机の上

我、机の上に散らかった日々雑多な趣味(イラスト・劇画・CG・模型・HP・生活)の更新記録です。

人流とはこれ如何に

2021-08-17 15:41:00 | 勝手な言い草

 大雨が降り河川が氾濫するのは天災で、人の流れが溢れるのは人災であるから何とか誘導出来るとは東京都小池知事のおおむねの意見だ。

 人の流れは人災でコントロール出来るとは、また幅のない意見である。人の流れをコントロール出来るのであれば戦争も起きないし、いじめや暴力も無くなるであろう。

 人とは欲望の塊である。渦中の五輪であっても一位になりたい金メダルが欲しいというのも欲望であるし、国家を挙げて五輪を成功させたいというのも欲望である。

 その欲望の上澄みをくすねて生きているような輩にこのような事を言ってもらいたくない。ここはひとつ国民の皆様どうぞよろしくお願いいたします、だろう。なんなら平伏してもよい。

 病院の寝台が不足していて人が亡くなっている。仮説の医療設備を造らないのが人災だろう。人の流れ、いわば人の気持ちはコントロール出来るというのであれば、まずは自分の胸に手を当ててもらいたい。


八月に想う

2021-08-15 06:53:00 | 勝手な言い草

 五輪が終わった。今想うとせっかく八月にやるのであれば長崎か広島、あるいは両方でも良かったような気がする。復興五輪なのだから東北でと言う論者もいたが、I・О・Cのバッハ会長が長崎の原爆犠牲者に向けての選手達の黙祷を拒否したという記事を見て尚更想う。

 過去の大戦のスローガンのひとつに「欲しがりません勝つまでは」というのがあった。ひとり一人が贅沢をすてて戦争に加担するというものである。
勝ったところで、国民に贅沢は与えられたのであろうか?今の国情をみても判る通り、そうとも言えない気がする。国はもっと国民に対してつけ上がったであろう。勝ったとしても、それは一時的な事で世界中が敵となって結果、敗戦を迎えたであろう。

 今回の五輪はどうなのであろう。結果中止にならなかった。この国が戦争を始めると言い出しても、国民は戦争中止には出来ないのであろう。戦争と五輪を一緒にするなと怒られそうだが、このコロナ禍は有事と言っても過言ではなかろう。それでも開催された。金メダルにはそういう力もあるようだ。

 コロナで死者が出ても五輪は関係がない、原因は飲食店にある、人の流れにある、国民一人ひとりにあるとは、ひたすら国の見解だ。召された競技者は召集令状を受け取った兵士に似ていると言ったら言い過ぎだろうか。平和の祭典と言っても所詮は争い事だ。表があるのなら裏もあるのだろう。

 コロナと五輪、この掛け合わせは今後、禁句になるのであろう。欲しがりません勝つまでは。勝たなきゃ貰えない金メダル。
この五輪、これを境に先の大戦を遠い過去のものにしてしまったような気がしてならない。


異型、異質、変異?

2021-08-10 18:49:00 | 日々是茶飲み話
 昨今の新聞の見出し。異形の五輪終焉、あるいは異質の五輪終焉とある。
最初から東京五輪には反対であった。ましてやこのコロナ禍の中では尚の事である。

 金メダルが過去最多とある。その一方ではコロナで自宅療養中に亡くなるという人達もいる。素人発想で言わせて貰えれば国立競技場の設備を全部、取っ払って医療ベットを並べればいいと思う。

 医療従事者の門戸を広げてインターンや医療学生にもある程度の医療資格を与える等をして幅を広げて対処してもいいと思う。戦時中には、そうした事例もあったという。

 病院にも入れずに、自宅で亡くなるなんて戦時中のアッツ島玉砕や南方でマラリヤにやられ、飢えて戦死した人達と同じだと思う。見殺しだ。

 政府や政治家は今の状況を深刻には捉えてはいないのであろう。
だからなのか、ヒトの金メダルを平気でかじるだなんて馬鹿も出てくるんだ。
異形、異質の宴?いや、もはや五輪も変異しているのだろう。

小心、傷心、焦心

2021-08-07 05:39:00 | 日々是茶飲み話
 自分で言うのも何であるが、小心者である。ついでに怖がりでもある。
だから子供の頃から恐怖緊迫したドラマや映画は苦手であった。親に連れられて観にいった映画も怖いシーンがくると座席の下にもぐって、やりすごしたものである。

 さて五輪開催中であるが、極力観ないようにしている。負けた方々を見るのはつらいのである。相手国はもちろんのこと自国の個人団体にいたっては尚更である。
とくに勝つ事を約束され、負けた方々へのマスコミのインタビューなどは残酷極まりなく見るに耐えないのである。

 先に話したが、恐怖映画が嫌いである。日本の幽霊はもちろんゾンビも悪魔も嫌いである。とくにゾンビ映画が嫌いである。なぜこの様な事を持ち出すかというと、負けて落胆している選手を見ていると、まるで生きながら死んでいるように見えるからである。

 試合に負けて、命までも盗られたに似つかわしい状態で、それでも尚、聴衆にアピールしなければならない、その様、姿はやはり残酷だ。見るのは辛い。
ましてやコロナ禍の五輪、早く終わってくれないかと思っている。早く終わって時間が経過して、選手達も傷心から昇進に気持ちが切り替わってくれることを望むばかりである。

 コロナ禍の五輪。小さくて目にも見えない細菌と、増大する人間の欲望の塊りでもある五輪とは対照的だ。残念ながらコロナ菌にはどういう考えなのかインタビューは出来ない。微細なコロナ菌には欲も得もないのだろう。小さいながらも彼らに彼らなりの是非があるのだろう。

 増大する人間の欲望と慢心の片方には、想いとは別の矛盾が発生しているようだ。矛盾と書いたが自然の摂理と言ってもいい。今の時代の人間は何を見習って生きているのだろう。何を手本に問うていけばいいのだろう。

 いつの世にも、犠牲になるのは小心な者達だ。




絵はタイトルのロゴを変えてみた。暑い日が続き、机の上にはむかっていない。
恐縮。