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戦場に投入された 若きヒトラー・ユーゲント

2015-09-01 16:47:05 | 出来事
国家の理想の下に捧げさせられた
ドイツ第三帝国の少年少女
最後は前線に立つ悲愴
Hitler Jugend / Hitler Youth




1.ヒトラー・ユーゲントの組織

ドイツではかねてから「民族老化」「青年神話」の思想があった。家庭や学校で抑圧されている青少年を一時的に解放し、自己教育に差し向けるためとして、20世紀初頭にはヴァンダーフォーゲル活動などが広まった。
参加は強制されるものではなく、規律もほとんどなく、本人の意志による自己教育の場として提供されていた。
それは、「老害」からの解放が目的であり、青少年による青少年の指導を根幹としていた。
さまざまな青年活動が組織され、旧来からのカトリック系の団体や、ブルジョワやエリートの子息が中心の同盟「青年」、労働者家庭の子らが所属する共産主義系、社会主義系団体など、階層によりある程度、分断されていた。

他方、20世紀初頭はナチの台頭があり、ナチ党にも青少年組織が結成される。
貴族出身でナチ党員のシーラッハが主導して組織し、当初は他の青少年活動と変わらず、週2回、水曜土曜の午後と、月1回日曜の週末キャンプ、夏休みは10日間の合宿を行うものだった。
10~13歳男子の少年団と、14~18歳男子の青年団があり、女子は別で同様に組織されていた。

キャンプ 週末月1~2回行われていた

会議 ナチスの思想について学ぶこともあったがそればかりというわけではなかった

人形劇の鑑賞

標準的なユーゲントの制服


心を沸き立たせる行動を他の仲間と一緒にできる可能性、重要な人間なったという感覚に青少年らは虜になる。
その上、従来の、個人による自己教育を重視する青少年活動とは異なり、ヒトラー・ユーゲントは、階級対立、大量失業のない民族共同体を目指しているナチの世界観と規律もたたきこまれ、若者のヒロイズム、犠牲的精神、冒険心、青少年の理想主義に強く訴えるものであった。





Jungvolk(Deuche Jungvolk)はHitler Jugend入会前の10~13歳の男子の組織

貧しい家庭の子には、家庭ではできない体験と、都市ブルジョワ層のくらしの一片を垣間見る機会を得たこと、そして労働者の子もエリート階層の子も同じ組織で対等の扱いを受けることが何より喜ばしいことだった。
一方、ブルジョワ家庭の子のこんな談もある。


僕は、労働者の子供たちからなる中隊のなかで、三人しかいないブルジョワ層の子どもの一人だった。たとえば、僕には、絶えずあやまったり、ありがとうと言ったりする習慣があった。そうすると、僕はすぐに口元に一発くらった。そんなブルジョワ的な言い方をしてはいけないというんだ。ブルジョワ的というのは、ナチズムの階級的な罵りの言葉だった。





地域ごとの組織で旗手になるのは名誉なことだった


ヒトラー・ユーゲントは、ヒトラーの名を冠しているものの、ヒトラーが結成したものではなく、シーラッハが主導し、ヒトラーの側近の地位を狙って組織し、捧げようとしたものである。ナチ直属の組織にすることには、周囲もヒトラーも、当初は抵抗を示した。
しかし、党のさらなる台頭とともに、ヒトラー・ユーゲントの台頭も進み、既存の青少年団体との対立も激化しており、それを鎮めるためにユーゲント内にパトロール隊を結成する。
やがて、ヒトラー・ユーゲント以外の青少年活動団体全ての解散と若者全員がヒトラー・ユーゲントに入隊するよう、1939年、法律で定められた。

シーラッハ ナチス党員 ヒトラー側近の一人

シーラッハ(右)とアクスマン アクスマンがユーゲントを引き継いでから積極的に戦場に駆り出されるようになった


パトロール隊には、長じてユーゲントを脱退するときに、優先的に突撃隊(SA)や親衛隊(SS)に入隊する資格が与えられた。親衛隊には、人種的、身体的に厳しい入隊基準がある。そのため、パトロール隊員になるにも厳しい選抜基準があった。
また、戦争開始に伴い、年長の隊員は国防軍に志願することを望まれ、ユーゲントも国防軍の後方支援にやられることとなった。
危険の少ない海軍部隊、自動車部隊、航空部隊など特別組織には裕福な家庭の子らが配属された。

ハノーファー家の子女がプロパガンダに登場している 左よりフリデリキ、ヴェルフ-ハインリッヒ、クリスチャン-オスカー
彼らの母は元ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の末子で一人娘ヴィクトリア-ルイーズ
フリデリキはのちにギリシャ王妃となり、娘は前スペイン王妃ソフィアである


クリスチャン-オスカー
国防軍ルフトヴァッフェに所属した
彼と二人の長兄が敵国ドイツ国防軍だったこともあり、ギリシャでフリデリキは非難された


ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の6男1女







海軍所属のヒトラー・ユーゲント


パトロール隊やユーゲントのリーダーになるためには結局、階層が反映されることになり、組織に反感、幻滅するものも生まれた。それがやがて、モイテン、エーデルワイス海賊団、スウィング青年などの、ヒトラー・ユーゲントに対する抵抗組織を生むことになる。

また、ユーゲントの地位が高まると、父親や学校の権威が失墜し、若者の数々の逸脱や狼藉を抑えるものがいなくなった。
生徒がドイツ少年団の制服を着ている時には、教師はその生徒を殴ってはならない。殴るどころか、学内に数名存在するユーゲントリーダーの権力を考えると、口も手も出せず、冷や汗をかきながら、教師は指導せねばならなかった。


2.戦時中のユーゲント



戦時中にユーゲントが割り当てられた活動は以下になる。

1.党活動や伝令、守衛
2.国家や地方自治体のための活動 食料切符、消防、警察、難民移送
3.国防軍のための活動
4.住民への食料や石炭の配給を保障するための活動
5.冬期救済事業 募金、工作、衣類の収集
6.廃品回収
7.薬草や野生の果物などの収集
8.農業労働や収穫作業における手伝い
9.社会奉仕活動
子だくさんの家庭での援助、幼稚園での手伝い、病人や老人の世話など、女子
10.文化的活動
住民の士気を高めるための演劇や音楽会の上演
11.東部占領地域への動員


農場での労働奉仕

水晶の夜事件ナチスによるユダヤ人迫害
ユダヤ人の経営する商店やシナゴークを夜間に打ち壊し、ヘブライ語の本、ユダヤ人による著作物などを燃やす
ユーゲントも手を下していた


路上でユダヤ人に歯ブラシなどで石畳を掃除させる、その惨めな姿を嘲笑するのが目的
写真で、ユーゲント団員が関わっていることがわかる



隊員たちには青少年奉仕義務、労働奉仕義務、兵役奉仕義務があった。義務を果たさない場合は150マルクの罰金となる。
青年男子が戦地に向うため、人員が不足し、女子がリーダーとして活躍していた。
東部占領地域の学校での授業、学童疎開キャンプ指導などで東部占領地域への出向した者たちは、戦争末期に、ちょうど日本の満蒙開拓青年団の辿った末路と同じ運命になった。

業務の一例として、14歳男子ユーゲント隊員の防空任務という奉仕活動をあげる。
午後帰宅後、6時に再登校、電話のついた防空壕でラジオを聞いて起きているという、徹夜に耐えるための訓練、となっている。
次第にこれは訓練ではなく、実際に夜間の空襲での高射砲隊員として実戦参加となった。


3.銃後から前線へ

戦争の長期化、激化に伴い、ユーゲントの役割も変わっていった。
戦時中のヒトラー・ユーゲントの毎年のスローガンにその推移が見て取れる。

1940 実証の年
1941 僕らの生活はリーダーへの道
1942 東部占領地域への動員と農業奉仕
1943 ドイツ青少年の戦争動員
1944 志願兵の年
1945 ヒトラー・ユーゲントによる前線援助と戦争動員

ドイツ軍の圧倒的な人員不足のため、ユーゲントから部隊を組織することとなった。
その最初で最後の部隊が、第12SS装甲師団である。ドイツ人のみで構成された最後の武装SS師団であり、構成は16歳以上の10代の兵士がほとんどだった。
当時動員された少年の、その後の回想を引用する。

僕たちは参加したいと親に圧力をかけた。そこでもらえるかっこいい制服が自慢だった。僕たちは兵士になりたかった。軍服を着れば大人の男だった。

若者特有の正義感、トップエリートであるSSの制服への憧れが、首尾よくマッチした。



SSの制服



ユーゲントによる年少部隊結成の情報を得た連合軍側は「ベイビー師団」と名付け、哺乳瓶をあしらった旗印を与えて嘲笑していた。
SS12の最初の戦闘はノルマンディー上陸防御となる。その初戦で、嘲笑していた連合軍は青ざめることとなった。
ベイビー師団の戦闘能力は高く、連合軍側では数週間で突破できると読んでいた作戦に3ヶ月以上も手こづってしまったのである。
幼いころからユーゲントの隊員は、「血と名誉」を刷り込まれ、忠誠心が高く、相応に士気も高い。捕虜になるよりは闘い続けての死を選ぶ、おそるべき「ベイビー」たちだったからだ。
SS12はノルマンディーでの3ヶ月のあいだに半数以上の死傷者を出しつつ、終戦まで闘った。
終戦時には、当初20540名だった戦員が455名までに減っていた。



15歳以上男子は志願を勧められる
まだ小さい身体で武器を操作したり弾薬を運んだりした


オートバイ部隊は15歳以上のHJ隊員から構成する


携行型対戦車砲パンツァーファウスト
国内での決戦を目前にし、ユーゲント隊員達に進軍してきた戦車に対抗させる主な武器
小さい身体には扱いが相当困難で、大けがをするリスクが高い


擲弾補助員



ノルマンディー上陸を困難にさせたSS12だが、圧倒的武力の差により数を減らし、投降となる
降伏者4人に対し1人はその場で処刑、3人を捕虜にしたらしい
下の写真は暴行で殺されたように見える




4.ヒトラー・ユーゲントの最期

一方、少年団はもっと過酷な運命にあった。
16歳~60歳男性は国民突撃隊(フォルクスシュトルム)に、15.16歳は特別部隊(ヴェアヴォルフ)、13歳は兵器工場に動員。
のちに12歳から国民突撃隊に動員される。
15歳以上は全員、兵に志願するよう呼びかけられた。






航空ユーゲント、オートバイユーゲント、グライダー、ヨットなどの部隊へ配属されていた良家の息子たちも前線へ立たされた。
各戦端で少年や老人が死闘に挑む一方、ヒトラーはすでに廃人同様になり、想像を絶する終末期な考えに取りつかれていた。

戦争が負けとなれば、国民も終わりである。ドイツ国民が最も原始的な生存を続けるのに要する基盤など考慮する必要は無い。むしろこれらのものを自ら破壊したほうがましである。なぜなら国民は弱者であることを証明したからである。未来はもっぱら強者である東の民族のものとなる。それにこの戦いの後に残るものはつまらぬ連中だけである。なぜなら優れた者は死んだからだ。


ヒトラーは残った弾薬は全て国内に打ち込めと命令したが、側近が必死で止めた。自暴自棄を越えて、狂気である。これに従ってきたドイツ国民たちこそ悲劇である。
ヒトラーはその後、自殺した。


もはや連合国軍は、各国で首都制圧争いに乗り出す。
どの国が先にベルリンを制圧するか。各方面からベルリンが目指されたが、一番乗りはソ連だった。
ベルリンまでの各都市では、制圧に対して国民突撃隊が無闇に抵抗したため、無駄な犬死だけでなく、報復で市街地を焼かれるなど、被害を大きくしてしまった。
ベルリンでも果敢な抵抗は続けられ、制圧されるまでには想像以上に時間がかかった。
武器もわずかな手榴弾程度のものしかなく、ソ連の戦車が向かってくるのに対し、ほとんど身一つでの応戦をするのは少年たちなのである。
折り重なる死体を見て、連合軍は、そのあどけない顔、手先がかくれるほどの長い袖の大人の軍服姿をした少年たちに驚愕した。










戦争終結後、拘束された少年たち。
涙する者、悄然とする者。
彼らは何を思ったのか。
戦死したユーゲントたちは死のときに何を思ったか。
その親たちは何を思ったか。

彼らは最善を尽くした、彼らの考えうる限りの最善を。
知らなかったのは自分の命の重みだろう。命は差し出すものと教え込まれてきたためだろう。
そして、自分の命の重みを感じることがなかったのと同様、他者の命の重みも知らされなかった。
民族の純潔のために、それを妨げる人間の存在を否定することに抵抗を感じない。

戦争そのものには、自分が殺される可能性が一番心配されるが、他者を殺す可能性を孕むことを見落としがちである。
人間性が失われていくこと、憎悪が増大し、報復の応酬が際限なく繰り返される。そして、勝者敗者ともに多大なものを失って戦争終結を迎え、不平等な講和が新たな憎悪を生み、民族の心の底に新たな戦争の芽が生まれる。民族間の紛争は今なおくすぶり続けている。

時代に呑み込まれて次々に死んでゆく若者を憂えて、こんな思いを抱いた人がいた。
1944年、オースターベーク(オランダの、マーケット・ガーデン作戦が展開された地)のケーテ・テア・ホルストの回想より。



彼らはみな、こんな銃弾の嵐の中で死に赴かねばならないのだろうか?神よ、われわれに一瞬の静寂、平穏をお与えください。彼らが平和に死んでいけますよう、たった一瞬でもかまいませんから。

死が逃れられないのなら、せめてその死が静かに向かえられるものであって欲しいと願う。しかしおそらくそれは、戦地でかなうものではなかっただろう。















考察

ソ連軍が首都を制圧しにくる。皆が建物に影を潜めているとき、通りでひとり大泣きしている少年がいる。
12、13歳ほどの少年が、大きな鉄兜をかぶり、手に手榴弾を持って。いたたまれず声をかけた者に、少年は言う。通りがかりの男性に、敵が来たらお前はこれを持って戦車に突っ込めと、鉄兜を被され手榴弾を握らされた、と。
でも、どうやって使うのかもわからない。
そう言って泣いていた、と。
この少年の悲しさ。

簡単に死を強要される、命の軽さ。
どのみち拒否しても銃殺される、泣いているだけでも殺されるかもしれない。
それでもどうしようもなく泣いていたこの少年を、だれも抱きしめてあげられない。
未来から、過去のすべての経過を知る者として、私がその少年のところへ行って、寄り添って手を取って、涙を拭ってあげたいと思う。
しかし、もし私がその時代に生きる者のうちの一人だったとしたら、彼に手をさしのべただろうか?

その時代の空気の中に置かれなくてはわからないことがある。

しかし、以下のエルンスト・ユンカーの言葉に力を得て、過去の彼らの悲しみ尽くした心のために、私は日々彼らのことを思い遣る。見たわけでもないのに、手榴弾を手に泣いている少年の映像が心に焼き付いているために。

「おそらくわれわれも今日こうして過去の祈りによってだけでなく、われわれの死後に唱えられる未来の祈りによって生きているのである」


戦地から戻ってみると我が家も家族も失われていた


真面目な犠牲的な姿勢が
平和に直結するとは限らない。
それが正義であると?

戦争では、銃後を守らなければならない。
どんな手を使っても良い。戦闘の正当性もヒロイズムも無用だ。

ユーゲントのSS12はよく戦ったが、目前の戦闘に勝つことにこだわり、自ら無駄に消耗していった。それが戦争に勝つことには繋がらない。
戦争と戦闘の違いを分けて考える。戦争には、戦闘だけでなく、経済も外交も、その土俵を持っている。
また、勝つにしても負けるにしても引き時を見誤ってはならない。



以下は、戦争末期の、名もなき者の書いた野戦郵便からの引用である。

「あらゆることについてよくよく考えてみると、次のことだけは言わなくてはなりません。我々は何としても戦争を阻止しなければならなかったということ、そしてあのような大口はたたくべきではなかった、ということです。我々はロシアとの戦争は阻止しなければなりませんでしたし、モロトフがベルリンを訪問したときには、彼らの希望を受け入れるべきだったのです。」
(検閲はあったがたまたまこのような内容のものもすり抜けることもあった)

ヒトラー自身が言った。
「真面目なヒトラー・ユーゲント団員がいなければ、戦争はもう少し早く集結し、犠牲や破壊ももっと少なくてすんだかもしれないのである」

自ら彼らを戦場に送りながら、何ということを言うのだろう。
悲しいことに、それは事実だ。
しかし、彼らを犠牲にしておきながら、犠牲を、破壊を、彼らのせいにすることは絶対に許せない。ユダヤ人に対して為したこと以上に、このことは、私には許せない。








同じ同盟国として諸大国を相手に戦ったドイツと日本。なぜ戦争することになったかの原因も似ている。どちらの国も持たざる国であった。資源、領土を持たぬ国、そして植民地争いに遅れて乗り出し、あえなく帝国主義国に駆逐された苦い経験があったためだ。
第二次大戦はどの国も総力戦であり、戦力によらず国力に左右される戦いであった。戦勝国のイギリスでさえも底まで落ちた。
国粋主義のもと、厳しく言論統制され、大本営発表は苦しい戦況をひた隠し、国民に奉仕を強いて、逆らえば非国民として収監される。ドイツも同じだ。国民への締め付けがどんどん厳しくなり、自分が密告されないために他人を密告する。ユダヤ人がスケープゴートとされたように、朝鮮人、韓国人を弾圧する。若者を前線に駆り出す。
実際には、敵国と国境を接し、最終的に市街地戦となったドイツは、本土決戦をする前に終戦した日本に比べれば、一層過酷な恐怖に晒された。
首都が制圧され、略奪の限りを尽くされ、女性は幼女から老女までもが繰り返し強姦された。
戦争の恐怖を肌感覚で体験した。かつて蹂躙してきた近隣諸国でしてきたこと。

国民を戦死させるような国家のどこに大義があろうか。ならば国民を死なせないためとして、他国民を殺すことに大義はあるのか。
戦争は人を殺すことでしかない。
武器は人を殺すものでしかない。
(脅かすものとして使えば良いと?)










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