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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く19 その29  飛龍橋にて

2021年07月19日 | ゆるキャン△

 寸又峡プロムナードコースの最奥部に進み、飛龍橋へと近づきました。かつての千頭森林鉄道の軌道跡であり、飛龍橋もそのまま車道の橋に転用されています。

 

 寸又峡プロムナードコースの各所で見かける落石は、飛龍橋の前後の範囲で数が多くなります。千頭森林鉄道の運行も落石と戦いながらの歴史であったといいますから、付近の岩崖などがもともと脆いのでしょう。歩いていて、上からカラカラッと小石が転げ落ちてくるのを二度見かけましたが、大きな石ですと怪我のもとになりかねませんので、なるべく崖面とは離れて、上を注意しながら歩きました。

 

 飛龍橋の北詰で道が分かれます。右の道もかつての千頭森林鉄道の大間川支線の軌道跡であるそうです。現地には上図の道標が立っています。ここから前黒法師岳への登山口へ行けます。

 

 ですが、道の入り口は御覧のように封鎖されていて、少なくとも車輌の通行は禁止であるようです。道そのものが廃道に近づいていて崩落や損壊などが各所にあるそうです。

 

 分岐から左に行けば飛龍橋に進みます。かつての千頭森林鉄道の本線跡です。その大間駅跡から尾崎坂停車場跡までの区間が現在の寸又峡プロムナードコースにあたりますが、現地ではそういった情報が観光案内板にも記されていません。

 

 飛龍橋の北詰に休憩用ベンチがありました。時計を見ると6時49分でした。この日の散策ルートの最奥部に、予定した二時間ちょっとの散策タイムの半分以下で到達出来ました。飛龍橋からの片道が約30分とされますので、これから温泉街に戻って宿まで行けば、7時半前に着く勘定となります。
 ですが、宿での朝食を8時に頼んであったので、それまでにゆるゆると戻れば良いのだと考え、飛龍橋からの帰路はスピードを落としてのんびりと進むことにしました。

 

 なので、飛龍橋の北詰のベンチにて5分ほど、お茶を飲みつつ休憩しました。朝の寸又峡渓谷を吹き抜ける山風が時折サーッと来て、少し寒いぐらいに感じられました。

 

 ふーん、寸又峡プロムナードコースは平成16年に再整備されて現在の状況になったのですか・・・。

 

 飛龍橋から大間川を見下ろしました。高さ70メートルであるというのを忘れてしまい、うっかり下を覗きこんでしまったので、一気に足がガクガク、背中がゾゾゾッと来て柵にしがみつきました。そんな状況でよく撮ったな、という一枚。

 

 ですが、景色は御覧のとおり、なかなかの秘境感があります。いかにも奥静といった感じで、奈良県に例えれば吉野の十津川渓谷を思い出させます。

 

 飛龍橋を渡っている途中で、一度北詰を振り返りました。

 

 渡って南詰に着きました。上図左の立派な銘板は、昭和8年に飛龍橋の初代が吊橋形式で竣工した際に、橋の命名者であった当時の帝室林野局長官の三矢音松氏の筆によるものを修復したとの事です。
 現在の橋は三代目にあたるそうで、昭和45年の竣工です。その前年に千頭森林鉄道が全線廃止となった後に、車道橋に架け替えられたものです。ちなみに二代目は昭和32年に初代の吊橋形式を改めてアーチ形に架け替えており、現在の橋はそのアーチ形を引き継いだもののようです。

 

 道理で、昭和初期の森林鉄道の橋梁というにはあんまり古さが感じられない筈でした。
 そういえば、昨日「さとう」の女将さんに聞いた話のなかで、昭和43年に寸又峡を舞台にした金嬉老事件というのがあって全国的に報道されたため、それまでは無名の秘境であった寸又峡が有名になって、観光地として大々的に宣伝し廃線跡も観光用車道に転用して車やバスも走っていた時期があった、という内容が印象的でした。

 いまでは一般車両の通行が禁止されている寸又峡プロムナードコースですが、かつてはバスも走っていた時期があったわけです。飛龍橋の下には寸又峡キャンプ場や展望台のある公園もあったそうで、昭和60年代まではそれなりに賑わっていたのだそうです。  (続く)

 

コメント
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