玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

不幸の形

2006年11月02日 | 日記
 「ひとの幸福はみな同じだが、不幸はそれぞれみな違っている」という名言を残した人がいる。他人の幸福を共有することはむずかしく、その幸せはみな同じに見えてしまうが、他人の不幸は身につまされること多く、その不幸のあり方の多様な形に驚かされてしまう。
 中越大震災から丸二年が経って、会田市長は仮設住宅に未だに居住を強いられている世帯を訪問した。同行取材して、多くのことを考えさせられた。テレビでは、最も大きな被害のあった旧山古志村の被災者を二年間追い続け、映像を流し続けたが、柏崎の仮設住宅が取り上げられることはほとんどなかった。
 旧山古志村の被災者の不幸の“総量”は、柏崎のそれよりはるかに大きいが、一人ひとりの不幸の量に違いがあるわけではない。柏崎の被災者のひとりは「山古志のことばかりニュースにして、なぜ私達の声を聞いてくれないんだ」と訴えた。報道としての怠慢を恥じた。
 安野一雄さん(66)は、西山町北野で被災し、家屋は半壊。役場の「合併まで待ってくれ」との指示で、傾いた家に住み続けたが、全壊の判定をもらって一昨年十二月二十九日にようやく宝町の仮設住宅に入居した。家は二百五十万円かけて改築したばかりだった。市営住宅に入りたかったが、息子の将来を思って住宅を再建することにした。生命保険等も含め、預金を取り崩して再建資金に充てた。七十歳まで働かなければ返済の目途はたたないという。
 北条四日町の加藤清蔵さん(76)は、仮設住宅のリーダーとして住民の面倒を見、市との交渉役をつとめてきた。四日町では高齢者や病気がちの人が多かったため、冬は一人で除雪を買って出て、市職員に雪下ろしのお願いもした。加藤さんの自宅は全壊し、自身仮設住宅の入居者であったが、自宅の再建がなっても、夜は家族と離れ一人仮設住宅に寝泊まりして、入居者の世話をしている。入居者の孫の幼稚園への送り迎えまで引き受けてきた。
 しかし、十一月いっぱいで加藤さんは自宅に戻る。四日町では三世帯が冬を越すことになっている。除雪の心配もあるが、加藤さんは“心を鬼にして”入居者の自立を促すという。そんなことを話す加藤さんの表情には、“心配でたまらない”という内心の思いが現れていた。

越後タイムス10月27日「週末点描」より)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿