 

 向かって右の石には「金剛般若経」や「普門品」の語句が刻まれるので、金剛般若経の名号碑であるようだった。いわゆる念仏名号碑の一種で、多数の死者を供養する場合に造られる供養碑の一種とされる。ここの碑がまつる多数の死者とは、果たして関ヶ原戦西軍とは無関係なのであろうか、としばらく考え込んだ。

 

 さらに気になったのが、左の石が何も刻まない「無名墓碑」の一種であることであった。文字通りの自然石を用い、表面にも背面にも何も刻まれていないのであったが、碑前には花が供えられて墓石であることを示していた。

 無名墓碑は、事情があってあからさまに名を出せない死者、または名を伏せておきたい死者、の墓石であることが一般的なので、いま完全に名を知られない誰か、もしくは多数を供養するものであることは間違いない。大珠院の人々といい、石田三成の首といい、関ヶ原戦西軍の関係者ばかりがここには集まっている感があるので、どのように想像をめぐらしてみても、それ以外の候補を思いつかないのであった。

 なので、関ヶ原戦西軍のほうに個人的思い入れがある身としては、襟を正し脱帽の上、最敬礼で合掌し祈るのが、精一杯の対応であった。  (続く)

 

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