玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』(10)

2018年03月26日 | 読書ノート

 グッドウッドは少なくとも3回はイザベルの前に現れて、執拗に求婚するのだが、最後の場面は極めて印象的であって、そこでいざイザベルの心理も、グッドウッドの心理も顕わになるのだと言ってもよい。
 イザベルはこのときラルフ・タチェットの死をみとったばかりであり、彼との真の愛情を確認したばかりである。そんなタイミングでグッドウッドが現れて求婚すること自体に無理があるが、それがイザベルにとって苦痛であることはあまりにも明白である。また作者は承知でこのような無粋なことをさせているのである。
 だからギルバートのもとへ帰ることを指弾されて、「あなたから逃げるためよ」という最後通牒が発せられる。しかもそれはイザベルが「けっして愛されていなかった」ことの自認の意識を随伴していた。
 イザベルは、グッドウッドだけでなく、誰にも愛されていなかったということを、ヘンリー・ジェイムズは言いたいのだろう。おそらくラルフ・タチェットを除いては。
 しかし、グッドウッドの最後の求愛は、決定的にイザベルをギルバートのところへ帰らせるきっかけとなるだろう。考えてみれば、とてもうっとおしいグッドウッドという人物を、なぜヘンリー・ジェイムズは登場させるのかと言えば、おそらくこの最後の場面のためなのである。
 ところでヘンリー・ジェイムズは20本以上の長編小説を書いていて、私が翻訳で読んだのは10編そこそこであるにしても、徹底的にハッピーエンドを嫌った作家であることはよく分かる。最後に主人公が幸せになる作品など1編もない。
 前言を修正するようなことになるが、やはりここには作者のサディスム的心性が潜んでいると言わざるを得ない。登場人物をひどい目に遭わせ、不幸の底に追い込むのは、マルキ・ド・サドの『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』以来のサディスムの伝統ではないか。
 あるいは心理小説というものが、もともとサディスム的心性によってのみ可能だということは、コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』を読めばすぐに分かる。
 ラクロの『危険な関係』は清純な乙女を道徳的に堕落せしめ、籠絡する過程を微に入り細を穿って描いた作品である。この作品もまたフランスの心理小説を代表する作品であり、作者のサディスムによってこそ書かれ得た作品なのだ。
 一方、ではなぜヘンリー・ジェイムズはギルバート・オズモンドがマダム・マールと共謀して、イザベル・アーチャーを籠絡する過程を描かなかったのであろうか。そこにはヘンリー・ジェイムズのサディスムの不徹底が指摘されるのであろうか。
『ある婦人の肖像』に欠点があるとすれば、それはイザベルがギルバートに惹かれていく過程がほとんど書かれていないところにある。ウォーバトン卿とグッドウッドの求婚をあれほどに峻拒したイザベルがなぜこうもやすやすと、ギルバートとの結婚を受け入れてしまうにかが分からないのである。
 知らぬ間に二人は結婚し、知らぬ間に夫婦の危機を迎えている。あれほど知性的であったイザベルがギルバートのどこに惹かれて結婚し、どのようにして危機に向かっていくのかが書かれていないのだ。
 やはり私はそこに、ジェイムズのサディスムの不徹底を見ないわけにはいかない。後期の作品たとえば『鳩の翼』ではマートンがケイトとの結婚資金調達のために、ミリーの遺産を手に入れることを目的に、彼女に取り入ろうとする過程が克明に描かれているし、『金色の盃』ではアメリーゴとマギーの夫婦生活が破綻に至る経緯もきちんと書かれている。
 心理小説はサディスムが要求する形式である。これが私の結論なのであるが、しかしこの問題は『ある婦人の肖像』からは見えてこない命題である。
(この項おわり)

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