ココロの仏像

慈悲を見るか。美を視るか。心を観るか。

大和路のみほとけたち 4  額安寺虚空蔵菩薩半跏像 下

2011年10月09日 | みほとけ

 額安寺の虚空蔵菩薩半跏像を、寺では道慈の護持仏と伝える。道慈は額田部氏出身で額田寺の実際の開基である可能性が高く、日本に虚空蔵菩薩信仰(虚空蔵求聞持法)を請来した人物とも目される。額安寺が虚空蔵菩薩像を根本本尊とみなすのは偶然の一致ではなく、明らかに道慈以来の法灯を受け継ぐ寺であったことを示している。したがって現存の虚空蔵菩薩半跏像は、道慈の護持仏である虚空蔵菩薩像と何らかの関係があったとみられる。

 奈良仏教における道慈の業績は数多いが、彫刻史の面では大安寺金堂の霊山浄土変が有名である。金堂本尊丈六釈迦如来像の周辺に道慈が企画新造せしめた群像を「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では「即宍色菩薩ニ躯、即羅漢像十躯、即八部像一具」と記す。合計二十躯におよぶ仏像群を、本尊釈迦像および四天王像の周囲に配置して、道慈自身が唐にて止住した西明寺伽藍内陣の構成世界を日本に再現したのである。これは日本の主要寺院金堂内陣における浄土変群像表現の嚆矢ともされており、道慈が唐より導入した仏像観がその後の仏教美術に大きな影響を与えたことが知られる。    
 興味深いのは、この霊山浄土変群像の完成が天平十四年(742)であり、道慈の晩年期の事績であることと、そして群像二十躯の全てが「即」つまり乾漆造であった点である。道慈は、その晩年期に乾漆造の仏像造立事業に主体的に関与していたのであるが、同じ晩年期に額田寺に隠棲して、自身の学問研究の一環としての虚空蔵求聞持法を実践したと伝えられる。いまの虚空蔵菩薩半跏像が造られるには最もふさわしい環境である。

 写真のように、虚空蔵菩薩半跏像は天平時代の仏像には珍しい痩せ型である。一種の茫洋とした表情も他に例をみない。理想的な造形表現を目指した天平彫刻のなかでは最もそれらしくない像であると言っていい。従来の見解では天平時代末期ごろの作と評価されるが、その時期の仏像は一般的にやや肥満気味のがっしりした姿が多く、表情も森厳かつ独特の陰影をもつものが殆どであるが、額安寺像はいずれにもあてはまらない。木心乾漆造の技法によるが、外観の穏やかな印象はむしろ塑造の感覚に通じるものがあり、この手の造像としてはかなり古風を示していることが看取出来る。
 その古風とは、言い換えれば天平時代前期の作風にほかならない。木心乾漆造は一般に天平時代後期の技法と理解されているが、それ以前に無かったというわけではない。天平時代前期に既に木心乾漆造が採用されていたことを否定する材料がない限り、額安寺像を天平時代末期におかねばならない理由は見当たらない。これをふまえて額安寺像の成立時期を作風どおりに天平時代前期におくことは、現時点では可能なのである。

 さらに重要なことに、叡尊らの修理時に像の詳細が台座裏に記され、像が道慈の本尊であること、道慈が虚空蔵求聞持法の請来者であったことが明記される。叡尊もまた学識に優れた名僧であり、その公正かつ几帳面な性格からみて根拠の無い内容を記したとは考えられない。叡尊によって像の由緒が再確認され台座裏の銘文に残されたとみるべきである。この「保障」は大きな意味を持っている。
 すなわち、額安寺の虚空蔵菩薩半跏像は、寺伝通り道慈の念持本尊像であって、その造立時期を道慈の没年である天平十六年(744)以前に想定することは充分に可能である。手が逆ではあるものの「求聞持軌」に定める「与願印」および「蓮花茎上宝珠」の相に一致する点も、道慈の虚空蔵求聞持法の実態を伝えているのかもしれない。

 額田部の里から雄飛して唐と日本の仏教文化を結びつけた一人の傑僧道慈。その夢は、虚空蔵菩薩半跏像のなかにいまなお生きている。そのことを改めて実感出来たことが、額安寺での一番の収穫であった。 (了)

(写真の撮影および掲載にあたっては、額安寺様の御許可を頂いた。)


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