身だしなみを整えることの重要性を私は知っているつもりである。
なぜなら人間の中身は見えないが、人間の外見は誰にでも見えるからである。
人間皮を一つはげば皆おなじ骨なり。姿形にとらわれず心を見よ、なんて発言は宗教家に任せておけばいい。
私たちは世間に生きる俗人なのである。
それに人の容姿はその人間の内面に大きな影響を与える。人を外見で判断するのは、言われているほど大きな誤りでもないはずだ。
とは言うものの私には「装う」方法が理解できない。
まず私には職場でのアイデンティティーを確立するための制服がない。
サラリーマンならスーツ、軍人なら軍服、給仕なら燕尾服やウェイトレスの衣装を着ることで自分のスタイルとするものだ。
しかし院生である私にはそんなものはない。私は実験をしないので白衣を着ることはないし、持ってもいない。理系の院生だから白衣を着ているというのは誤解である。
毎日計算ばかりしているだけだから、一年中私服なのである。
では普通に服を着こなせばいいのかもしれないが、そんなものを私は知らない。第一、私は生まれてから今まで自分で服を買ったことは一度もない。
全部親か兄か姉か親戚がくれた服である。靴下やパンツでさえも父や兄からのお下がりだ。兄や姉のくれる服は何万円もするいい服らしいのだが、私には着こなしというものが分からないので台無しである。たとえば5年間はき続けて靴底のはがれた運動靴と商店街の福引でもらった紫色の靴下をはいて、穴の開いたジーンズの上にアル○○(?。名前を忘れたが、何か良いブランドらしい)の上着を着ていたら、兄に「まるでキチガイみたいだ」と怒られたことがある。
またレストランに行くときキチンとした格好で来いと言われたので、「礼服」=「黒い服」と考え黒のジーンズと灰色の上着を着て行ったら着替えさせられたこともある。
言われれば何が悪いのかなんとなく分かるのだが、言われるまでは全く気がつかないことの方が多い。
髪型も何がいいのかさっぱり分からないので、床屋に行けば「短く」としか注文したことがない。
私には9年間着ている服があり、9年前の写真の中の自分と現在の自分が同じ服を着ていたりして同僚を感嘆せしめたこともある。
ベルトは兄がゴミ箱に捨てていたものを拾って10年以上使っている。
メガネは落として踏んでフレームが歪んで壊れたものをヒモでつないで使っている。
靴は最近4年ぶりに新しいのを一足もらった。
服の着こなしは私の醜態を見かねた母が全て指示するようになった。逆らう理由もないので従っている。
母に言わせれば、それでも私は精神病院から逃げ出してきたような格好をしていることが多いらしい。
しかし私の生活圏は限りなく狭い。どんなに洒落(しゃれ)ても見てくれる人間がいないから、困ることもないのである。
周囲の先生も、夏は毎日半ズボンで過ごしていたりする。
別の大学の先生はヨーロッパに行った時、政府の主催するパーティーに呼ばれて「どんな格好で行けばいいのか?」と聞いて「ご自由に」と言われたので、半ズボンと半そでシャツで参加し、民族衣装で礼装したトルコ人に怒られたそうである。
ところで以前、東京に戻ったとき上野公園を散歩していたところ、眉間に大きな傷のある黒人が私に寄って来て「お兄さん、いい仕事あるよ!」と声をかけてきた。
、、、私は何に見えたのでしょうか?
と言うか、あの黒人は何者だ!?
なぜなら人間の中身は見えないが、人間の外見は誰にでも見えるからである。
人間皮を一つはげば皆おなじ骨なり。姿形にとらわれず心を見よ、なんて発言は宗教家に任せておけばいい。
私たちは世間に生きる俗人なのである。
それに人の容姿はその人間の内面に大きな影響を与える。人を外見で判断するのは、言われているほど大きな誤りでもないはずだ。
とは言うものの私には「装う」方法が理解できない。
まず私には職場でのアイデンティティーを確立するための制服がない。
サラリーマンならスーツ、軍人なら軍服、給仕なら燕尾服やウェイトレスの衣装を着ることで自分のスタイルとするものだ。
しかし院生である私にはそんなものはない。私は実験をしないので白衣を着ることはないし、持ってもいない。理系の院生だから白衣を着ているというのは誤解である。
毎日計算ばかりしているだけだから、一年中私服なのである。
では普通に服を着こなせばいいのかもしれないが、そんなものを私は知らない。第一、私は生まれてから今まで自分で服を買ったことは一度もない。
全部親か兄か姉か親戚がくれた服である。靴下やパンツでさえも父や兄からのお下がりだ。兄や姉のくれる服は何万円もするいい服らしいのだが、私には着こなしというものが分からないので台無しである。たとえば5年間はき続けて靴底のはがれた運動靴と商店街の福引でもらった紫色の靴下をはいて、穴の開いたジーンズの上にアル○○(?。名前を忘れたが、何か良いブランドらしい)の上着を着ていたら、兄に「まるでキチガイみたいだ」と怒られたことがある。
またレストランに行くときキチンとした格好で来いと言われたので、「礼服」=「黒い服」と考え黒のジーンズと灰色の上着を着て行ったら着替えさせられたこともある。
言われれば何が悪いのかなんとなく分かるのだが、言われるまでは全く気がつかないことの方が多い。
髪型も何がいいのかさっぱり分からないので、床屋に行けば「短く」としか注文したことがない。
私には9年間着ている服があり、9年前の写真の中の自分と現在の自分が同じ服を着ていたりして同僚を感嘆せしめたこともある。
ベルトは兄がゴミ箱に捨てていたものを拾って10年以上使っている。
メガネは落として踏んでフレームが歪んで壊れたものをヒモでつないで使っている。
靴は最近4年ぶりに新しいのを一足もらった。
服の着こなしは私の醜態を見かねた母が全て指示するようになった。逆らう理由もないので従っている。
母に言わせれば、それでも私は精神病院から逃げ出してきたような格好をしていることが多いらしい。
しかし私の生活圏は限りなく狭い。どんなに洒落(しゃれ)ても見てくれる人間がいないから、困ることもないのである。
周囲の先生も、夏は毎日半ズボンで過ごしていたりする。
別の大学の先生はヨーロッパに行った時、政府の主催するパーティーに呼ばれて「どんな格好で行けばいいのか?」と聞いて「ご自由に」と言われたので、半ズボンと半そでシャツで参加し、民族衣装で礼装したトルコ人に怒られたそうである。
ところで以前、東京に戻ったとき上野公園を散歩していたところ、眉間に大きな傷のある黒人が私に寄って来て「お兄さん、いい仕事あるよ!」と声をかけてきた。
、、、私は何に見えたのでしょうか?
と言うか、あの黒人は何者だ!?
人は、意識的乃至無意識的に環境に適合しようとし、服装も変わっていく。
従って、機能・外観等の複合的な意味において(外観も広義では機能に内包されようが)、服装は、自分の環境で生活するために、もっとも適した格好となる。
例えば、寒い環境では防寒具を求める。
なぜなら、生存のため、寒さを凌ぐ機能の必要性と、嘲りを免れるため、周囲に自己の外観を一致させる必要性とがあるからだ。
しかし、さほど寒くないならば、防寒具は不要だ。寧ろ動きづらい。
雨の日には傘を用意する。
しかし、晴れの日には、それはかえって邪魔となる。
同じことが君の服装についても言える。
例えば、講員君の装いが瞠目するほど間抜けで、常軌を逸しており、私と道を歩いているときに人攫い呼ばわりされるような、全裸より酷いものであるとしても、だ。例えばだぞ。
それは君のいる環境に適合している服装なのだ。
我々には想像もつかないが、君の装いから推察するに、恐らくそれは瞠目するほど間抜けで、常軌を逸しており、人攫いが横行しているような、全裸の人間が闊歩するより酷い環境なのだろう。
双眸に自信の光を湛え、傲然と胸を張るがいい。
君の着ている服は、瞠目するほど間抜けで(以下略)という機能・外観を有しているという意味で、君の居る環境において、いかなる高級ブランドよりも価値が高いのだから。
本当はそんなこと思ってないけど。
これで先生の無意味に他人に威圧感を与える服装も、まるで香港マフィアが金を持ち逃げしたチンピラを追いかけているような着こなしにも合点がいきました。
つまりそれは数限りない恨みを買い、いつも襲撃者に備え、月夜の晩に気をつけないといけない先生の過酷な環境を反映していたのですね。
それと恐れながら一つだけ言わせていただきますと、あの日私たちを見て子供づれの母親が慌てて子供を抱えて逃げ出したのは、私が人攫(さら)いに見えたせいではないと思います。
あれは先生が人殺しの目をしていたせいだと、私は確信しております。