玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

存在とは

2014-11-16 15:44:07 | Weblog
フランスの哲学者ドゥルーズはかく言う。
「存在とは創造性である」と。

またベルグソンはこう言う。
「もしわれわれが創造されるものと創造するものというふうに分けて考えるならば、創造という観念においてはすべてが曖昧になってしまう。~中略~そこには事物が存在するのではない。そこには行動だけしか存在しない。~中略~このように定義されるならば、神は出来上がった何ものももたない。神は不断の生命であり、行動であり、自由である。またこのように考えるならば、創造は一つの神秘ではない。われわれが自由に行動するやいなや、われわれは自己のうちに創造を体験する」と。

そして以下のようなことが言われる。
「創造的活動の言語は名詞よりはむしろ動詞を通して発話する」と。

ハイデガーは存在を了解することから、生成していくダイナミックな動きとしてその理解を展開させていったという。
まさに生成こそ創造ともいえる。

存在を問う哲学。
それはただ概念を覚えたり、理解するだけにとどまらず、必ずある動きを伴うことが実は大前提にある。
その動きのことをプロセス、生成する過程と表現したのは確かホワイトヘッド。

常に動きにある存在のこと。
存在とは神とも違う。われわれのようなある役割や思い込みの中に規定された存在の事を存在者という。
神のことを聖なる存在者とし、存在とは違うと言ったのはハイデガー。この微妙だが大きな違いのある認識。

では存在とは何なのか。
規定した途端に違うとなる。それはまるで量子力学の観察者効果のように、観察した途端、量子は違うものになってしまう。あるいはそこにいない。だから確率的な認識以外にその存在を確定できない。存在とは動きの中で生成するようにわかっていく過程でしか把握できないものなのかもしれない。

「哲学者が言っていることを繰り返すよりはむしろ、彼が当然視せねばならなかったこと、彼が口にはしなかったにもかかわらず彼が言ったことに現れてしまっていることを、哲学史は言わねばならない」とドゥルーズは言う。

人の人生そのものが存在の現れなのかもしれない。
死によってその人の存在が明確になることは誰でもが経験していよう。
死が存在を明らしめる。
生きるとは過程そのもの。成りて成るもの。
そういえば、旧約聖書に出てくる神ヤハウェは「在りて在るもの」と表現されていた。

答えはでない。
ただ語り続けるのみ。
そこで知らず知らず現れ出る何かがある。
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