『現代プレミア』加藤陽子×佐藤優×佐野眞一●広大で豊穣なる世界へ、ようこそより
歴史を肉体化する
佐野 加藤さんは、どういう基準で100冊を選びましたか?(※1)
加藤 意外性を重視しました。学者の日々の生活は単調でして、その反動で、目から鱗が落ちる話が私は大好きなんです。たとえばジョナサン・ハスラムの『誠実という悪徳 E・H・カー』。E・H・カーの奇人変人ぶりがよく描かれています。クリスマス休暇をとることすら嫌な真面目な歴史学者が、人妻と2回も、離婚と結婚を繰り返す。彼は19世紀合理主義では理解できない変な人たちの伝記を書きました。マルクスの伝記も、バクーニンの伝記も書いた。なぜ? と思うわけです。
私の場合、意外性のある本の中でも特に、目の前の世界が変わって見えるような体験をさせてくれた本というものがベストテンに入ってくるんですが、佐野さん、ベストテンの中で思い入れのある作品はありますか?
佐野 松本清張はたくさん票を集めていますが、その中から一冊と言えば、『昭和史発掘』(全9巻)の、二・二六事件の叛乱部隊を描いた「諸氏ノ行動」(第7巻に所収)ですね。二・二六を緻密に調べていて非常に印象深い。皇居の中に入る将校がいるんですね。彼は土手の上から警視庁に、手旗信号を送る寸前までいくんですよ。その手旗信号を合図に皇居に乱入して、天皇を確保しちゃうという手筈になっていた。ところが、たじろいで手旗信号を上げられない。それで憲兵に捕縛されるシーンが書いてあるんですが、これはすごいなと思いましたね。
加藤 同感です。
佐野 まざまざと浮かびますよね、手旗信号を送ろうとして送れなかった人間の姿が。歴史を肉体化して書くというのは、こういうことなんだなと思いましたね。
加藤 竹中労『鞍馬天狗のおじさんは』について「哀歓こもごもの色ざんげ」という評を書かれていますが。
佐野 語り口が見事なんです。僕の持論ですが、ノンフィクション作家は、声帯模写と形態模写が得意な人じゃないと、やっちゃいけない文芸です。アラカン(嵐寛寿郎)との芸談の合間に色ざんげという、女性との哀歓こもごもの関係を忍び込ませている。円熟期の竹中さんの芸が詰まった作品です。
加藤 模写ではないけれど、佐藤さんの会話再生能力はすごいですよね。同志社大学時代の会話まで、なんで再生できるのか。怪しいくらい(笑)。
佐藤 いや、簡単なことなんですよ。
加藤 ほんとうに?
佐藤 直近の会話を正確に再現できるようになると、子供の頃の会話の記憶も戻ってきます。たぶん頭の中の抽斗{ひきだし}にはぜんぶ入っているんでしょう。要はスイッチのひねり方なんです。これは私だけじゃなくて、インテリジェンスの連中が共通して言っていることです。インテリジェンスの業界では、会話を録音することは通常ないんです。
加藤 あ、そうか。相手が警戒するからメモも取れない。
佐藤 ええ。それに、メモを取ると忘れやすくなる。だから、数字と固有名詞以外についてはメモを取らない、という習慣がつくんですね。
佐野 僕も取材メモは取らないようにしています。忘れてしまうこともありますが、忘れるようなことは実はたいしたことではなかったりする。
佐藤 メモを取らない代わり、毎日、寝る前の5分間に必要な記憶を反芻するんです。たぶんノートにしたら20~30冊分の分量になると思う。
加藤 反芻する間に、頭が記憶を階層だてて整理してくれるわけですね。
佐藤 私がその手法を特に意識して使ったのは、512日間という勾留期間中でした。重要なことは何ひとつメモに書かなかった。しかし毎日、検事とのやり取りを反芻した。そうすると余計なことに、学生時代のことや子供の頃のことが全部よみがえってくる。「えい、この記憶、消えろ」と思っても、なかなか消えてくれない。その残っている記憶を使って売文業者として仕事をさせてもらっている、というわけです。獄中で、重要なことについてメモを取らなかったのは、拘置所ではノートの検閲があるからです。重要な情報が検察に抜けてしまう危険がありました。
加藤 佐藤さん、ベストテンを選ぶ際の留意点などを一つ。
佐藤 この10冊に関しては、買った人にカネを返せと言われない本にしようと思いました。たとえば、大庭柯公『露国及び露人研究』は、古本屋で2000円くらいすると思いますが、読んだ人に、少なくともカネを返せとは言われないと思います。これ、おべんちゃらでなくて、佐野さんの『甘粕正彦 乱心の曠野』を入れたのは、官僚全員にお勧めだからです。官僚組織ってこういうものよ、と。甘粕の運命はモラルの高い中堅官僚の典型ですよ。だから、私は官僚モノとして読みましたね。
佐野 東北学の研究者の赤坂憲雄さんのスタッフが我が家へ来て、この本を「東北人の物語ですね」と言うんです。甘粕は仙台出身で、戊辰戦争の敗軍の一族なんですね。
佐藤 だから、薩長史観に反する。
佐野 そうそう。彼らは帝都に出てもダメだから満州へ飛んで行く。そしたら、また長州に敗れるわけです。つまり、山口出身の岸信介、鮎川義介、松岡洋右にやられる。因果はめぐるんですよね。
■話題に上がった書籍リンク
誠実という悪徳―E.H.カー 1892‐1982
昭和史発掘(第7巻)
鞍馬天狗のおじさんは
露国及び露人研究
甘粕正彦 乱心の曠野
■現代プレミアブログ編集部注
※1:『現代プレミア』において、加藤氏、佐藤氏、佐野氏をはじめ10人の作家ひとりにつきノンフィクション100冊を挙げていただいた。
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