玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」78号発刊

2019年01月02日 | 玄文社

「北方文学」78号が発行になりましたので、ご紹介します。先号が244頁で、それでも最近では薄い方でした。このところ300頁前後の号が続いていましたが、久しぶりに100頁台に落ち着きました。
 編集後記に書きましたが、77号発行後同人の入院が相次ぎ、書きたくても書けないという状況がありました。特に大井邦雄の4カ月にわたる入院とその後の療養生活は、グランヴィル=バーカーの『オセロー序説』訳述の連載を中止のやむなきに至らせました。次号からの復帰を祈るばかりであります。
 巻頭は長編小説の連載を続けてきた魚家明子の詩「ねむりの意味」。もともと詩人として活躍してきた彼女ですが、「北方文学」に詩作品を発表するのは初めてです。今号表紙絵の北條佐江子「眠り」に呼応するかのようなタイトルです。しかし、「ねむりの意味」は魚家の身体感覚のようなものに貫かれています。ある意味ではエロティックな……。詩と小説の両方を高い水準でこなす彼女の才能に賛辞を送りたいと思います。
 続いて、館路子の死が二編。「水滴を編む、その生きものは」は短く、次の「朔風の時まで夜を籠めて」はいつもの長詩で、どちらも蜘蛛をモチーフにした作品です。このところずっと動物を素材にした作品を書き続けている彼女らしい作品です。不気味な上臈蜘蛛の姿が、館の巧みなレトリックによって、この上もなく美しいものに変貌していきます。
 評論のトップは徳間佳信の「泉鏡花、「水の女」の万華鏡(一)」です。彼が偏愛する泉鏡花についての論考の序章ということになります。まずは宣言。徳間は泉鏡花の作品を文学理論の構築に利用するような強引さも、あるいは逆に現実の生活に還元するような立場も同様に否定します。そうではなく「作品分析を通じてその魅力を語ること」を目標として鏡花論は始まるだろう。次号から個々の作品論に入ります。テーマは「水の女」楽しみです。
 柴野毅実の「ベンヤミン――ボードレール――文化人類学」というタイトルは、ありそうもない組み合わせになっていると思われるかも知れないが、読んでみると決してそうではないことが分かります。〝ゴンゾー人類学者〟ことマイケル・タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』の紹介です。
 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も12回目となります。先号に続いて70年代前半を扱うが、高度経済成長と学生運動の時代を背景に県内詩人達の動静を探ります。現存の詩人達の登場で俄然面白くなってきた鈴木の詩史も、この頃から資料も特に多くなって詳述を強いられるでしょう。細かく読んでいくことで面白みはさらに増すのです。
 福原国郎の「凋落」をジャンルとしてはなんと呼べばいいのでしょう。一応「史伝」として位置づける。彼が続けてきた先祖の記録を読み解いての歴史の再現です。福原の祖父、信治郎の生涯をたどります。これが小説のようにめっぽう面白い。これまでで一番読みやすく、面白いことを請け合います。
 続いて小説が二本。先に新村苑子の「新しい朝」。久しぶりに新潟水俣病というテーマに戻っての作品です。新村は新潟水俣病に関わる差別と偏見のあり方を執拗に描いてきましたたが、今回の作品もその延長線上にあります。このような小説は彼女にしか書けないでしょう。
 ラストは魚家明子の「眠りの森の子供たち(五)」で、これで一大長編小説の連載を終わります。最後はトリッキーな部分もありますが、これまで積み重ねてきた伏線を最大限生かして、壮大なコーダとして終わります。それにしても彼女の描く登場人物たちのなんと魅力的だったことか。お別れが辛いという気持ちを抱く人も多いことでしょう。お疲れ様でした。

目次を以下に掲げます。

魚家明子*ねむりの意味
館 路子*水滴を編む、その生きものは
館 路子*朔風の時まで夜を籠めて
徳間佳信*泉鏡花、「水の女」の万華鏡(一)
柴野毅実*ベンヤミン――ボードレール――文化人類学
--マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』を起点に--
鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史 隣人としての詩人たち<12>
福原国郎*凋 落
新村苑子*新しい朝
魚家明子*眠りの森の子供たち(五)   

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

 

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